連載「欧州ランドスケープ探訪」vol.7|ヘルシンキ:国のアイデンティティとなる岩と森のランドスケープ

ベルリンでランドスケープアーキテクトとして働き始めた私は、一体なぜランドスケープが必要なのか、ランドスケープはどういう設計思想にもとづいているのか、といった問いについて、まだはっきりとした答えが出せていない。
ランドスケープアーキテクチャが対象とする庭、広場、公園が生まれ、発展した地であるヨーロッパの各地を巡ることで、その答えが出るのではないか。そんな期待をもって、ランドスケープを巡る旅に出ることにした。これは、ヨーロッパ各都市のランドスケープの傑作を訪れる中で見えてきた、ランドスケープの設計思想に関する備忘録である。

筆者/中島悠輔(ランドスケープアーキテクト)

氷河期の岩と生きる街

ヘルシンキは他のヨーロッパの都市と比べると街が小さい。
中央駅から20分も歩けば、街の端にある港に着き、巨大な岩と森が残る島々を海の向こうに臨むことができる。

氷河期から残る岩石と、金色に輝く草原や森は、街の中にも点在している。アパートの間に巨大な岩が横たわっているのを見つけることもあった。百万人を超える人が住んでいるが、どこか自然との近さを感じる可愛い街だ。

ヘルシンキ港に繋がるエスプラナーディ公園
ヘルシンキの港と市庁舎
海に浮かぶ巨石がと草原が広がる島々
スオメンリンナ要塞の巨石と草原が広がる景色

ヘルシンキは〈フィンランド国立博物館〉や〈テンペルアウキオ教会(岩の教会)〉など、岩を使った建築が有名だ。〈テンペルアウキオ教会〉は、天然の岩をくり抜いて造られており、岩がむき出しになったホールの壁は、地層を見ているようで、氷河時代の歴史とそこに積み上がるフィンランドの人々に歴史と文化を感じることができる。

テンペルアウキオ教会からは氷河期から続くフィンランドの文化を感じる

岩を使う文化は建築だけでなくランドスケープにも見て取れる。
ヘルシンキ大聖堂前の広場〉や街の歩道には様々なパターンの石畳や石の階段を見ることができ、街中の公園にある遊具には大きな岩を使ったものもあった。
実は、岩とそれを囲む森、草原がヘルシンキのアイデンティティとなったのは150年程前のことにすぎない。

ヘルシンキ大聖堂に続く石畳の道路と階段
ヘルシンキ大聖堂前の広場のシンプルな石のパターンが美しい
子供が遊ぶ公園の遊具にも石が使われている

岩と森がヘルシンキの象徴となるまで

現在フィンランドがある土地には、氷河期が終わった紀元前9000年頃から人々が住み始め、紀元前3000年頃からフィン人、サーミ人が南北に分かれ自治をしていた。彼らは国を作らず木造のテントのような住居を使っていたが、紀元前3500年頃からはログハウスを造るようになり、倉庫やサウナ、住居として利用したとされる。

13世紀にスウェーデン人による統治が始まり、スウェーデン人は都市防衛のために石造りの城や要塞を造るようになった。また同時期、キリスト教が伝わり、石造りの教会も造られた。

18世紀に造られた〈スオメンリンナの要塞〉はロシアからの攻撃を守るための海上の要塞だが、島は高い岩の壁で囲まれ、島中央部の巨石が転がる丘には石造りの防空壕や洞窟、砲台が点在する。

スオメンリンナ要塞の海に突き出る石の壁
スオメンリンナ要塞の丘の至る所に防空壕や洞窟がある
スオメンリンナ要塞の人工石と天然石のビーチ

16世紀頃からは、スウェーデンとロシア間でのフィンランドの領土を巡る戦争が繰り返し勃発した。1807年のフィンランド戦争におけるスウェーデンの敗北を機に、ロシア皇帝アレクサンドル1世が大公として支配するフィンランド大公国となったのち、続くアレクサンドル2世により大幅な自治権が認められた。

自治を認められたことをきっかけに、ここからフィンランドという国のアイデンティティの模索が始まる。

1835年にはフィンランドの民話や歌を集めた叙事詩『カレワレ』が出版され、民族のアイデンティティを探る議論が加速した。芸術分野では“ナショナルロマンティシズム”という人の地域固有の生活に美しさを見出す流れが巻き起こり、エーロ・ヤルネフェルトはフィンランド東部の山、コリから臨む岩と森と湖の風景画を描いた。

