都市の有益な公益性 – 真壁智治「臨場」から窺う渋谷問題への気付き(第30回)|連載『「みんなの渋谷問題」会議』
渋谷再開発は百年に一度とされる民間主導の巨大都市開発事業で、今後の都市開発への影響は計り知れない。この巨大開発の問題点を広く議論する場として〈みんなの「渋谷問題」会議〉を設置。コア委員に真壁智治・太田佳代子・北山恒の三名が各様に渋谷問題を議論する為の基調論考を提示する。そこからみんなの「渋谷問題」へ。
真壁智治(まかべ・ともはる)
1943年生れ。プロジェクトプランナー。建築・都市を社会に伝える使命のプロジェクトを展開。主な編著書『建築・都市レビュー叢書』(NTT出版)、『応答漂うモダニズム』(左右社)、『臨場渋谷再開発工事現場』(平凡社)など多数。
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都市の有益な公益性
『臨場 渋谷再開発工事現場』(真壁智治著、平凡社、二〇二〇年)を「渋谷問題」への狼煙としなければ、と想ってきた。
ここでの「渋谷問題」とはどの様に捉えられるべきものなのか。まずは渋谷再開発の事業そのもののしくみを精査すること、次いで再開発から派生する新たな事態を検証すること。そしてこの再開発を、日本の社会や都市、更には建築や建築家などに及ぼす局面を洞察し広く議論をする問題領域の総称とし、議論の旗印としたい。
中でも、「渋谷問題」で欠くことの出来ない論点の一つに、都市の公共性の視点から渋谷を問うことが挙げられます。しかもその公共性を体験的感性から吟味することが、臨場の使命になる。「渋谷問題」の中核に巨大再開発が在り、その開発自体が示す公共的資質の検証は避けては通れないからです。はたして都市再生特区の再開発は私たちにどの様な有益な公共性をもたらすのか、について厳密に見てゆかなければならないのではないか。
こうした再開発の事業化のしくみが今後の日本の都市を広く席巻してくることが必至であるからだ。
私がなによりもこの臨場を「渋谷問題」の序章としたかった理由は、臨場を通して得られた身体的実感を「渋谷問題」への共有感覚としたかったからです。
そこで伝えるべき実感が開発の「巨大さ」であり、仮設空間が一瞬示していた「公共性」などがそれでした。
都市機能を停滞させることなく、工事を遂行してゆく裡で必要に応じて「仮設通路」が設置される。
私にはこうしたブリコラージュな仕様の仮設通路に、これまでに体験したことのない公共性のある空間の新たな資質を感知したのであった。
仮設空間となる通路の在り方は、みんなの公共性のイメージを少し変えたのではないか。仮設通路はヒューマン・スケールなブリコラージュ空間であり、「私」が充分安全性に配慮して扱われていることは、むしろ直感される公共性の体験でもあった。そこでは「私」が感じられるから「他者」も感じることができるのである。
都市の公共性の議論では公共の場所であることに意味の総てがあるのではなく、そこに対して私たちが公共性を感じてこそ、その場所に意味があることを銘記すべきです。
公共性の議論は、管理側からだけのものになるのが常であった。
しかし、都市の公共性の議論の主役はあくまでも私たちであるべきだ。
「行政が作ったから公共施設になるものではない。人びとがそこに多く集まってこそ公共施設となるものである」と喝破したのは多木浩二でした。
それは非公共の施設や場所で在っても、人びとに集まることが共感されたら、そこは公共性が生まれる余地を持つことを示すものでもあります。
では「私」たちが日常の裡で感じ取ることが出来る「公共性」とは一体なにか。
私たちの視点から都市の公共性を論じ合うのが本来当り前の議論なのですが、今は、それが殆ど行なわれることなく、新たな都市の再開発事業がディベロッパー主導で頻発している。だからこそ、当り前の議論が改めて必要になってくるのです。都市で生活する全ての人びとに等しく保証され享受されるべき有益性を、まずは都市空間の公共性とした上で、その有益性について考えてみたい。こうした公共性の捉え方が都市での豊かな暮らしの前提でなければならないからです。
不特定多数の人びとが行き交い、生活する都市でその公共性が担保され、人びともその様に認識し、利用している有益対象に公共施設や公共交通・道路などのインフラがあり、それらは私たちが想い描き易い都市の公共的有益性となる。
