連載『月刊日本の団地~時代を映すダンチ12選~』vol.5 府営東大阪吉田住宅

団地愛好家の有原です。
突然ですが、「ダンチって古い・・」と思っていませんか?
いえいえ、いま団地ではさまざまな新しい取り組みが行われているのです。
団地は建設時の社会の様相を映す鏡であると同時に、現在の取り組みはこれからの都市課題を解決するヒントにもなります。

建設当時の人々が団地に託した夢・・・。いまの団地で団地再生に奮闘する人々・・・。私と一緒に、新しい発見と感動の旅に出ませんか?


これまで説明したように、一口にダンチといっても、管理・運営している事業者(家主)は様々です。
よく知られているのは、日本住宅公団(現・UR都市機構)の公団団地ですが、それ以外にも、地方住宅供給公社の公社団地、地方公共団体の公営住宅(府営住宅・県営住宅・市営住宅など)といった種類のダンチもあります。なかでも、この公営住宅にはユニークなデザインの住棟が多いのです。このことはもっと知られて、評価されていいと思います。
そこで今回は個性的なデザインのダンチ、『府営東大阪吉田住宅』を紹介します!

◆A、B、C、D、ダンチの種類!

大阪府吹田市から豊中市に跨る千里ニュータウン。大阪府が1960年代に開発した、日本初の本格的なニュータウンである。ここには多くの団地が立っているが、歩きながら団地の壁々を眺めるとあることに気付く。

住棟を示す番号が壁に記されているのは。団地でよく見る光景だが、ここ千里ニュータウンにある団地の住棟表示には、アルファベットが記されているのだ。例えば、A-1、B22、C64など。【写真(1)~(4)】このアルファベットは何を意味しているのだろうか。

写真(1)

写真(2)

写真(3)

写真(4)

実はこれは事業主、つまり建物を所有・管理する組織を表す符号である。Aは大阪府住宅供給公社の公社団地(賃貸・分譲)、Bは大阪府の府営住宅(公営住宅)、Cは日本住宅公団(現・UR都市機構)の公団団地(賃貸・分譲)、Dは企業等の給与住宅(社宅のようなもの)などその他の団地を表しているのだ。

A-1なら公社団地の1棟、C64なら公団団地の64棟を意味する。このアルファベットでその住棟の事業主、つまり家主が分かるようになっているのだ。一見、同じように見える団地でも、事業主や団地の種類は様々であることがわかる事例である。
※一方、アルファベット付きの住棟表示は住人同士のコミュニティ形成に好ましくないと考えられ、千里ニュータウン以降に開発された全国のニュータウンでは採用されなくなった。

さらに千里ニュータウンを歩き進めると、中央の広場を3つの住棟が囲んでいる団地に出くわした。【写真(5)】

上空から建物を見下ろした配置を図示すると【写真(6)】のようになる。

写真(5)

写真(6)

3つの住棟で「コの字」を形成している。住棟表示を見るとBが付いているので、これは府営住宅ということが分かる。
「コの字」配置の府営住宅は、千里ニュータウンのあちらこちらに見られるが、なぜこのような配置をしているのだろうか?
この理由を知るには、千里ニュータウンの開発時まで、時計の針を戻す必要がある。

◆ダンチのいろいろな並びかた

千里ニュータウンが開発された1960年代。開発主である大阪府は、日本住宅公団(公団、現在のUR都市機構)と大阪府の外郭団体である大阪府住宅供給公社(公社)にも参画を要請した。千里ニュータウンはそれまでにない大規模開発であり、大阪府が自身で建設する府営住宅だけでは、大量の団地を建設することができなかったからだ。

当時まで、全国で建設される団地の住棟配置は「南面平行配置」が一般的だった。
※「南面平行配置」とは、南面する住棟を並列に並べてゆく配置である。【写真(7)】

この配置が主流だった理由は、戸々の日照を確保するのに適した配置だったからだ。住棟を南向きに、そして隣棟間隔を広くあけて建てることにより、冬至の日でも日照を最低4時間確保できた。どの住棟にも平等に日照が確保されるよう配慮された配置だったのだ。

ところが大阪府は千里ニュータウンの開発を進めるとき、この「南面平行配置」住棟ではなく、大阪府が独自に考案した「囲み型配置」と呼ばれる配置の団地を推進した。【写真(8)】
冒頭で見た、あの「コの字型」配置の団地である。なぜこのような配置を推進したか?

