豊かな虚ろ – 真壁智治「臨場」から窺う渋谷問題への気付き(第28回)|連載『「みんなの渋谷問題」会議』

この連載について

渋谷再開発は百年に一度とされる民間主導の巨大都市開発事業で、今後の都市開発への影響は計り知れない。この巨大開発の問題点を広く議論する場として〈みんなの「渋谷問題」会議〉を設置。コア委員に真壁智治・太田佳代子・北山恒の三名が各様に渋谷問題を議論する為の基調論考を提示する。そこからみんなの「渋谷問題」へ。

真壁智治(まかべ・ともはる)

1943年生れ。プロジェクトプランナー。建築・都市を社会に伝える使命のプロジェクトを展開。主な編著書『建築・都市レビュー叢書』(NTT出版)、『応答漂うモダニズム』(左右社)、『臨場渋谷再開発工事現場』(平凡社)など多数。

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豊かな虚ろ

 ハチ公改札を出て、宮益坂へ向う。

 その先に新設された天井の低い躯体を潜ると、一気に目の前に広大な高い空を持つヴォイド空間が広がる。

 今まで見慣れていた光景と少し異質な気配が感じとれた。

 これまで在った工作物も撤去され、見通しの利くヴォイド空間がそこに現前しているのだ。

 ユッタリとしたアスファルトの緩い斜面で、歩道・広場とも定まらない名付けようのない場所である。

 実は、宮益坂口へ向う低いJRの出入口を潜る折に、自然と私たちの視線も低く構えるということが無意識に行なわれる。

 丁度そこの地点がスリバチ底部の端になり、厳密に言えば私たちの視線が低くなるのではなく、自然に腰が沈み込み、結果として視線が下がったものなのです。これが地勢に対する私たちの無為な身体反応としての身構えになり、上りには「上り」の、下りには「下り」の、曲がりには「曲がり」の無為な身構えがある。これも環境に織り込められた「アフォーダンス」と理解出来るだろう。

 こうした低い身構えと相俟って大きな緩い「空白」の斜面が感知されたのである。

 この場所を際立たせて感じさせる二つの「エッジ」の存在がある。

 一つは「渋谷ヒカリエ」や「渋谷スクランブルスクエア」東棟のバーチカルな「エッジ」。もう一つは「ヒカリエブリッジ」のホリゾンタルな「エッジ」です。これらがヴォイド空間の空の高さと広さを誘導している。

 緩くスプロールする斜面の「抜け」に二つの「エッジ」が「受け」として作用していて、このヴォリューム感のあるヴォイド空間が感知されたのです。

 バスターミナルも広場も、歩道として一斉が整わない今だからこそ定まらない場所が裸の豊かさを示す地勢として名付けようのない様態(姿)に映ったものだった。

 この一瞬に生まれた大きな虚ろの場こそ、再生特区だからこそ覗きえた副産物的な光景なのかもしれない。

 ここに見た一瞬の「豊かな虚ろ」は都市の裡に生起した「無場所」となるものになろう。

 そして、場に公共性が生まれる以前の状態を育んでいるからこそ私は原初的な場所の資質をそこに読み解くことが出来た。

 この時点で突然に体現が感知された「豊かな虚ろ」を「アーバン・ヴォイド」と呼ぶことにしよう。

 この「豊かな虚ろ」は緩く上がる宮益坂の奥へと延びてゆく。

 こうした「アーバン・ヴォイド」のスぺクタルを観賞しえたのも、「」(「受け」)となる渋谷駅東口更新の為の「もう一つの時間」の工事が一定具体的な姿を見せ始め、足元を整理・整備し出した整えがあってのことで、この場所の「エッジ」と「背」の布置が大きく作用している。

 私はここに見た「豊かな虚ろ」が、一体どの様な「公共性」をみんなの共通利益として獲得するのかを注視してゆきたい。

 ここで「豊かな虚ろ」としたが、私が感知しえた場所感覚は「虚ろな様態が示す豊かさ」についてのことになる。

 虚ろな様態が持つ豊かな資質としては、意図を介さないもの、そして定まらないもの、未完結なものを含む。だから虚ろな場所はとりとめのないものになりがちで、正にこの時点での宮益坂口を出た先の「アーバン・ヴォイド」はとてもとりとめがない場として往来の人びとに体験されているに違いない。