その他にも、公共的有益性を持つ場所として了解し合える対象も、都市の中にはあります。「公開空地」や民間施設内通路・外構などがそれで、それらも都市の公共性の議論に加えるべきなのです。こうした二様の資質の異なる公共的有益性を示す場所を見たが、私は後者の資質が可能にする公共性に注目してゆきたい。
特に問題にしたいのは「公開空地」の存在です。
一定規模以上の施設開発に際し、敷地の一部を共用として公開することに依り、そのバーターに容積増を獲得する開発方式から「公開空地」は生まれる。が、こうした都市に公開された余白は、充分な公共性を発揮するものばかりではないのが問題なのだ。都市に公に開くと言っても形ばかりの公共になりがちで、公開には公共への意識が薄いのではないか。
特に公開空地は都市のオープンスペースの在り方に深く関わります。都市に余白を創出してゆく貴重な方式になっている反面、その場所が充分に公共化されていない、人びとが公共的有益性を感じないものが多く、公開する側も広い使用を意図するものは少ないのが実情。
オープンスペースから都市再生を図るケースが目に付くようになって来た昨今、「公開空地」の存在とその公共的有益性について改めて議論する必要があるのではないか。
都市の公共性の議論は、都市再生に欠くことの出来ない要件とならなければならないのです。
そこで私たちが日々公共性へ関わる視点から、都市の有益性のレベルを整理してみる。
•機能的公共性
まずは、都市の公共性を「機能」と言う有益性の側面から把握する視点である。
皆が等しく享受する機能上の公共性の一つとして、移動の自由と権利があろう。
移動の公共性の基本は安全・安心に流す、と言うことになります。
この移動の公共性が対象とするものに、街路・通路、更に広場の様なオープンスペース
が在る。
都市の再生では、この移動の公共性をヒューマンスケールや景観デザイン、バリアフリーなどの観点から整備することが強く求められる。
渋谷再開発では「移動」が基盤整備の核心テーマとして挙げられ、それが公共貢献とされて来た経緯を持つが、その公共的有益性には検証が必要であろう。
再開発の「移動」に期待されていた公共的有益性は、「快適な移動」と言うものであった。
これこそが都市の機能的公共性となるもので、その成否が再開発の生命線とされて来たものだ、としても過言ではないのです。
もう一つ指摘したいポイントがある。
公共施設が示す施設用途がそれで、都市の機能的公共性を担保する「移動」に加えて、「用途」もその重要な要素になってくるのです。
公共施設である図書館・美術館・博物館や病院・学校などのくくりは、「用途」と言う機能が前提の公共性を備える施設となる。
しかし、こうした機能的公共性の「移動」や「用途」は時代や社会に即応してこそ価値が保たれるもので、絶えず機能は更新されていかなければ、その公共性を果たすことが出来なくなるのです。こうした機能の更新トライアルを一切欠いた事態が「ハコモノ」行政を生んできたのであった。
•意味的公共性
都市の公共性を「意味」の側面から把握する視点となるもので、「機能」と異なり意味から公共性にアプローチするには、少なくともその場での行為の持つ意味が公共性とどの様に関わってくるのかを見極めてゆく必要がある。
機能的対象としての移動の先に、人びとの「群れる」・「溜まる」・「佇む」などの意味を持つ振る舞いがあり、それらを公共性の上から検討してみることが肝心なのです。
私たちの行為が公共性と関わるか否かは、その行為の意味も吟味してみたらいい。ここで行為の意味を探るには、公共の利益の観点からの参照は避けられないものになろう。
公共の利益の上から行為の意味を勘案すると、私は、人々の幸せを誘引させる、人と人とがつながれる豊かさや人が独りで過ごす豊かさを希求する基本行為は、侵されてはならないと考えます。
これらは公共の利益を阻害するものとはならないばかりか、公共の利益を高めるものになるはずだ。
これらが意味的行為への権利として保証されてこそ、都市の公共性は担保されるものなのです。
絶えずこの一線は、都市を巡る公共性の議論の裡で危ういものとして在った。これは私たちの都市での権利に関わることで、地縁的なコミュニティを持たない多くの都市生活者にとって、この意味的な基本行為を無視して都市の公共性は在り得ないことを、強く認識し合うことが大切なのではないか。
嘗ての「新宿西口広場」は、機能的公共性としての移動や待ち合わせる、などの行為を保障するものとして在った。その場所に私たちが集い、異議申し立てを行使し、そこに新たな意味を可能性として見出すや、それまで設定されていた機能的公共性に不安を覚える管理側は一方的に「広場」を取り消し「通路」に改編し直した。これは都市の意味的公共性を巡る対立・対峙であった。
