「ヒカリエデッキ」が示すもの
– 真壁智治「臨場」から窺う渋谷問題への気付き(第21回)|連載『「みんなの渋谷問題」会議』

この連載について

渋谷再開発は百年に一度とされる民間主導の巨大都市開発事業で、今後の都市開発への影響は計り知れない。この巨大開発の問題点を広く議論する場として〈みんなの「渋谷問題」会議〉を設置。コア委員に真壁智治・太田佳代子・北山恒の三名が各様に渋谷問題を議論する為の基調論考を提示する。そこからみんなの「渋谷問題」へ。

真壁智治(まかべ・ともはる)

1943年生れ。プロジェクトプランナー。建築・都市を社会に伝える使命のプロジェクトを展開。主な編著書『建築・都市レビュー叢書』(NTT出版)、『応答漂うモダニズム』(左右社)、『臨場渋谷再開発工事現場』(平凡社)など多数。

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「ヒカリエデッキ」が示すもの

 「ヒカリエデッキ」が二〇二一年七月コロナ禍の最中に竣工した。

 竣工して間がないのか人影は全く少ない。その場所に人びとがどの様に関わって良いのか戸惑っているようにも想える。

 なによりも渋谷再開発の目玉の一つである「マークシティ」と「ヒカリエ」とを直接、空中歩廊で渡し掛ける東急構想がまだ完成を見ていないので、その人影の少なさも頷けるのだが、どうやらそれだけではなさそうだ。

 渋谷の空中歩廊そのものは民間ディベロッパーが開発するもので、渋谷再開発計画に於いて公共性(都市機能)の建て付けの上で二つの計画コンセプトである「アーバンコア」(上下移動に供する都市機能)と「スカイウェイ」(空中水平移動に供する都市機能)が挙げられて来たが、空中遊歩道はまさに「スカイウェイ」のコンセプトから派生する最大のものになり、その空中遊歩道の「ヒカリエ」側の端部を担うのが「ヒカリエデッキ」なのである。

 恐らく「ヒカリエデッキ」は渋谷再開発に在って「公開された空地」の位置付けなのであろうか、それまでの「ヒカリエ」には開発容積を担保しえた「公開空地」が全く見当たらなかった(そこが公開空地であることの表示は敷地内どこにもないのだが)。

 漸く「ヒカリエ」の足元に欠如していた公開された空地が、竣工から間を置いて、開発計画上の整合性を示したことになるものが「ヒカリエデッキ」であったのではないか。人影の少なさもこうした辻褄合わせ的背景がその一因かもしれない。

 「マークシティ」と「ヒカリエ」とをブリッジする東急の野望となる空中遊歩道「スカイウォーク」が開通していない現在、「ヒカリエデッキ」へのアクセスは「ヒカリエ」4F、2Fから、宮益坂中程から、そして「ヒカリエデッキ」最端部からの四か所になるが、多くの往来のルーティンとして通り抜けが出来にくいので、人影が少ないのも頷けます。

 それは同時に、公共性を含む場所の使用及び活用が積極的に成されないことを意味するものでもある。その場所が「公開された空地」そのものであり、それ以上でも以下でもないのが現在の「ヒカリエデッキ」の姿と映る。棚越しに幅員八メートル程の遊歩道がキューブ状地下鉄渋谷駅の屋根上に見える。

 なによりも「マークシティ」と「ヒカリエ」とを繋ぐ空中歩廊計画そのものが「スクランブルスクエア」東棟屋上の「SHIBUYAスカイ」と同様、極めて非日常的な体験を生産しようとするものだけに、この開発の公共性のレベルについては当初から極めて怪しいものだった。全ての人たちに開かれた共通の利益を積極的に与えようとするものではないことは自明であろう。

 従って、「ヒカリエデッキ」の構造も公開された空地として提供された範囲での限定された「公共性」であって、自由空地を連想させる寛容性はどこにも感じられない。宮益坂に新たに建設された東急資本の「宮益坂ビルディング」だけが「ヒカリエデッキ」に直接アクセス出来る「価値」を保有し、訴求するのは公開された空地の内輪という御都合主義が色濃く漂う。そこに見られるのは資本によるオープンスペース利用者の選別化なのです。

