公共性とデザイン
– 真壁智治「臨場」から窺う渋谷問題への気付き(第14回)|連載『「みんなの渋谷問題」会議』

この連載について

渋谷再開発は百年に一度とされる民間主導の巨大都市開発事業で、今後の都市開発への影響は計り知れない。この巨大開発の問題点を広く議論する場として〈みんなの「渋谷問題」会議〉を設置。コア委員に真壁智治・太田佳代子・北山恒の三名が各様に渋谷問題を議論する為の基調論考を提示する。そこからみんなの「渋谷問題」へ。

真壁智治(まかべ・ともはる)

1943年生れ。プロジェクトプランナー。建築・都市を社会に伝える使命のプロジェクトを展開。主な編著書『建築・都市レビュー叢書』(NTT出版)、『応答漂うモダニズム』(左右社)、『臨場渋谷再開発工事現場』(平凡社)など多数。

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公共性とデザイン

 メトロ銀座線渋谷駅の空中ホームの全容が把握出来るようになると、途端にそのデザイン性が気になってくる。果してそこでのデザイン(素景)は公共性を勝ち得ているのだろうか。
 デザインが皆の共通利益として感じ取られるとしたら、その場に公共性が芽生えた、と認識して良いのではないか。少なくともその場の公共性について考える契機にデザインがなっていることは確かだ。
 つまりはデザインがその場の公共性や公共空間を私たちに自覚させ得るか、と言うことが実は渋谷再開発に見る「渋谷問題」の重要な主題の一つなのではないか。
 その場の用途が公共空間だから、デザインはどうでもいい、のではない。デザインが公共性を私たちに喚起させるのか、がデザインに課せられる重要命題にならなければならない。
 私たちは日々、「メトロ渋谷駅ホーム」や「アーバンコア」、「スカイウェイ」を往来利用している。
 そこでは「デザイン」を介してそれらの場の公共性を実感し、デザインを公共財と認識しているのではないか。
 これまでの公共建造物はあまりにデザインがお粗末過ぎた。特に歩道橋などの土木構造物や公共交通の駅舎構築物などがその典型になっていた。
 こうした公共性とデザインを意図したプロジェクトが嘗て在った。
 「デザイン交番プロジェクト」や「地下鉄駅舎プロジェクト」がそれです。
 「デザイン交番プロジェクト」はバブル期に実施されたもので、街の中の交番を若手建築家たちがデザイン競演するものだった。
 そこでのテーマは公としての交番のイメージアップだったろう。時代は「ポスト・モダン」の最中。
 六〇年代、七〇年代の街頭闘争を経て、交番、更には警察権力に対するイメージアップを試み、親しみのある交番作りが画策され、鈴木エドワード、黒川哲郎、林賢次郎、妹島和世らがそれに当った。
 交番機能は公共性を示すものの、交番の建築形態には公共性を表象することは必要か、は微妙。公共性よりは形態の咀嚼されやすい記号性なのであろう。
 宇田川町交番(鈴木エドワード、一九八五年)や上野動物園前交番(黒川哲郎、一九九〇年)を見る限り、交番の形態には公共性の表象、つまり、今日的な公共性の理論としての共通利益的な表象はどこにも無い。宇田川町交番ではY路の付け根に交番が位置し、誰の目にも留まり易いアイ・ストップ型の斧の様なフォルムが体現したが、目に付くこと自体を交番の公共性としたのだろうが、単なる記号性としてのポスト・モダンな表象で、街並みに付加されている。上野動物園前交番では更にポスト・モダンなオブジェクト化が際立つ。むしろ、公園に奮闘するアイロニカルな交番の表象と映り、この時点ではまだ公共性とデザインを巡る議論が未成熟であったことが分かろう。基本的に「ポスト・モダン」期には一切デザインを公共性の視点から真摯に精査する気運は無かったのである。
 もう一方の「地下鉄駅舎プロジェクト」であるが、横浜みなとみらい線の新設開通に合わせ各駅舎をその街の特性や歴史を取り入れて建築家がデザインするものだった。伊東豊雄、内藤廣、早川邦彦らがそれに当った。
 特に内藤は駅舎から街を変えよう、との発想を持って「馬車道駅」を担当、場所の記憶を公共空間に盛り込む。
 このプロジェクトの基本はデザイン・オリエンテッドな新線の駅舎を体現して、「横浜みなとみらい線」の個性的で先進的な公共空間のイメージを「デザイン・ギャラリー」として公に示すことにあった。
 公共の場の空間の斬新さを建築家の手に依り公に伝え、体感してもらう狙いを持つものだったろう。
 ある種の公共性のイメージ拡張を図るプロジェクトであったと理解できる。
 なかでも、「みなとみらい駅」(早川邦彦、二〇一四年)は構内至る所が「デザイン・ギャラリー」化していて、ヴォイドな地下空間をダイナミックに体感できる公共性のある空間体験が貴重だったが、改めて人びとの共通利益を生む公共性とデザインとの議論は素地が在ったものの深まることはなかった。

 デザインが与えることの出来る最高の資質はより多くの他者が共振し合える公共性をもたらすことであろう。

 ようやく、公共性とデザインとを論じる場面が渋谷再開発で訪れているのではないか。実際に施設やオープンスペースが稼働し、多くの日々の往来者の利用からその場に生じる「共通利益」をデザインの上から検証してみる。
 メトロ渋谷駅の「空中ホーム」と「地下改札」、「ヒカリエブリッジ」、「渋谷スクランブルスクエア」東棟の「アーバンコア」、「渋谷ストリーム」へ向う「スカイウェイ」、「渋谷フクラス」の「バルコニー」、それらに加えて「MIYASHITA PARK」の「大階段」などは公共性とデザインを論じる下地が充分にある、と私は考えている。
 今、都市のデザインを正面から語り、論じ合う主題はこれを除いては無いのではないか。
 それらには場としての構造的な一定の明解さと強さが在り、そこに包摂力が生じている。
 それらの資質は皆が「共通利益」と感じ取る根っこに連なるものなのだろう。

 共通利益は一旦、他者の存在を感じながら、自分と他者とが共振し合える感覚の裡に芽生えてくるものなのだ。それらへと誘導するのが、その場が示す「包摂力」になる。包摂力には信頼感・包容感そしてなによりも寛容性が不可欠。
 包摂力が誘導する「共通利益」には様々なものが挙げられよう。
 「美しさ」、「開放性」、「求心性」、「浮遊感」、「癒され感」、「快適性」、「透明性」、「囲われ感」、「穏やかさ」などを価値として感じ合い「感覚共有」が勝ち得られたらそこには「共通利益」と呼べるものが立ち現われてくることになる。
 デザインの公共性が上方からではなく、下方から身近に認識される瞬間でもあります。
 そこでは、絶えず他者を認識した上での自分の心や感覚の在り様の拡がりが、デザインを介した「共通利益」を照応する鍵となりそうだ。
 従ってデザインが公共性を勝ち得るには、改めて他者の存在が自分を映し出す鏡の様に機能しないとムズカシイことが良く分かります。
 他者の存在の力学が自分にも及び、そこで感覚共有し得てこそデザインに公共性が創出される、と考えるのが必然的な成り行きなのだろう。
 ここで述べた「公共性とデザイン」の局面は「渋谷問題」の中核として採り上げるが、同時にそれは現在の建築が抱える中心課題に他なりません。
 これらの「公共性とデザイン」の事態への議論と実証化は建築家槇文彦が晩年期に提起する「共感のヒューマニズムとしてのアーバニズム」に通底するものとなろう。

(つづく)

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