こうした意味的公共性を私たちが都市に、社会に強く求めてゆくことは、そこに暮らす意志と深く関わってくることになります。
そして、意味的公共性を見出すことは、私たちが都市を楽しむことと基本的に繋がっているように感じます。
意味的公共性を実感しうる行為を私たちの行動様式として捉えると、「群れる」・「溜まる」・「佇む」はいずれも、「私」と私を巡る「自分」・「他者」との関係の裡に多くをふるまい分けることになります。従って、意味的公共性は「自分」と「他者」との関係性のふるまいの裡で見出し、照応し合うものなのです。
新装渋谷パルコのシームレスな外構にこうした意味的公共性を見出せたのも「自分」と「他者」との照応に依るものであった。
•制度的公共性
都市の公共性を「制度」の側面から把握する視点である。
ここでの検討は私たちの側から制度的公共性、つまりあまねく権利として人びとが享受すべき公共性のきまりを見返してみることになります。
制度的公共性の対象としては広場・通路・公開空地などのオープンスペースや公共施設が挙げられるが、その利用・使用に際してはそこに制限や限定が生じてくる。
これが私たちに課されるきまりとなるもので、利用時間・利用内容・利用制限・利用目的などに加えて禁止事項が存在する。
これらの存在を通して制度的公共性について言えることは、利用対象には定まった「用途」が制度として既に備わっていることだ。この枠の中での制度的公共性となり、その制約を突破するには公共施設の施設用途を非施設性として再構築する他ない。機能的公共性は極めて制度と馴染み易いものなのである。
•権利的公共性
都市の公共性を「権利」の局面から把握することも、私たちが都市を生きる上で無自覚であってはならない。
都市の公共性に対して私たちが自覚すべき権利とは、一体どの様なものなのか。まず権利の基盤は「自分」に在るので、自分に権利を重ね合わせて都市の公共性を精査することになる。
道路や公園や施設を都市の公共性の対象と捉え、そこに私たちの権利に基づく「自分」のふるまいを描き出してゆく。
しかし、この権利的公共性も無原則なものではなく、「自分」のふるまいを一旦行使してみると、自分の権利が原則から逸脱しているものか、不具合のあるものなのかを直ぐに査定されるのです。査定するのは世間・行政・警察、更には国家の眼になる。
特にこの権利的公共性については、「自分」が基盤の有益性を行使してみることで都市の公共性の余地が露見するものなのです。
多様な眼からの査定に曝されるのが私たちの権利的公共性なのである。
逆に言えば、私たちの都市に於ける自明な権利的公共性も極めて危ういもので、曖昧なものであることが良く分かる。
都市の権利的公共性とは具体的に都市にコミットする局面を招来します。
私たちが描く都市へのコミットメントとしての有益性は、一定の許容値を踏み越えると途端に押さえ込まれるのが都市の権利的公共性の実態であり、限界なのだ。
だが、権利的公共性は私たちの多様性に基づくものでなければならない。
普段見えないものが、私たちのコミットメントに依り顔を出す。そこに都市の権利的公共性を巡る攻防が生じるのです。従って私たちは、「渋谷問題」の核心にこの権利的公共性の局面が潜んでいることを忘れてはなりません。
ここからは一般的に使用される公共性の概念の内では殆ど議論されることのなかったもう一つの公共性の資質について触れてみたい。
このもう一つの公共性への発想とは、公としての公共性では掬い切れない信頼性と親密性を基盤にする、共としての公共性、と敢えて呼ぶべきものに由来します。
普く全体を平等に扱う為の公の公共性に対し、より狭域で小さな、限定された地域で育まれてくる共としての公共性がそれで、それはむしろ共に支え合う規範性に近いものになる。
多くの人びとが生活拠点とする現代の都市に在っては、皆が共有・共感し合え、信頼と親密を基盤とする規範の存在は全く困難であろう。
それが育つ土壌もネットワークもない。
であるからこそ、そこに制度や義務などの諸般のルールを伴う公の公共性が全面化する。
本来、人びとが信頼し合って暮らす為には諸般のルール以上にコモンセンス(共通感覚)としての規範価値が不可欠になってくるはずなのです。コモンセンスはまさに共の実感を内側から支えるものになる。