 「ヒカリエデッキ」の様態の資質を見てみよう。

 まずは、この場所を「公開された空地」として把握すると、全てが得心出来るのです。

 取り敢えず設置された離散型ベンチ。繁みをつくらない低い植栽。そして群れることを極力排除する見通し(管理のし易さ)の確保と利用者同士の相互監視の促進化(これはどこか「MIYASHITA PARK」の空中公園とも類似する)。ベンチ座面材と同じ仕様の一切エイジングを刻まないパーマネントな床表面。更に身体反応がしづらい硬質な浮き床構造。

 こうした資質を備える「ヒカリエデッキ」と既に都市機能として定着しだしている「ヒカリエブリッジ」とを比較してみる。

 「ヒカリエブリッジ」は新しい都市機能としての「コネクタースペース」を形成するまでに至っていて、広く人びとの「快適」な歩行の共通利益をもたらす公共性を獲得している様に評価される。特にブリッジの床面構造(吊り床)と、その軽く小さなメンバーに依る仕様が生む弾むようなリズム感を伴う身体感が、日々の往来ルーティンとなって新たな公共性を実感させてくれている。

 「ヒカリエブリッジ」はそこが公共性の高い場所だから公共性が感じとられるのではなく、普段使う場所に皆が身体感覚を共有する共通利益をその場所から感受しているからこそ感じ取れる公共性、つまり「感覚される公共性」を生起させているのではないか。そして、それを皆が育んでゆこうと想えるようになっている。

 一方、「ヒカリエデッキ」が生み出そうとするものを観相してみよう。

 まずは、「マークシティ」と「ヒカリエ」とを渡す空中歩廊が開通しても、現在完成している「ヒカリエデッキ」の眺めは、どこまでも「ヒカリエ」の空中に公開された空地の域を出ないであろう。

 用心深く設えられた「空地」からは多様なふるまいを誘引したり、可能にさせる余地はあまり感じられない。むしろ利用する人たちとそのふるまいを極度に警戒し、規定・限定している圧迫感がその場所から強く感じられるところだ。

 私たちに与えられた都市の、公開された空地の如実な姿の限界をここに見ることになります。

 そこが人びとの力で獲得された遙かNY「ハイライン」(二〇〇九年開業)の所在と明らかに異なるもので、つまりは「ヒカリエデッキ」の主体的な主役の姿が一向に見えないのです。公開された空地に主役は育ちようがない。与えられただけの場所であり、デッキの設えに管理の網の目が潜み、使用・利用の場面で緩い寛容性が期待出来そうにもない。いや益々、多様性を排除し、同質化が侵攻しそうな気配を示す「ヒカリエデッキ」の資質であり、その場所の公共性の姿なのである。

 嘗て尾崎豊が旧東邦生命ビルの低層階デッキで、都市の孤独に創造的に対峙しえた場所性の余地はここからは一切感じることが出来ない。都市のオープンスペースでの独りのための豊かな資質が否定されていると言うことなのである。渋谷再開発の人びとに分かり易い目玉となる「ヒカリエブリッジ」と「ヒカリエデッキ」とには、その公共性及びその資質の在り方に差異が潜むことに愚鈍になってはならないのです。

 こうして概観すると、都市の場所の公共性を一律に語るのは難しく、無理が在るのが分かるだろう。

 そこで、都市の公共性を巡る議論には二極のベクトルへの視点が入用になるのではないか。

•公共性を課せられる場所への視点

 ここは上と外からの公共性となるもので、都市のオープンスペースには多くの規制・制限が公共性の観点から管理されている。道交法・公園法・迷惑条例、更には集合罪までもが場所の公共性を巡って設定されていて、このレベルの公共性には私たちの日常生活からの解釈(批判)が必要となる。

•公共性が享受出来る場所への視点

 ここでは下からの公共性を問うものとなる。これからの建築・オープンスペースが広く模索し試みることになる、場所の効用・効果から人びとの共通利益が新たに生まれ公共性となるもの。場所に投与する「アフォーダンス」が先ずはその契機になろう。従って、こうして生まれる公共性は下からであると同時に、人びとの内から感得されるものになり、ここでは人びとの感覚の共有が大きなポイントになる。その代表的成功例がNY「ハイライン」と言えよう。

 私たちは都市の場所をその公共性の視点から吟味することを放棄してはならない。

 上と外から与えられる公共性と、下と内から感得される公共性との二様のベクトルの裡で私たちの都市を生きてゆく現実があり、そこでの喜びや悲しみや恐れ・怒りが依って立つ基盤の一つに都市の公共性が深く関与してくるからなのです。

