空間の公共性を問う
– 真壁智治「臨場」から窺う渋谷問題への気付き(第5回)|連載『「みんなの渋谷問題」会議』

この連載について

渋谷再開発は百年に一度とされる民間主導の巨大都市開発事業で、今後の都市開発への影響は計り知れない。この巨大開発の問題点を広く議論する場として〈みんなの「渋谷問題」会議〉を設置。コア委員に真壁智治・太田佳代子・北山恒の三名が各様に渋谷問題を議論する為の基調論考を提示する。そこからみんなの「渋谷問題」へ。

真壁智治(まかべ・ともはる)

1943年生れ。プロジェクトプランナー。建築・都市を社会に伝える使命のプロジェクトを展開。主な編著書『建築・都市レビュー叢書』(NTT出版)、『応答漂うモダニズム』(左右社)、『臨場渋谷再開発工事現場』(平凡社)など多数。

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空間の公共性を問う

 空間の公共性とは本来、多様な人々に等しく享受されるべきものであるはずで、通路も公開空地も広場も公園も広くこの空間の公共性という括りの中にある、はずでなければならない。
 空間の公共性については、一方的に与えられるものではないし、時代や社会を良い方向に導くための空間の公共性の在り方も、管理者と利用者との間でコンセンサスが得られてこそ、その有益性が発揮されるのだ、と考える。
 従って空間の公共性のレベル、つまりは公共性の解釈は、時代と社会に応じて討議・検討されるべき問題なのです。原則的で、硬直的に、官僚的にのみ空間の公共性が規定され、語られることは大変恐ろしく、都市に輝きが失われかねない。一方で空間の公共性を語る上で、場の公と民との臨界もデリケートな部分を示している。これは土地所有の帰属の問題ではなく、公民協業的な場面が都市の場に多く見られるようになって来たことに由来するものになる。
 ところで私たちは渋谷再開発の遂行の内で、とても稀な都市体験をして来ているのではないか。
 それは空間(場)の公共性との出会い方、という問題なのだ。
 工事の進行事情で仮設通路が生じる。
 例えば渋谷駅中央改札から「ヒカリエ」方面あるいは井の頭線へ向う仮設通路の存在であった。
 当初それらはまさに「名前のつかない場」、あるいは「色のつかない場」でしかないものでした。
 移動上の単なる仮設通路、としか映らず、その程度の認識でしかなかった。
 それが次第に「安定した仮設通路」としての仕様を獲得し、その場を往来する多くの人びとが共通の利益を享受しえている実感が育ってくるとそれまでの「名前のつかない場」から「みんなの通路」へと評価が変ってくる。
 ここに見るのは、仮設通路であっても、そこが公共空間と指定されなくとも、その場の設えや人びとのふるまいを通して、空間の公共性が自生し、「みんなの通路」としての評価が得られるようになったのであろうことなのだ。
 
 それと、対比的なのがJR渋谷駅中央改札から向う「スクランブルスクエア」東棟三階前の通路である。
 「スクランブルスクエア」東棟が内装工事中の期間までこの通路は仮設の眺めを帯びていた。この状態の方が遙かにその場の公共性が感じられたものです。
 ところが、内装工事が完了し、「スクランブルスクエア」東棟がオープンするや公と民との臨界が際立ち、空間の公共性が一気に引いてゆく。
 この感覚はいまだに尾を引いていて、「スクランブルスクエア」東棟前通路の公共性は微妙なのです。民の滲み出しがどうしても公の通路に現われてくるからである。民の彩りや華やかさが「通路」を同質化し、差別化してしまうメカニズムが公共空間を侵攻している。公共貢献とされるこの通路を公が完全にコントロールし切れていないのである。
 更に、渋谷再開発での公共貢献の目玉とされる「アーバンコア」も又、その公共性の実感が多少微妙だ。
 つまりは「みんなの通路」としての評価がそこまでに至っていないのです。
 垂直移動の便利さは在るものの、その場が公共空間である、という認識までにはならない。それはどこかで「公共貢献」に備わる微妙な体質を往来する人びとが感じ取るからでもあろうか。
 「ヒカリエデッキ」の公共貢献に至ってはそこに備わる体質がもっと露骨で、極めて限定的な空間の公共性しか感じられないものになっている。
 結局、公共貢献も、空間の公共性を皆が感じ取ることが出来なくては、その役割が完全には評価されないことに開発主体はもっと深刻に気付かなくてはならないのである。
 これも空間の公共性の問題として「渋谷問題」に大きな狼煙として記しておく。
 いずれにしても渋谷再開発に於ける「公共貢献」の実態を検証することは「みんなの渋谷問題」には欠かせない論点なのである。

(つづく)

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