写真(7)

(写真8)

当時の記録によると、「囲み型配置」は「南面平行配置」では得られない、“庭”を作り出すことが目的だったとある。囲まれた内庭が、団地の住人にとってのセミ・パブリックスペースとなり、「外側ではネクタイを締め背広を着るが、建物の裏側では、浴衣がけで話ができるような場所が必要」という着想を基にした住棟の並べ方だった。また、囲まれた中庭は歩行者専用の空間となり、「歩車分離」も実現できた。この配置は大阪府の設計士たちが以前に視察で訪れた、スウェーデンのストックホルム郊外にあるニュータウンから着想したようだ。

さらに、この当時は全国で団地の建設が進んでいたが、団地生活の味気無さが指摘され始めていた。住人の団地内における人間的な触れ合いを強化する解決策が求められていたという、社会背景もあったのだ。「囲み型配置」は各住戸が中庭の緑地を通じてグループを形作る。これが、近所付き合いを創出しやすい空間になる解決策と考えられたのである。

◆「南面平行配置」に対するアンチ・テーゼ

この頃の団地は、住戸内の間取りは規格化された標準設計(2DKの原型となる51C型など)が基本だった。決められた同じ間取りにすることで設計作業の時間を省き、とにかく迅速に大量の住宅を供給していくことが求められていた。そのため、設計士たちは団地の住棟をいかに配置するかが、唯一の腕の振るいどころでもあったのだろう。

このように、大阪府が打ち出した「囲み型配置」は、従前からの「南面平行配置」に対するアンチ・テーゼだった。だが、この「囲み型配置」には弱点もあった。それは、東西向きの住棟ができてしまうことである。つまり、東西向きの住棟は夏季の西陽が強いので、部屋内が異常に蒸し暑くなるのではないか?という懸念があった。

大阪府はこの問題を認識はしていた。しかし、「大阪は夏に主として西風が吹く地域である」「日光を遮るため幌などを設置すればよい」「冷暖房器具の普及が進めば問題は少なくなる」と考え、総合的には「南面平行配置」より「囲み型配置」の方が優れているとして採用した。しかし、その是非をめぐって大論争を巻き起こすことになるのである。

◆ダンチの“配置計画論争”が没発!

千里ニュータウン内に初めて「囲み型配置」の府営住宅が建設されるやいなや、建築協会発行の雑誌「建築と社会」(1962年7月号)に日本建築学会による公開質問状が掲載された。「これまで一般的に南向きがベストとする住宅理論に対し、大阪府は異なる住棟配置を建設しているが、日照問題はどう考えるのか」と誌上で大阪府に対して問うたのだ。

これに対し大阪府は、質問者にこの問題についての調査研究を委託。結論が出るまで「囲み型配置」の住棟を採用しないという方針を打ち出した。そのため、調査研究が行われた2年ほどの間は、千里ニュータウンで「囲み型配置」の府営住宅は建設されていない。

そして、1964年になってようやく調査の結果が出た。予想に反し、南西向き住戸を明確に否定する結果は出なかったのだ。南西向きの住棟と南北向きの住棟における夏季の日平均気温を比べると、最大0.9℃の違いしかなかった。この結果を受けて、大阪府側は「囲み型配置」が“解禁”されたと判断。「囲み型配置」建設再開に踏み切った。

