連載『月刊日本の団地~時代を映すダンチ12選~』vol.4 芦屋浜高層住宅

団地愛好家の有原です。
突然ですが、「ダンチって古い・・」と思っていませんか?
いえいえ、いま団地ではさまざまな新しい取り組みが行われているのです。
団地は建設時の社会の様相を映す鏡であると同時に、現在の取り組みはこれからの都市課題を解決するヒントにもなります。

建設当時の人々が団地に託した夢・・・。いまの団地で団地再生に奮闘する人々・・・。私と一緒に、新しい発見と感動の旅に出ませんか?


今回までvol.1『西長堀アパート』、vol.2『千里青山台団地』、vol.3『スターハウス』と紹介してきました。これらは1950~1960年代の建設で、「ダンチのはじまり」を象徴する黎明期の団地でしたが、
団地の設計や建設が円熟期に入ると、さまざまな新たな試みの団地が生まれるようになります。今回から紹介する3つの団地は1970~1990年代の建設で、よくあるハコ型の団地とはカタチもコンセプトも大きく異なる、いわば「進化したダンチ」です。
今回は、工業化工法(プレファブリック工法)で建設された未来的デザインのダンチ、『芦屋浜高層住宅』を紹介します!

◆海の上にそびえる未来都市!

兵庫県芦屋市。六甲の山並みを背に海の方へ目を凝らすと、霧がかった海の上に巨大なシルエットが浮かんでくる。水墨画の屏風を並べたような白黒の建造物が、圧倒的な存在感で林立している。実はこれは、高層のダンチである。埋め立て地・芦屋浜シーサイドタウンの中央に建設された『芦屋浜高層住宅』だ。

建設されたのは1979(昭和54)年。14~29階建ての住棟が52棟あり、住戸数は合わせて3,381戸のマンモス団地だ。この52棟はそれぞれ4つの事業者が管理・運営している。県営住宅の住棟は兵庫県、公社団地の住棟は兵庫県住宅供給公社、公団団地の住棟は日本住宅公団(現UR都市機構)、分譲団地の住棟は民間会社が事業主。つまり4つの家主がいる。

この芦屋浜高層住宅は、工業化工法により建設されたダンチである。そのため、建物の外観はきわめて機械的・人工的。「そこがSFの未来都市みたいでカッコいい!」と評価する人がいる一方、「工場みたい」「無味乾燥」といった感想も聞く。ある建築家はここを訪れて、「鉄骨の森」と評した。このダンチを「好きになれない」ひともいるのである。

◆あの有名作家の評価は?

このダンチを「好きになれない」派の一人に、作家の村上春樹がいることは、地元ではわりと知られた話だ。村上氏は『神戸まで歩く』というエッセイで、芦屋浜高層住宅を目にした時の印象を、「かつての芦屋の浜には、高層アパートがモノリスの群れのようにのっぺりと建ち並んでいる。」と書き記している。モノリスとはSF映画『2001年宇宙の旅』に登場した、正体不明の黒い石板のこと。決して好意的な比喩ではない。

さらに、村上氏の長編小説『羊を巡る冒険』では、「のっぺりとしたアパートの群れは空中都市を作ろうとして、そのままあきらめて放置された不幸な橋げたのようにも見えたし、父親の帰りを待ちわびている未成熟な子供たちのように見えた。」と描写。主人公は、眺めながら飲み干したビールの空き缶を一つずつ、かつて海だった埋立地に向けて投げ放つのだ。

そして『5月の海岸線』という短編小説に至っては、「高層住宅の群れは何処までも続いていた。まるで巨大な火葬場のようだ。」「僕は予言する。君たちは崩れ去るだろう、と。」とまで書き記しているのだ。(ただし、これらの小説に団地名の記載は無い)

村上氏は10代の少年時代を芦屋市で過ごした。この芦屋浜高層住宅が立つ埋立地のあたりは、かつて「打出の浜」と呼ばれた松林と白砂が続く浜で、夏には海水浴場として賑わったそうだ。少年時代の懐かしい思い出があるこの浜が失われたことに、村上氏は憤りを感じたのだろう。その気持ちは理解できる。

だが、ちょっと待ってほしい。この芦屋浜高層住宅が建てられた物語を知らずして、その存在に眉を顰(ひそ)めることは早計である。このダンチの完成までは、当時の社会課題とその解決に心血を注いだ技術者たちのドラマがあったのだ。その物語を紐解いてみよう。

◆ナショナル・プロジェクト浮上!