まずは規範以前に、限定された社会に対するコモンセンスを学習しないと、規範価値に出会えない。
都市再生には二様の達成目標が在る、と私は想う。一つは主たる目標となる都市の再編・整備を図ること、そしてもう一つ、そうして生まれるであろう場にコモンセンス(共通感覚)の醸成を図ること。この二つの目標が達成されてこそ皆にとっての都市再生が意味を持つのではないか。
その為にも、改めて都市の有益な公共性の資質を問う必要があるのです。
これまでの地縁社会を支えてきた「共」のしくみと市民社会を支えている「公」のしくみを一つの土俵で議論し合えるようになる意味からも、もう少し踏み込んだコモンセンスを都市の有益性からイメージしてゆくことが肝心になってくる。
•規範的公共性
都市の公共性を「規範」と言う局面から把握してみようとするものです。
そもそも嘗ては規範と公共とは一体のものとして存在し、地域で機能していたのだろう。
規範が軸に在る公共の姿がそれだ。
ところが都市の近代化の進行と共に地域のコミュニティが解体されたり、新たな地域にコミュニティが根付かなかったりすると、規範を必要とする公共が都市からどんどん失われてゆく。
つまりは、規範無き公共が都市を覆い尽してしまっている眺めなのです。こうなると、人びとが充分に「公共」に対して納得しているか、そこに問題はないか、まず吟味することが都市の公共性の議論の前提にならなければならないはずだ。
都市の公共性とは何かを問うことは、同時にそこで私たちが何を失ったかを問うことから始めることを示すものでもあります。
そうすれば私たちの身の回りでは規範と言う意識が大変薄いことに気付くはずです。
ここでのポイントは、公を共からの軸線上で把握し、認識することである。そうすれば私たちが失ったものに思い当ることが出来る。
規範的公共性と言う概念について少し考えてみる。
「規範」と「公共」とは、依って立つフィールドが異なっています。
規範は地縁などの濃密な地域社会を統治する、大きな秩序を保つ行動や判断の原理・基準となるものです。ですから規範を生み出す基盤を「共」とした。
一方で公共は、社会一般に広く関わることを第一義とし、都市活動を平等に支えるインフラやサービス、そしてそれらに伴うルールを設定している。
公共の概念はどこの場所にも対応するものでなければならず、場所の固有性は一切関知しない。しかし、規範は土地や場所の固有性から生まれてくるもので、むしろ土地と規範とは不可分な関係を示すものでありました。
「規範無き公共」とは詰まるところ、「土地」との関係を一切断ち切った所での公共であることを認識しておく必要があるのです。
その上で、規範的公共性の可能性について考えてみよう、と言うことだ。
普く公の公共性としての可能性を探るのではなく、特に土地の歴史が有り、それが弱るものの狭域な都市再生を図る機会に、共としての公共性を醸成させて土地を真に活力有るものに更新させることは出来ないか。そこに公共性を整備するだけでは敵わない規範を育ててゆくことに依り、人びとの心と土地への関わり(ネットワーク)を構築してゆく。それに矛盾しない形で、改めて「公共性」を検討してみる。これは狭域な対象地の公共性を根本的に問う試みとなるはずです。
こうした発想からの規範的公共性と言う、互いに矛盾し合う概念の止揚も、新たな都市の有益性として検討してみる価値が在る様に想う。そこでのスプリングボードを握っているのが「コモンセンス」なのだ。
•供託的公共性
都市の有益な公共性を「供託」の局面から把握するものになる。
都市を、地域を「供託」と言うしくみを介して皆で作り上げる公共性にトライアルできないか。
この発想も共としての公共性を試みるものの一翼を担うことになろうか。
ここでの供託とは、保証や担保として場所を公的都市資源に供出し、新たな都市再生への足掛りとする方法的手段を指していて、少なからずこの供託を手段にし、公共的有益性の資質を変えようとしている。
ある意味では渋谷再開発での公共貢献となる「アーバンコア」や「スカイウェイ」も供託的公共性を示すものでもあった。
それらは再開発事業に対して課せられた公共貢献としての供託空間ですが、再開発に在ってはあくまでも機能的公共性として位置付けられているのが実情だ。
同様に「公開空地」もこの供託的公共性と言えなくもないが、この「公開」が都市に充分に開かれた供託とはなっていないことは既に述べた。
従って、ここで考えたいトライアルはこのレベルではない。
