“意図されない隠蔽”としての巨大再開発 – 北山恒「渋谷問題という起点」(第1回)|連載『「みんなの渋谷問題」会議』

この連載について

渋谷再開発は百年に一度とされる民間主導の巨大都市開発事業で、今後の都市開発への影響は計り知れない。この巨大開発の問題点を広く議論する場として〈みんなの「渋谷問題」会議〉を設置。コア委員に真壁智治・太田佳代子・北山恒の三名が各様に渋谷問題を議論する為の基調論考を提示する。そこからみんなの「渋谷問題」へ。

北山恒(きたやま・こう)

1950年生まれ。横浜国立大学大学院修士課程修了。1978年ワークショップ設立(共同主宰)、1995年architecture WORKSHOP設立主宰。横浜国立大学大学院Y-GSA教授を経て、2016~2021年法政大学教授。2021年awnに組織変更、同時にネットワーク組織AWN設立。現在、横浜国立大学名誉教授、法政大学客員教授。

はじめに 問題の所在

真壁智治さんから「みんなの渋谷問題」という提議を受けてこの文章を書くことになった。都市の巨大再開発の問題は、問題が見えないことかもしれない。というか、問題が隠蔽されている。それは意図された隠蔽ではなく、意図されない隠蔽なのかもしれない。そしてこの社会にある構造的な抑圧のなかで、「問題」が問題化していないようにも思える。問題がわかりやすく見えれば街に出てデモンストレーションしたいのだが、問題が見えないから「みんなの問題」とはならない。だから、問題がどこにあるのか考えてみたいと思う。

≪横にスクロールしてお読みください≫

タガが外された資本

 都市という空間システムはヨーロッパ文明がつくったものである。この空間システムは管理する強大な権力が必要である。かつては王権などの個人支配であったものが、現代では民主的な支配となる。行政が民主的な支配に基づき市民が集合する生活を保障しようとすると、そこには個人では実現できない広域の公共空間が生まれる。民主的支配による公共性は、公的な道路などの交通機関の整備や都市公園、河川やウォーターフロントの整備、生活を支える水やエネルギーなどのインフラ、なによりも風景や景観というコモンズ(社会的共通資本)を守ることである。

 民主的社会では個人の権利・自由を保障しようとするのだが、それが資本主義の活動を支える基盤ともなっている。資本主義は私的利益の最大化を求める運動なので、公的な利益をまもるため政治によってこの運動に規制をかけ制御する必要がある。現在東京で起きている巨大再開発の問題は政治が規制緩和というタガ外しをおこない、資本の暴走を許すという異常な状況であることだ。そして、この巨大再開発が人間の生活スケールを超えた時間・空間で工事が行われるため、人々はこの暴力に気づかない。または気づけないのだ。

都市を記述する時・空間

 真壁さんの『臨場 / 渋谷再開発 / 工事現場』を読んでいて、『アーバンフロッタージュ』(1996)、『感応』(1997)を思い出した。それは都市という物体を紙に転写するという作業を、本当に文字通りフロッタージュしてそれをそのまま書籍にするという実践だった。都市というつかみどころのない実態を物質に還元して書籍という紙の塊にして見せる。それはM・デュシャンやJ・ケージが物質や音の美学を還元して観察者の問題に反転し、突きつけているような迫力があった。そして、この『臨場』は、渋谷再開発の現場を至近距離で描写している。それは『アーバンフロッタージュ』が物体を紙に転写したものであったのを、今度は文字で都市をフロッタージュしているように思える。

 真壁さんが報告する「渋谷問題」では、都市の日常空間が巨大な力で改変していることを、「憂鬱・抵抗・憧れ・感動・諦め」という感情をもって受け止める。「渋谷問題」の気づきが伝えることは、都市の巨視的変容を観測し、それを人間のスケールに翻訳し、人々が了解できるものにしていることなのかもしれない。この20年ほどで東京という都市は大きく変容している。現在も都内ではいたるところで同様の巨大再開発がおこなわれているが、なぜか遠い出来事のように感じる。それは開発事業が大仕掛けすぎるのか情報が巧みにコントロールされているためか、そして、鉄骨の建ち上がるときに突然都市にその姿を現すことになる。

 「渋谷問題」は今の東京の都市を表象する問題でもあるのだが、この都市のなかでは他でも進行している巨大再開発という資本の暴走がある。すでにセットが終わりつつある麻布台開発や、これからセットされようとしている外苑開発など、資本による巨大な都市破壊が衆人の眼の前で公然と行使されている。現在行われている巨大再開発のほとんどは資本が自己利益のために自動機械のように運動しているものなのだが、本来はこの運動に抑制を掛ける政治が機能していないことが問題である。が、それどころか政治がこの運動に正当化する根拠を与え運動を加速させているのだ。これを政経癒着(コーポラティズム)という。

 このような巨大な再開発工事が都市のいたるところで始まったのは、2002年に巨大再開発を促す法改正が行われたからである。この20年ほど、東京の都市風景はガラガラと大きく変わっている。しかしながら、このような巨大再開発は工事期間が数年から10年近くかかるため、日常で観察しない限り変化は緩慢なので、その小さな変化が積み重なった大きな変化も驚きもなく受け入れてしてしまう。

劇場型再開発

 通常工事現場は事故の危険があるため市民から隔離された状態で工事が行われるが、真壁さんが「劇場型再開発」と名付けるように、渋谷再開発の現場は公共交通施設であるために衆人環視の下で開発工事が行われている。しかも、渋谷再開発は工事現場のなかに公共通路(パブリックルート)が設けられるという、普通ではない特殊な工事現場である。旭川動物園の水族館の水槽のなかにアザラシや魚を観察する透明チューブが設けられているが、ここでは工事現場のなかに通路が設けられ、人々が工事現場という非日常を経験することができる。さらに工事の都合でそのルートは時々変更されるというスペクタクルなのだ。

 そんな面白い「劇場型再開発」であり、幸せなことに人々はその変化を身近に観察できる。「渋谷問題」とは、市民の多くが都市の巨大再開発を身体的に感じることができるからこそ浮かんでくる問題意識なのだ。日々日常生活で使う駅のなかで、監理者から一方的にルートが決められ迂回しなければならなくなったり、目隠しされた通路を歩かなくてはならないのは何故なのか。よりよくなる未来のために私たちは我慢しているのか。誰がこのルートを決めているのか。誰がこの不便な期間をいつまでと決めるのか。ルートの上に鉄骨が落ちてくるような危険は全くないのか。何のためにこのような巨大な工事が行われるのか。

臨場 渋谷再開発工事現場』(平凡社/2020)
『アーバン・フロッタージュ』(‎ 住まいの図書館出版/1996)
『感応 Urban Practice』(用美社/1997)

(つづく)

連載記事一覧