「打出の浜」と呼ばれた美しい浜を、なぜ埋め立てなければならなかったのか?
これには、当時の芦屋市が抱えていた問題があった。昭和30年頃から市内にマンションの建設が増えたため、人口過密に悩まされていたのだ。学校・公園・スーパーが不足するとともに交通量も増加。そこで、芦屋市は新たな土地を創り出そうと、1966(昭和41)年に浜の埋め立てを兵庫県に申請。埋め立て事業は、もともとは芦屋市単独の計画だったのだ。しかし、この申請は認可されなかった。

実はその頃、兵庫県でも埋め立て計画を策定中だったのだ。住宅需要に応える理由もあったが、この海岸線を含む、窪みになった一帯には高潮のエネルギーが集中し、過去に大きな災害を呼び起こしたことがあった。
そこで兵庫県の事業として、1969(昭和44)年から埋立地造成が着工された。だがこれを、「芦屋市はトンビ(兵庫県)に油揚げさらわれた」と揶揄(やゆ)する人もいた。

一方、国の建設省(当時)では、住宅供給の遅れに頭を悩ませていた。この頃は高度成長期で、5ヵ年に全国で950万戸もの住宅を供給する必要があった。つまり、1年で190万戸である。しかし従来の工法では1年で130~140万戸の建設が精一杯。残りの50~60万戸をどうするのか?
その答えは、住宅建設を工業化することで迅速化を図ること。そして、そのために民間企業が保有している技術を結集させることが必要不可欠だったのである。。

フランスでは、役所が仕様を示し民間が技術開発をする「性能発注」と言う方策が行われていた。これにヒントを得て、工業化工法をテーマとした設計提案競技(コンペ)の実施が決定された。企業から応募された高層集合住宅の計画のうち最も優れた提案を建設し、当時の最先端の技術を結集した21世紀のモデル都市をつくる。これにより全国の住宅業界の高層化・工業化を一気に促進しようという、国家の威信をかけたパイロット・プロジェクトだった。

しかし、出だしから建設予定地の選定に難航した。初めは東京都練馬区にあったグラントハイツ米軍基地跡地を検討したが決まらない。
そこで建設省は3大都市圏にヒアリングを行った結果、いくつかの候補の中から、芦屋浜の埋め立て地を選出したのだ。兵庫県は歓迎していたそうだが、国が都合よく事業に割り込んできたようにも見える。こうして、国・兵庫県・芦屋市の利害と思惑が一致し、この一大プロジェクトはスタートしたのである。

◆コンペ実施!これがプロジェクト案だ!

1972(昭和47)年、建設省・兵庫県・芦屋市・日本住宅公団(当時)・兵庫県住宅供給公社・㈶日本建築センターの6団体が共催で、「工業化工法による芦屋浜高層住宅プロジェクト提案競技」を実施。それまで実績のなかった、14階以上の高層住宅を工業化工法で建設するという、技術開発の提案を求めた大規模なコンペだった。

結果、127企業・22グループが応募し25の提案があった。その中から第1位に選ばれたのがASTEM(アステム)企業連合のプランだ。
ASTEMとはA=芦屋浜、S=新日本製鐵(当時)、T=竹中工務店・高砂熱工業、M=松下電工(当時)・松下興産の頭文字を組み合わせて名付けられたグループ名。
審査では「技術的な詰めも全体として不足無く、極めて高い水準でまとめられていた。さらに現行法規に触れる点も全提案の中で比較的少ない」と評価された。何よりも実現性が重視されたことが窺える。どのような提案だったのだろうか。