 オープンスペースの内で良くデザインされた「豊かな虚ろ」を持つ場所も在ろうが、格段何も無く手が入らない「豊かな虚ろ」を示す場所も在るものだ。

 ここに見る「アーバン・ヴォイド」では正に「エッジ」や「背」が「受け」となって格段何も無いその場の豊かさに気付かせてくれている。

 これが「豊かな虚ろ」としたものなのであった。

 ここで想うことは都市のオープンスペースの資質についてである。一般的に施設はその場の使用・用途が特定され、施設としての機能設定が図られる。この経緯から都市のオープンスペースも無縁ではなく、至る所都市のオープンスペースは「施設」として紐づけられ、制度化されてゆく。

 ですから、都市のオープンスペースである「アーバン・ヴォイド」に見た、束の間であれ帰属も使用・用途も不明な裡での豊かさの体験は貴重なものになるのです。結局の所ここでのオープンスペースの豊かさとは、施設化(用途化)されたそれらからは感じ取ることが出来難く、計画性よりは偶発性、統一性よりは不均衡性、完成度よりは未完成などを指し、建築家青木淳の「原っぱ」の概念の内にもこのオープンスペースの豊かさを見ることが出来る。

 施設化が特定されていないオープンスペースからは自由な想像力や多様な読み取りが生まれる豊かさが備わっています。

 現在のJR渋谷駅の外周を一回り巡ると、工事の最中に現われる「アーバン・ヴォイド」に幾つか出会うことが出来る。それらはJR・メトロ・東急電鉄・東急不動産・国交省・国道事務所・渋谷区などが絡む権利や既得権が錯綜する場所なのだが、再開発工事中に在る為か、一時帰属が不明な「無場所」が束の間体現しているからなのです。

 例えば今の「ハチ公広場」。

 防護パネルで囲われた解体現場が目の前に立ち現われている。ハチ公広場の拡張も既成のことで解体が完了し次第工事が着工されよう。そんな不安定な状態の広場だから、広場としての施設性を感じることなく、雑然とした「アーバン・ヴォイド」としての印象しかない。

 一旦この場をその様に認識してしまうとここからも「豊かな虚ろ」の体現を、新広場竣工までの一時、感じとることが出来るはずだ。解体工事の為の防護壁が「エッジ」となるスリバチ底部からは高い空がここでも仰げる。

 次に、例えば渋谷駅南口前。

 ここにも「アーバン・ヴォイド」が形成されている。

 JRと井の頭線との連絡仮設通路を支える夥しい数の太い橋脚群と「エッジ」効果を生んでいる「渋谷フクラス」、それに東急西館解体の為の防護壁とが一体となって実にコンストラクチュアルな「アーバン・ヴォイド」が生起している。

 これまで見たどの「アーバン・ヴォイド」よりも構築的な表情が強く、動態感のある虚ろな場となっていて、これも偶発的なアーバニティとして楽しめる。

 ハチ公広場のハチ公像と同様、渋谷駅南口前のモヤイ像も嘗てのシンボル性はすっかり消失し、「アーバン・ヴォイド」の内ではほとんど影が薄い。

 「アーバン・ヴォイド」にはアイコンを漂白し、その神話性を無効にする力が備わっているようで、なによりもそれらを「がらくた」(値打ちのなくなった雑多な品物)に代えてしまっているから痛快だ。なので改めてその場に無名で野性的な豊かさが漂ってくるのである。こうしたコンストラクチュアルな「アーバン・ヴォイド」には「グラフィティ」が良く馴染む。「グラフィティ」には都市に渦巻く過剰な意味や神話に打撃を加え、無効にし、野性を奪い返す力を見ることが出来る。

 更に例えば二本の「チューブ」(「ヒカリエブリッジ」と「メトロ銀座線渋谷駅」)と「渋谷スクランブルスクエア」東棟との隙間に生じているヴォイド空間も、ソリッドなアメニティを感じさせる「豊かな虚ろ」を表出している。

