連載『月刊日本の団地~時代を映すダンチ12選~』vol.1 西長堀アパート
団地愛好家の有原です。
突然ですが、「ダンチって古い・・」と思っていませんか?
いえいえ、いま団地ではさまざまな新しい取り組みが行われているのです。
団地は建設時の社会の様相を映す鏡であると同時に、現在の取り組みはこれからの都市課題を解決するヒントにもなります。
今月から、私がお薦めする秀逸な団地を紹介していきます。建設当時の人々が団地に託した夢・・・。いまの団地で団地再生に奮闘する人々・・・。私と一緒に、新しい発見と感動の旅に出ませんか?
第1回目に紹介するダンチは、あの司馬遼太郎・野村克也など多くの文化人が愛した『西長堀アパート』です!
◆多くの文化人が住んだマンモスアパート
西長堀駅を降り、大阪市立図書館を少し北に歩いた場所にこの団地は建つ。縦長のスリット窓が連続する外観が印象的な『西長堀アパート』だ。日本住宅公団(現UR都市機構)初の高層市街地住宅として、1958(昭和33)年に完成。
戦後の日本が直面した問題が住宅不足だった。当時の鳩山内閣は住宅の大量供給を公約。その使命を帯びて1955(昭和30)年、日本住宅公団が設立された。将来訪れるであろう住宅の高層化時代に備える試金石として、公団は二つの高層住宅を建設した。東京の晴海高層アパート(前川國男設計)と、大阪の西長堀アパートだ。
昭和30年代はまだ高層住宅が珍しかった時代。竣工当時の西長堀アパートは長堀川(現在は埋め立てられ道路になっている)に面し、川面に映るその雄大な姿は「マンモスアパート」と呼ばれた。
庶民が賃借できる低廉な物件ではなく、小説家の司馬遼太郎・女優の森光子・プロ野球選手の野村克也といった成功した文化人たちが住んだ。エントランスには連日ハイヤーが連なったという。
西長堀アパートは、今で言う六本木ヒルズやタワーマンションのような、憧れの住まいだったのだ。
◆リノベーションによる団地の再生
竣工から60年。現在の西長堀アパートは、自身より高い建物群に囲まれている。
UR都市機構は2014年に耐震改修と内外装のリノベーションに着手。西長堀アパートは再び都市型住宅として活用されることになったのだ。
特徴的な縦長のスリット窓の外観はそのまま活かされた。エントランスには前衛美術家の吉原治良の壁画が残され、華々しかった当時の文化の薫りを留めている。
◆団地が『竜馬がゆく』を産んだ?
西長堀アパートの付近を歩いてみると、土佐稲荷神社や鰹座橋西線といった名を目にする。この一帯は、かつて土佐藩邸があった場所なのだ。
司馬遼太郎も昭和37年のエッセイで、「私はいま、かつて土佐藩の大坂屋敷があった場所に住んでいる」と記述している。
この団地に住んでいる時期に、あの時代小説の名作である『竜馬がゆく』を執筆したそうで、先のエッセイでも、竜馬があたりを往復したであろうことを思い感慨をもつことがあると述懐している。
この団地がある場所が、作品にリアリティを添えることに一役買ったかもしれない。
東京の晴海高層アパートは、住宅史を学べば必ず出てくる名作だが、残念ながら1997年に解体された。今も現存し、住宅として活用されている西長堀アパートは、住宅史においても、昭和の大衆文化史においても、それらの歴史を今に伝える貴重なダンチなのである。
西長堀アパートは、まだ庶民の手が届く物件ではなかった。しかし、1961(昭和36)年に千里ニュータウンの開発が始まると、団地がいよいよ庶民の住まいとなる。
次回は、千里ニュータウンにある『千里青山台団地』を紹介する。 〈vol.2へつづく〉
【参考文献】
・『新建築2016年8月号』(新建築社)
・『司馬遼太郎が考えたこと2エッセイ1961.10~1964.10』(司馬遼太郎/新潮文庫)
※団地を訪問する場合は、居住されている方々の迷惑にならないよう十分注意しましょう。