 上と外から規定される公共性に対し安心を覚える反面、それら規定されるものに不安や理不尽さ・危険性を感じざるを得ないこともある。そして、下と内から湧いてくる都市の公共性(人びとの共通基盤)に安堵したり、癒されたり、人と繋がれたりする細やかな高揚感、幸せ感を享受することもある。

 都市のいごこちや都市のアーバニズムはこの二様のベクトルの総和から感じ取られるものだ。

 渋谷のいごこちが再開発の進展と共に、工事開始以前と大分変ってきたことは間違いないだろう。その兆候を探ってゆくことも臨場の重要なミッションの一つなのです。

 渋谷の「いごこち」を皆が日常的に検証し続けてゆくことこそが「渋谷問題」へと向う前哨戦とならなければならない。

 「渋谷問題」への端緒はどこまでも私たちの身体性と渋谷とを対峙させる所から始めるしかないと考えていて、場所のいごこちの検証にはなにを置いても私たち自身の身体感覚を持って当るしかないからなのです。

 私たちの身体感覚がキャッチする都市のいごこちの集合的主観こそ、都市の場所の公共性を推量してゆく物差しになろう。

 その観点からすれば、「ヒカリエデッキ」のいごこちの悪さや落ち着きのなさは、私たちが感じ取るまさに公開された空地の本来的ないごこちに通底することだけは確かなことのようだ。

 与えられ、提供された空地には渋谷の同質化を推し進める開発側の意図が如実に感じられるのです。いずれにしてもこの「ヒカリエデッキ」は渋谷再開発事業の本質と本音を象徴するものの一つに挙げられるに違いない。

 唐突にメトロ銀座線渋谷駅宮益坂口の通路に「ヒカリエデッキ」での禁止行為が一方的に示された(二〇二一年一〇月)。

 デッキ上では管理者の許可を得た場合を除き、次の行為を禁止します。係員の指示に従わない場合は、デッキへの立ち入りをお断りする場合もあります。

•車両(自転車・バイク・スケートボード等を含む)の乗り入れ禁止

•駐輪禁止(駐輪場は除く)

•禁煙(電気加熱式タバコ・電子タバコ含む)

•火気厳禁

•他人の迷惑になる行為

•ゴミのポイ捨て禁止

•無許可の撮影・イベント開催の禁止

•ペットの散歩禁止

•寝泊り・長時間の滞留の禁止

•物品配布・勧誘・販売行為の禁止

•示威行動・集会の禁止

•美観を害する行為の禁止

•物品の放置の禁止

•危険物の持ち込み禁止

•大音響での音楽機器・楽器の使用禁止

•球技等のスポーツ・ダンスの禁止

•植栽帯の立ち入り禁止

 皮肉なもので、これだけ明白にデッキでの禁止行為が列挙されると、その場の「公共性」とは一体何なのか問わざるをえなくなる。一向にそこでの「使い方」と「居心地」がイメージできないのである。

 そこでの告示主体は表示物の下段に小さく「SHIBUYA HIKARIE」と記されている。ナルホド。「ヒカリエデッキ」は「ヒカリエ」が管理主体の敷地内なのだ。従って、ここが施設として公開された空地の扱いが高いのは当然の推測であった。

 「ヒカリエデッキ」は「不特定多数」に向けた使用行為の禁止を告示したものだが、明らかに多くの「特定少数」を強く意識しての告示となっていることは誰の目にも明らかだろう。

 渋谷を、都市を生きる多くの「特定少数」は、この使用行為禁止の告示を通して逆にその存在がより鮮明になる。

 みんなに開かれた寛容な公共性とは、多くの「私」に向き合い、多くの「私」への疎外を解きほぐしてゆくものでありたい。

 いみじくも「ヒカリエデッキ」の在り様からは渋谷再開発の正体ここに見たり、との感を強くします。

 そして、二か月余りでこの告示の冒頭の「デッキ上」が「施設内」へ、表示が簡易的に改められたことを報告しておく。  「ヒカリエデッキ」は公共貢献ではあるものの施設「ヒカリエ」の所有であることを、再度念を押す通告となっているもので、それは「ヒカリエデッキ」が「ヒカリエ」の公開空地ではなく、あくまでも「施設の公開された空地」である、という極めて限定的な場所の解釈を都市生活者に突き付けているのである。この事態はこのままでは終らない。二〇二三年に入るや、いつの間にか「施設内」の簡易表示シールがはがされ、元の「デッキ上」に表記が戻った。これも「スカイウォーク」開通を見据えての解釈を巡るドタバタと映る。

(つづく)

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