大阪府の外郭団体である大阪府住宅供給公社も「囲み型配置」で団地を建設した。
しかし、日本住宅公団は「囲み型配置」による団地の建設を断固として拒否した。公団は千里ニュータウン開発の以前から、全国で数々の団地を建設した実績がある。調査結果があるとはいえ、採光に不利な住戸が多くできるとわかって従うことはできなかったのだろう。また、中庭が外部に対して閉鎖的になりかねない懸念も、「囲み型配置」採用に踏み切れない理由だった。

事業主である大阪府は、団地建設予定地を「囲み型配置」用に造成して公団に引き渡したが、公団は、自らの配置設計に基づいた造成にし直して団地を建設するという、険悪な事態にもなっていた。
この後、公団は1970年に「囲み型配置」の弱点を解消した「変形囲み配置(囲みずらし)」による『新千里東町団地』を建設。この団地は公団にとって配置計画の集大成と誇る団地であり、「配置計画論争」おける公団からの最終回答だった。

このように、大阪府と公団の間で勃発した「配置計画論争」だったが、後年マイカーブームが到来すると、住人達の触れ合いの場であるはずの「囲み型配置」の中庭は次々と駐車場へと姿を変えていった。近所付き合い創出のための中庭は、空しく失われたのだ。

※大阪府と日本住宅公団の「配置計画論争」、『新千里東町団地』の「変形囲み配置」についてさらに詳しく知りたい方は、以前にも紹介した『団地図解 地形・造成・ランドスケープ・住棟・間取りから読み解く設計思考』(篠沢健太・吉永健一著/学芸出版社/2017年)をお読みください。
『団地図解 地形・造成・ランドスケープ・住棟・間取りから読み解く設計思考』の詳細はこちら→https://book.gakugei-pub.co.jp/gakugei-book/9784761532352/

◆インベーダーゲームのような配置のダンチ?

千里ニュータウンの完成後も、大阪府は多くの府営住宅を府内に建設していった。それらは一般的な「南面平行配置」の団地であることが多かったが、なかには個性的な住棟配置にチャレンジした府営住宅もあった。そうしたユニークな住棟配置の府営住宅を2つ紹介しよう。なお、府営住宅は〇〇団地と言わずに〇〇住宅と呼ぶのが慣例である。

1つ目は『府営高槻城東住宅』。1989(平成元)年建設。従来の「南面平行配置」ではなく、住棟を45度傾けている。住棟が集まり、四つ巴を形作っているのが個性的なダンチである。【写真(9)(10)】

写真(9)

写真(10)

2つ目は『府営高槻沢良木住宅』だ。1986(昭和61)年建設。それぞれの住棟が小さな中庭を囲んでいる。配置図は何だかインベーダーゲームの画面にも似ていないだろうか。建設の少し前のにインベーダーゲームが流行したが、その影響を設計士が受けたのだろうか?とにかくユニークな配置である。【写真(11)(12)】

写真(11)

写真(12)

この2つの府営住宅は図面でみると個性的だが、実際に現地に立つと違和感はない。むしろ住棟同士の適度な間隔は心地よい。このように、当時の設計士達は府営住宅の配置計画について、引き続き試行錯誤していたのである。

◆いま語られるべき府営住宅のデザイン!―『府営東大阪吉田住宅』

戦後から高度成長期にかけての団地の大量供給時代が終わり、1990年頃になると団地の質に目が向けられるようになる。直方体のハコが整然と並ぶ均質な団地は、敬遠される時代になったのだ。大阪府も府営住宅を新たに建設するときには、無機質になりがちなダンチをいかに個性的で、暮らして楽しい住空間を作りだすかに尽力するようになった。

このことがわかる府営住宅を2つ見てみよう。一つ目は、大阪府東大阪市にある『府営東大阪吉田住宅』だ。建設は1991(平成3)年。特徴は、各階を繋ぐ空中廊下(ブリッジ)や外部にむき出しになった階段だ。これらにより変化に富んだ特色のあるファサード(建築物正面の外観のこと)を作り出している。【写真(13)】

写真(13)