供託のしくみで与えられた受動的公共性ではなく、供託のしくみを皆が理解し、それを使い倒そうとする逞しさが生まれる公共性を渇望する。
つまり、関わる人びと・使い手の積極的なコミットを促す供託的公共性の在り方を求めたいのです。それは単なる機能的公共性の補充で完結するのではなく、そこから先の意味的公共性、更には規範的公共性が育つまでの場所の力を展望したい。それらは次第に公から共としての公共的資質を増してくれるに違いない。
ところで、場所が機能的公共性から一歩踏み出す契機を生み得るものにエリアマネージメントが在る。
都市の公共資源のパフォーマンスを有効に引き出す為の活用マネージメントが、施設を社会と人びととに繋ぐ役割を果たすもので、その対象として、公園や施設の再生・更新策や休地・空地や空家の活用策が活かされるのです。マネージメント如何では公から共の公共性を施設が獲得できるものになるのではないか。
現在、私が感じている供託的公共性の実証は「リノベーション」に幾つも散見出来ます。
リノベーションはなんらかの理由で、今にフィットしなくなった施設を改めて公共的都市資源として供託し、その上で施設の、更には地域の再生に貢献しようとして実施されるものが多い。そこに改めて新たな公共性を生もうとしているのです。
実例を見てみよう。
「3331(旧アーツ千代田 3331)」は、廃校になった中学校舎を活用して地域の「アートセンター」として再生させようとしたリノベーションで、隣接する公園も一体として計画された。旧校舎・校庭更に公園も供託された公共施設となる。
ここは「アートセンター」としてのプログラムの他に、日常的に近隣の人びとが集い憩う安らぎのオープンスペースとしても深く利用されている。
こうしたリノベーション施設での様態を見ていると、明らかに供託的公共性が感知され、施設用途があまり限定されず、人びとの自由で能動的な関わりが生まれてくる楽しさが見られます。
リノベーションと言う供託方式がこの再生施設に対する人々の安心感と信頼感を引き出す源になっている、と感じられる。
それはなによりも、都市や地域に開かれた場所という新たな評価を裏付けてくれているのである。
これまで概観してきた供託的公共性は、今日の定常化社会、更には縮小化社会に対応してゆく為の公共施設の極めて有効な方策となるものだ。
その方策に力を与えるものが「リノベーション」と「エリアマネージメント」なのです。この二つの力に依って供託的公共性に共としての有益な資質が生まれ、こうした小さな場所から公共性の在り方に少しずつ変革をもたらすことになるのではないか。
•自生的公共性
都市の有益な公共性を「自生」の局面から把握するものになりますが、この様態は極めて稀少なもので、なおかつ異例なものになる。
自発性から生じる自生的な場所が次第に公共性を帯びてゆく、そのような経緯を持つものを自生的公共性とここで呼ぶことにしたい。
渋谷「宮下公園」の施設更新を巡る異議と闘争は、この自生的公共性に対する公と私との受け止め方の違いから生じて来たものだった。
そこでの最大の問題は、そうして芽生えた公共性への余地について広範な議論が一切無かったことでした。
その証拠に「MIYASHITA PARK」への移行時、スクウォッターとスケーターが共生するスポンティニュアスな公園プログラムの検討は一切無かったことが挙げられる。
私は都市の公共性について、一方的に「公」から明示されるだけでなく、「私」の側からもその不具合や不都合さを申し立ててゆくことが、都市の公共性を生きたものにしてゆく必至の条件だと考えています。
公が定めた公共性だけが公共の資質ではないはずだ。公共性を受けとめる側の「私」からも公共性にコミットしなくてはなりません。
そのコミットを通して、公共性の概念や枠組みを照らし出し、そこに疑いがあれば異議申し立てをしなければなりません。そうすることに依って、公共性は時代と共に変様してゆくものになりえるかもしれない。
ここまで、私たちが日々関わる都市の公共性の局面を、都市の有益性から概観してみた。
それは公共性の局面を「機能」・「意味」・「制度」・「権利」・「規範」・「供託」・「自生」などの有益性の諸層に焦点を当てて、その余地を探ることになりました。
こうした視界を携えて都市再生を促進させる為の都市の公共性を思索してきたが、アカデミックな「公共性」の議論からすると短絡や不足部分が多々あろう。そうした補充局面も含めて、「渋谷問題」として直視してゆきたい。
(つづく)