また、1840年から1880年にかけて『Fänrik Ståls sägner(ストール少尉物語)』という詩集や、『Finland framställd i teckningar(絵の中のフィンランド)』というフィンランドの景色に関する絵や写真を集めた図版集が出版された。『Finland framställd i teckningar』ではナショナルロマンティシズムの芸術家等が発表した、緩やかな丘に横たわる巨石とそれを囲む森、そして穏やかな湖の風景が紹介されている。

さらに1875年に公立学校のフィンランドの歴史や地理の教科書として出版されたヘルシンキ大学の歴史学教授、ザクリス・トペリウスによる『Boken om vårt land(わが祖国の本)』が読まれることにより、フィンランドという国や民族、歴史と風景についての固まったイメージが幅広い層の人々に浸透するようになった。

こうした芸術面での取り組みが民族意識の高まりを後押しし、1917年のロシア革命をきっかけにフィンランド共和国として独立した。

エーロ・ヤルネフェルトによるフィンランドの原風景の模索

アイデンティティとなるランドスケープとは

19世紀のナショナルロマンティシズムの風景画に描かれた景色は、今でもヘルシンキ市内各地に残っている。〈スオメンリンナの要塞〉の丘や、〈ラマサーリ自然公園〉の草原と森と湖、〈テンペルアウキオ教会(岩の教会)〉の岩の公園――。こうした空間を散歩していると、ヨーロッパの他の地域では失われてしまった、氷河期から存在する自然と、それを利用してきた人々の歴史を感じることができる。

スオメンリンナ要塞の丘に座りくつろぐカップル
スオメンリンナ要塞の岩と草原を探検する人
テンペルアウキオ教会の岩の丘を散歩する人
海辺近くの公園の岩を覆う金色の草原が美しい
ラマサーリ自然公園の森と湖と草原の景色
湿地帯の草原と森の景色
海沿いの様々な花が咲く野原を歩くと風景画の中にいるようだ

画家や小説家が発表した様々な絵画や写真、文学を通し、文化のイメージを人々が自ら見つめ直したことによって、岩と森と草原に象徴されるフィンランドの風景は、ゆっくり時間をかけてフィンランドのアイデンティティそのものとなっていった。

また同時期、建築においても、ナショナルロマンティシズムや北欧新古典主義、北欧モダニズムなど、それぞれの時代に欧州で流行した新古典主義やモダニズム等の建築様式をベースにフィンランドらしさを模索する建築様式が生まれた。その中で、エーロ・サーリネンやアルヴァ・アアルトといった巨匠が〈ヘルシンキ中央駅〉や〈アルヴァ・アアルトのアトリエ〉等の傑作を残している。

アアルトのアトリエはモダニズム建築だがヘルシンキの木の温もりを感じる

ヘルシンキの、他の欧州諸国にない岩と森の風景の中に身を置き、他民族による支配とアイデンティティを模索したフィンランドの歴史に想像を巡らせると、地域のアイデンティティを象徴するランドスケープの重要性をひしひしと感じる。

日本に人が住み始めたのは4万年程前と言われており、それ以来、旧石器時代の原始的な生活や、平安から江戸時代の貴族や武士による争乱と統治、明治時代以降の様々な国際的な戦争と高度経済成長など、様々な歴史が積み重なってきた。

日本で公園や広場を設計する際には地域性が常に議論されるが、こうした複雑な歴史を踏まえて地域のアイデンティティを定義し、その上で空間として表現するのは至難だ。

しかし、それだからこそ、フィンランドの芸術家や建築家が制作活動を通してフィンランドらしさを模索したように、日本のランドスケープアーキテクチャにおいても、私たちデザイナーこそが、自身で解釈した地域のアイデンティティ像をもとにして、挑戦的に提案し続けるべきだろう。その多様な積み重ねが時間をかけて人々に精査された先に、「日本らしいランドスケープ」が浮かび上がってくると考える。

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筆者紹介

中島悠輔(なかしま・ゆうすけ)

1991年生まれ、愛知出身。ベルリンのランドスケープ設計事務所Mettler Landschaftsarchitektur勤務。
幼少期にシドニーに住んでいた経験から自然に近い生活空間に興味を持ち始め、東京大学・大学院にて生態学・都市計画学を学びランドスケープという言葉に出会う。大学院卒業後1年間、設計事務所等でインターンをし、留学準備を進め、18年より渡豪し、2020年にオーストラリア メルボルン大学Landscape Architecture修士課程を修了。ヨーロッパ、特にドイツの機能美のデザインを学ぶために、2021年に渡独。2020年より400人が参加する国内外のランドスケープアーキテクチャに関する情報交換のためのFacebookグループ「ランドスケープを学びたい人の井戸端会議」を運営。

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