各住棟は少しずつ高さやデザインが異なり、頂上には三角屋根が載っている。個性を表しながらも団地全体は集落のような一体感がある。この団地にある住戸の間取りは1種類だけではなく、1LDKから5LDKにより構成されている。このため、単身・若夫婦・2世代・3世代・老夫婦など、様々な家族タイプの住人がこの団地に住むことになる。こうして、コミュニティを構成する住人の多様性を図っているのだ。

また共用部空間も変化と楽しさが感じられる。上下・斜めと歩行できるブリッジが、迷宮のような中庭空間を作り出しているのだ。【写真(14)~(16)】

写真(14)

写真(15)

写真(16)

歩くに合わせて上から見降ろしたり下から見上げたり、風景が変化する。画一的で単調になりがちな団地内部の空間に、設計の工夫を加えることで今までの団地になかった新しい風景を作り出すことに成功したのだ。

設計は、大阪府建築部営繕室&遠藤剛生建築設計事務所。遠藤剛生さんは「集合住宅の遠藤」と評価される高名な建築家だ。このほかの府営住宅では大阪府営箕面桜住宅、さらにUR都市機構や市営住宅の団地も設計している。大阪府のような地方公共団体が単独で設計するのではなく、外部の建築家とタッグを組むことが多かったのも、この時期の団地の特色だ。

◆斬新なデザインの府営住宅!―『府営泉大津なぎさ住宅』

もう一つ紹介したいのは、『府営泉大津なぎさ住宅』だ。1999(平成11)年に建設された府営住宅である。設計は大阪府都市部公共建築室&空間研究所。1996年実施のコンペで空間研究所(代表:篠原聡子)の設計案が選出され、デザイン性の高い公営住宅が実現した。
密度の異なる縦ルーバーがバルコニー側と廊下側を覆い、それまでの公営住宅に見られなかった個性的なファサードを作り出している。【写真(17)】

写真(17)

この団地は阪神高速湾岸線のすぐ傍にあり、準工業地域内という不利な敷地。少しでも変化に富む暮らしを提供しようとする、設計者の意図が感じられる設計である。

最上階には屋上庭園、中途階には3フロア分を吹き抜けにした空中広場が設置されており、【写真(18)】
4棟ある住棟は不整形に折り曲げられ、珍しい「逆S字型」の住棟配置をしている。【写真(19)】

また住棟に囲われた部分には広場が設けられている。建物の足元はピロティ(柱だけの屋外空間になっている1階部分のこと)になっていて周辺街区から通り抜けができる。
これらは団地が壁のようになって街に閉塞感をもたらさないようにする工夫である。【写真(20)】

写真(18)

写真(19)

写真(20)

しかし現在、屋上庭園は立入禁止、空中広場もフェンスバリケードで封鎖されてしまい、使われていない様子なのは残念である。前回紹介した『芦屋浜高層住宅』も、吹き抜ける風が強かったり、騒音の問題もあるのだろうか、空中庭園はさほど使用されていなかったようだ。

この団地を「逆S字型」の住棟配置とした理由について設計者の篠原聡子さんは、「戸々の日照とプライバシーを重視した「南面平行配置」、住棟で閉じた共用空間を囲い取る「囲み型配置」、そのどちらでもない形を選択したのは、これらの住棟配置がいずれも地域と積極的な接続の形式とはなり得ないと考えたから」と記述している。この『府営泉大津なぎさ住宅』が、千里ニュータウンから続く“配置の府営住宅”の系譜に連なっていることを感じさせる。

なお、篠原さんは2010年にはUR都市機構のヌーヴェル赤羽台3・4号棟も手掛け、現在は日本女子大学の学長も務める。篠原さんの夫も建築家で、新国立競技場などを設計した隈研吾さんである。

◆戦後日本建築史における公営住宅の価値

今回は公営住宅のうち府営住宅の紹介だったが、このほかにも全国の県営住宅や市営住宅にも着目すべき団地が多い。

例えば1970年前後に建設された公営住宅では、『坂出市営京町団地(坂出人工土地)』『広島市営基町高層アパート』『川崎市営河原町団地』は、それまでになかった新しい社会提案を含んだ集合住宅で、団地としてのみならず、戦後日本建築史における傑作とされる。