私の手元に、『工業化工法による芦屋浜高層住宅プロジェクト提案競技』という古い本がある。1974年の発行で、当時応募があった25提案全てを収めた記録誌である。箱入りで布表紙の2冊組、各冊420ページという豪華な製本だ。箱に定価55,000円とあるのも肯ける。この資料の中から、ASTEMの提案を見てみよう。

まず気付くのは、52棟もある住棟の絶妙な配置だ。
4つの事業者があることを最初に述べたが、これを4つのゾ―ンに分けるのではなく、2つの事業者の住棟を、広場を囲むように混在させている。
これは、住人の年齢構成、所得分布の偏りから生じるコミュニティの歪みを避けるため考えられた配置計画だったのである。

次に、住棟の設計を見てみよう。特徴的な工業的ファサードは、トラスと階段で形成された鉄骨大架構構造に、4層の住戸が幾セットも収まる構造により生み出されている。住戸ユニットはプレキャスト板で構成され、工業化工法の適用を容易にした。
設計のみならず、建設工法・生産・価格・管理に至るまで、広範囲にわたるトータルシステムを提案。真空ごみ収集装置や地域暖房給湯システム等も、当時としては革新的だった。

また5階ごとに共用階が儲けられており、これらはトラスのみで壁が無いセミパブリックフロアである。
エレベーターはこの共用階にのみ停まるので、各住戸には、この階から階段を上がるか下りるかしてアプローチする。
このフロアは「空中公園」と呼ばれ、住人同士のふれあいの場となることを想定して設計された。高層集合住宅特有の問題点とされる「人のふれあい」「幼児の遊び場」を解決し、コミュニティの形成を図ることが狙いだった。また、上階に延焼する危険性を回避する機能も併せ持ち、災害時は避難場所としても使われる。

提案書にある住宅模型の写真を見ると、この共用部から外壁の外まで植栽が溢れ出ている。工場のようで無味乾燥と評されることもある芦屋浜高層住宅だが、技術者たちは既成の自然植生が存在しない埋立地に誕生するこの団地に、成長の早い樹木を導入することで、人々と自然との触れ合いの場を作ろうとしていたのだ。

◆建設スタート!空に向かってまちをつくれ!

埋め立て事業は、コンペに先だつ1969(昭和44)年から進められていた。埋め立てで心配されるのは地盤沈下だが、芦屋浜の埋め立てでは特にその点を考慮し、通常使用される浚渫(しゅんせつ)で発生した土砂ではなく、わざわざ淡路島の山土を船で運んで埋め立てた。こうして1975(昭和50)年、芦屋沖に125ヘクタールの埋め立て地が完成した。

そして、いよいよ建設工事の着手である。気鋭の技術者のもと、総延べ人員70万人がこの途方もなく、誰もが経験したことのない超高層住宅の建設事業に挑むのだ。こうして、ダンチ版「プロジェクトX」はスタートしたのである。

広大な埋め立て地に巨大なタワークレーンが何機も立ち、鉄柱を建ち並べてゆく。鉄骨が組立てられると、工場で作られたPC版が床や壁として次々と貼られる。これらの鉄骨や外壁材などの建設資材は、通常なら工場から建設現場までトラックやトレーラーで輸送するの
だが、巨大な芦屋浜高層住宅の部材は膨大で、交通渋滞を引き起こす恐れがあった。そのため、部材98万トンのうち85%は海側から船で運びこまれた。スケールの大きなエピソードである。

床が貼られると、次は大きな四角い箱が1個ずつクレーンで各戸に置かれてゆく。この箱は襖(ふすま)や扉などの仕上げ部品と、バスユニットやキッチンなどの設備品をパック化したものだ。1住戸を造るのに必要な仕上げ部品が詰め込まれている。その後、次の上階の床板を載せて蓋をする。箱は住戸内で開封され、所定の場所にそれぞれの部材が取り付けられる。このようにして、部材を楊重する手間と時間を省いたのだ。こうして作られた室内は、柱・梁のでっぱりが無く広くなり、住む人には好評だった。