 ここは渋谷でも珍しい屋外空間の断面が一定同じ状態が続く「RUN」(土手・線路・街路などに見る一定の様態が持続する場)の様態を示していて、非意味濃度の高い「アーバン・ヴォイド」として感知されよう。

 都市のゲシュタルト(経験の体制化)としても極めて安定している隙間で、人びとのイメージに刻まれ易い「アーバン・ヴォイド」の資質をそこからは受ける。

 その場をソリッドとしたが、硬質で乾いた都市感覚を生み出しているそれらが、どの様な豊かさを醸成させてゆくのか注視してゆく。

 これまで示した渋谷駅を取り囲む様に存在し出している「アーバン・ヴォイド」こそが、都市の只中に出現している「無場所」であると言うのも、再開発工事の進行と無関係ではないだろう。

 これも渋谷再開発工事現場だからこそ発見出来る「渋谷問題」として提起しておきたい。

渋谷再開発を開発対象施設などヴォリュームのある実の部分をとし、その残余として現われる虚としての空間をとして捉えてみると再開発への新たな発見に出会えるかもしれない。

 実は、渋谷駅前再開発に対する私の興味の過半が地の部分に尽きるように感じてきた。

 特にスリバチ底部の渋谷駅を取り囲むゾーンでの、デザインアーキテクトたちが関与する施設開発の隙間に体現する地の空間(ヴォイド空間)に興味が向く。生きている隙間と死んでいる隙間とが在るからだ。

 それらの地であるヴォイド空間は計画されている様で実は計画されたものではなく、ある意味で計画を超える余地すら持つに至っているものも在るかもしれず、そこに公共性が芽生えてくるかもしれない。

 無論これから建つ「スクランブルスクエア」中央棟や西棟、そして既に建つ東棟を合わせた施設接地階でのJR渋谷駅改札口を出てからの「施設内の通路」の在り様にも重大な関心がある。

 つまりこれは施設内の「地」の部分に当るものになる。スリバチ底部でどの様に渋谷の東西南北へ通り抜けられるのか、その一点への関心なのだが、それには明らかに計画された「地」の存在が窺えるものなのです。これも重要な「渋谷問題」には違いない。

 ところが一方、その周辺で生じてくる隙間に体現する地の空間は偶発的で、無計画なものが多い。各施設はデザインされていても、施設間は計画の手が充分に入っていないものになっている。そこを「アーバン・ヴォイド」としてきた。盲域と言ってもいい。

 しかし、そこに生起する「アーバン・ヴォイド」は皮肉なことに、デザインアーキテクトたちが関わった施設・建物のヴォリューム有る立面それぞれが「エッジ」として機能していて、計画された施設に想定されていない機能を果たしていたのです。

 危惧されていた圧倒的な立面の圧迫感を少しでも解消するために試みられたオプティカル効果に依る破調デザインも、ここでは単なる立面として「エッジ」効果を生むものでしかないのだ。

 渋谷再開発の様態を図と地で捉えてみると、地勢のスリバチ底部となるJR渋谷駅廻りに多くの地が集中しているのが良く分かる。

 渋谷駅の計画された構内の地がこれからその姿を見せてゆくだろう。

 しかし、この計画された地を取り囲む様に、工事中だからこそ窺える曖昧で定まらない多くの地が分厚く存在している実情がある。そして、それが「アーバン・ヴォイド」と言う盲域性を示しているのだ。

 渋谷再開発での大義としての公共貢献となる「アーバンコア」や「スカイウェイ」の計画された世界とは真逆の計画が、実現する前の裸の「地」が、渋谷の日常を覆っていることを忘れてはならないのです。

 再開発の工事中が垣間見せた「ブリコラージュ」と共に、この「アーバン・ヴォイド」の世界も、私たちに新鮮な発見とイマジネーションをもたらしてくれる。

 都市の工事を生きる、とは、そうした世界に身を置いてみることなのです。

 これこそを私たちの積極的な「渋谷問題」とすべきだ、と考えるものだ。

(つづく)

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