また1990年代に建設された公営住宅であれば、今回紹介した『大阪府営東大阪吉田住宅』『大阪府営泉大津なぎさ住宅』の他にも『岐阜県営住宅ハイタウン北方』がそれまでの団地には見られなかった斬新なデザインで名高い。

最近建設された公営住宅を挙げるならば、『富田林市営若松第3住宅』『大東市営もりねき住宅』は、コミュニティ志向のデザインで数々の賞を受賞するなど高い評価を得ている。

◆なぜ公営住宅はこうもスゴイのか?

これまで見てきたように、なぜ公営住宅に評価される団地が多いのだろうか。
かつて公団は自社で設計部門を持ったが、地方自治体は公営住宅を建設する部門が少人数であったり、もしくは部門がないことも多かった。その場合は、コンペで建設する団地の設計者を募ることになる。この結果、才能と意欲のある建築家や設計事務所が公営住宅の設計に携わることになり、その時代の住宅課題の解決に取り組む提案を含む斬新な団地が産み出されてきたでは?というのが私の推測だ。

振り返れば、府営住宅が千里ニュータウンで提起した「囲み型配置」も賛否両論はあったが、それまで全国で守られてきた「団地における南面原則」からの解放の発端となったことは間違いない。その意味で「囲み型配置」は、団地を画一性から解放し、そののちに全国で建設される団地に多様性への途(みち)を切り拓いたもと言えるのである。

公営住宅で挑まれたこうした様々な新しい試みは市場を先導し、民間企業が手掛ける集合住宅にも影響を与える。公営住宅にはこうした裾野の広がりがあり、このことはダンチ全体が持つ社会的意義を見出そうとするとき、その厚みを付与している気がする。


いよいよ、団地の設計・建設は円熟期へと突入する。時代はバブル期。海外や国内のスター建築家達が、こぞって日本の団地の設計を手掛けることになる。これらの団地は、後に全国で建設されるデザイナーズマンションの先駆けになったとも言われている。
次回は、世界的建築家たちが競演した夢の分譲ダンチ、『ネクサスワールド』を紹介!
〈vol.6へつづく〉

【参考文献】
・『千里ニュータウンの建設』(大阪府編集・発行/1970年)
・『千里ニュータウンの研究 計画的都市建設の軌跡・その技術と思想』(片寄俊秀著/産報出版/1979年)
・『新都市の創造』(大阪府企業局編集・発行/1982年)
・『団地図解 地形・造成・ランドスケープ・住棟・間取りから読み解く設計思考』(篠沢健
太・吉永健一著/学芸出版社/2017年)
・『SD1995年3月号 特集・集合住宅の原風景』(鹿島出版会/1995年)
・『建築文化1991年6月号』(彰国社/1991年)
・『新建築1999年6月号』(新建築社/1999年)
・『建築MAP大阪/神戸』(ギャラリー間編集/TOTO出版/1999年)

※団地を訪問する場合は、居住されている方々の迷惑にならないよう十分注意しましょう。

※公営住宅は、住宅に困っている方々のために建てられた賃貸住宅です。他の民間賃貸住宅とは異なり、公営住宅法や条例で収入等による入居者資格が定められています。


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著者プロフィール

有原 啓登

(ありはら ひろと)
団地愛好家。1973年神奈川県横浜市の左近山団地出身。大阪府立北野高等学校、近畿大学理工学部建築学科卒業。関西のゼネコン勤務を経て現在は地方住宅供給公社に勤務。公営住宅の指定管理者応募、 公社団地の団地再生等に携わる。個人の趣味でSNSに『週刊日本の団地』『都市計画・街づくりブックレビュー』を投稿したところ評判を呼び、大学や企業から講演の依頼が来るまでに。趣味は団地訪問と団地の本収集。