◆役所同士のケンカに巻き込まれる住民たち

こうして、ついに芦屋浜高層住宅は完成した。1979(昭和54)年から入居が開始。県・公社の賃貸住宅棟には約4倍もの入居応募者があり、大人気だったという。関西では芦屋は裕福で優雅なイメージがある。この団地の住所は芦屋市。あこがれの芦屋に住めることに魅力を感じ、入居を決めた人も多かったそうだ。

ところが竣工して間もなく、住人たちは前例のない住宅での暮らしにおける、様々な苦労を味わうことになる。例えば、冬季に窓の内側が結露する、風が強く洗濯物が干せない、海辺なので自転車が錆びやすいといった様々な問題が顕在化した。実験的な試みだった「空中公園」は、海から吹き抜ける風が強く、あまり利用されなかった。

また住人たちは生活インフラ整備の遅れにも泣かされることになる。学校やスーパーの開設が間に合っていなかったのだ。今も語り草なのは、入居時に芦屋市が水道の供給を止めたことである。当時の兵庫県と芦屋市が、教育問題等の不一致により激しく対立。早期の解決を図ろうと、市側が給水を停止するという強行措置に出たのだ。国・兵庫県・芦屋市が協働したプロジェクトだったが、その裏で様々な政治的綱引きがあったのである。

住人による抗議運動の効果もあっただろうが、給水の問題は、兵庫県が裁判所へ仮処分申請し、和解が成立して収束。その後も、住人たちは学校問題・バス路線問題・買い物問題など、様々な交渉を行政に働きかけ、暮らしの不便を一つずつ解消していった。皮肉なことに、問題の解決に向けた結束が、住人同士の連帯強化につながったのだ。

そして時代は平成。1995(平成7)年の阪神・淡路大震災では、住棟の鉄骨柱が破断。断面50㎝角・厚み5㎝もある鉄骨柱の母材が破断したことは、当時の建設業界にも衝撃を与えた。(100円玉が収まるほどの幅の亀裂を撮影した当時の写真を見ると、胸を衝かれる。)

だが、芦屋浜高層住宅は倒壊することなく地震に耐えた。村上春樹が予言したように「崩れ去る」ことはなく、住人たちの命と家財を守ったのだ。この破断面は当て材を溶接して強度を回復させ、現在は完全に修復されている。震災後には自治会の発案で、防災倉庫をセミパブリックフロアに設置することになった。利用の少なかった空中公園は、今となって役立ったのである。

◆またあしたプロジェクト

そして現在。建設から40年が経ち、芦屋浜高層住宅でも高齢化が進んだ。当初から住む住人も減り、空き住戸の増加や地区の活力低下が見られるようになってきた。芦屋浜高層住宅がこの先も活気ある選ばれる街にするため、兵庫県住宅供給公社はコミュニティ作りの活動に乗り出した。武庫川女子大学・芦屋浜自治連合会と提携し、2016(平成28)年から「またあしたプロジェクト」と呼ぶ活動を行っている。

2017(平成29)年には団地内の集会所を、住人たちと行ったワークショップをもとに学生がプランを考案し、多世代交流の拠点として自らの手でリノベーションした。
この集会所では、絵本の読み聞かせなどの定期的なイベントも開催している。こうした取り組みを通じて、新たな多世代コミュニティ形成に取り組んでいるのだ。
このプロジェクト名は、「またあしたも誰かがそばにいるように」という願いが由来だそうだ。

◆芦屋浜高層住宅とは何だったのか

こうして見てきたように、芦屋浜高層住宅は類を見ない巨大プロジェクトだった。市民に愛された浜を埋め立て、建設に3年7ヶ月の年月と480億円という費用を費やした。超高層住宅という条件があり、発注者(家主)も複数ならば受注者も企業連合を組むという、団地の建設としては全く新しい手法を採用した。建設途上には石油ショックもあり、建設部材の高騰などの苦難もあったという。このようなプロジェクトが実現したこと自体が奇跡的である。「これほど大規模な開発は、現在では不可能」というのが、識者の一致した意見だ。

このプロジェクトに当時の技術者たちは心血を注いだ。住宅不足の解消や工法の発展に挑むばかりか、その先のコミュ二ティのあり方までを提案するなど、未来の住まいの実現に懸けた彼らの熱量には心打たれるが、注目すべきは技術者ばかりではない。入居当初に様々な生活課題の解決に向け、主体的に行動した住人たちもまた、物語の主人公たちである。芦屋浜高層住宅の計画から建設、そして住民の奮闘までの足跡は、高度成長に邁進した日本社会の歩みにそのまま重なる。みんなが次の時代を切り拓いていったのである。

芦屋浜プロジェクトで得られた様々な知見は、当初の目的どおり、その後の高層集合住宅の建設に活かされた。芦屋浜高層住宅で試された多くの工法は、今では当たり前のものになっている。
だが現在、都心部で数多く建設されているタワーマンションを見ると、住宅供給側の経済的合理性が優先され、芦屋浜高層住宅が目指したような新しい暮らしの提案や、住人同士のコミュ二ティへの配慮は感じられないように思う。

ダンチを無個性と批判することは容易だ。だがその歴史を紐解くと、人々の幸せな住まいの実現に汗と涙を流した人々がいた。そこには敬意を表すべき歴史と物語が確かに存在する。そして、今もここに住む人々にとっては、この芦屋浜高層住宅こそが我が家であり、ふるさとだ。このベランダの窓の灯り一つ一つに、人々の暮らしとそれぞれの人生がある。そのことを私たちは忘れてはならない。夜の海上に浮かぶ芦屋浜高層住宅の輝きを眺めながら、そう思った。


前回と今回の記事で説明したように、一口にダンチといっても、管理・運営している事業者(家主)は様々だ。よく知られるのは、日本住宅公団(現・UR都市機構)の公団団地だが、それ以外にも地方住宅供給公社の公社団地、地方公共団体の公営住宅(府営住宅や市営住宅など)といったダンチもある。実は、この公営住宅にはユニークなデザインの住棟が多い。このことは、もっと評価されていいと思う。
そこで次回は、個性的なデザインのダンチ、『府営東大阪吉田住宅』を紹介する。〈vol.5へつづく〉

【参考文献】
・『辺境・近境』(村上春樹著/新潮社/1998年)
・『羊をめぐる冒険』(村上春樹著/講談社/1982年)
・『カンガルー日和』(村上春樹著/平凡社/1993年)
・『工業化工法による芦屋浜高層住宅プロジェクト提案競技』(財団法人日本建築センター編著/工業調査会発行/1974年)
・『新建築1979年2月号』(新建築社/1979年)
・『海に建った未来都市 : 芦屋浜の超高層』(佐藤早苗著/毎日新聞社/1980年)
・『建築人No.622』(公益社団法人大阪府建築士会発行/2016年)

※団地を訪問する場合は、居住されている方々の迷惑にならないよう十分注意しましょう。


連載記事一覧

著者プロフィール

有原 啓登

(ありはら ひろと)
団地愛好家。1973年神奈川県横浜市の左近山団地出身。大阪府立北野高等学校、近畿大学理工学部建築学科卒業。関西のゼネコン勤務を経て現在は地方住宅供給公社に勤務。公営住宅の指定管理者応募、 公社団地の団地再生等に携わる。個人の趣味でSNSに『週刊日本の団地』『都市計画・街づくりブックレビュー』を投稿したところ評判を呼び、大学や企業から講演の依頼が来るまでに。趣味は団地訪問と団地の本収集。


記事をシェアする

学芸出版社では正社員を募集しています
学芸出版社 正社員募集のお知らせ