「渋谷問題」とは一体なにか
– 真壁智治「臨場」から窺う渋谷問題への気付き(第1回)|連載『「みんなの渋谷問題」会議』
渋谷再開発は百年に一度とされる民間主導の巨大都市開発事業で、今後の都市開発への影響は計り知れない。この巨大開発の問題点を広く議論する場として〈みんなの「渋谷問題」会議〉を設置。コア委員に真壁智治・太田佳代子・北山恒の三名が各様に渋谷問題を議論する為の基調論考を提示する。そこからみんなの「渋谷問題」へ。
真壁智治(まかべ・ともはる)
1943年生れ。プロジェクトプランナー。建築・都市を社会に伝える使命のプロジェクトを展開。主な編著書『建築・都市レビュー叢書』(NTT出版)、『応答漂うモダニズム』(左右社)、『臨場渋谷再開発工事現場』(平凡社)など多数。
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「渋谷問題」とは一体なにか
私は一〇〇年に一度の一大都市更新事業と言われる渋谷再開発のその長きにわたる工事現場の様態・様相を臨場し続け「渋谷問題」への助走としたい、と工事着工当初から考えてきた(参照『臨場 渋谷再開発工事現場』真壁智治著、平凡社、二〇二〇年)。
工事現場を臨場することで「渋谷問題」への狼煙を上げられないか、との思いが強い。渋谷問題はなにも再開発が完了してから精査されるべきものだけではないはずだからだ。長い期間の再開発工事現場がナニを現わしたかは渋谷問題に抵触してくることに充分になる。工事現場に幾筋かの狼煙が上がれば少しでも多くの人たちに「渋谷問題」への気付きが果せるのではないか、そして、そこから「渋谷問題」へ当事者意識を持つに至って欲しい。渋谷再開発の進展に対して、気付きと当事者意識が無くしては「渋谷問題」に出会うこともなかろうからだ。唯、目の前を通り過ぎてゆく光景としか渋谷再開発が映らないとしたらそれは大変にマズイ。
さて、臨場を介した「渋谷問題」とはどの様な問題意識を備えるものになるだろうか。
「都市再生特区」としてのスキームを手にした渋谷再開発はこれまでの都市更新とは比べものにならない規模と戦略と野合と野心が渦巻くスーパープロジェクトとなるものなのある。
臨場に依る「渋谷問題」の基本的なフレーム設定は、まずは渋谷再開発計画が進めようとしている開発資質を問うことにある。幾つかの事業主体が参集する民間主導都市再開発だからと言って怯むことなく、巨大な計画を実証的に批評してゆく方法が入用になる。それに関して私たちに出来ることは渋谷再開発主体サイドで検討・調整されて来た問題意識群から生まれた「ヴィジョン」を頭に描きながら、再開発工事完了まで工事現場の様態・様相の進行を臨場してゆく他ない。「ヴィジョン」が開発主体サイドから一般的に公表されることはない。従って臨場とは開発主体のヴィジョンを透かし、窺いながら工事現場に生まれる開発資質を注視することになろうか。
そこから感じ取られ、察知される問題点を一つ一つ拾い上げ、精査し、「渋谷問題」としてその開発資質を顕在化させられたらいい。
その際、工事現場から窺える問題点を狼煙として立ち昇らせる。
狼煙は、開発ヴィジョンに即した資質が工事現場から窺えた時、開発ヴィジョンが気付いていない面白さを工事現場から窺えた時、そしてヴィジョンの矛盾がいみじくも工事現場から感受された時などに立ち昇るものにさせたい(本来的には狼煙はリアルタイムでの打上げが伝達効果の上で原則だ。その為にはSNSを介したオンデマンドな臨場の情報発信が最善だが、それはかなわなかった。既に消失した光景を追体験的に認識することしか出来得なかった)。
渋谷再開発は都市再生緊急整備地域に指定され(二〇〇五年一二月)、開発特区として都市再生が最大の主題となるべきプロジェクトなのであり、それは「渋谷」を世界都市競争の覇者にし、「エンターテインメントシティSHIBUYA」の体現を図るヴィジョンを持つ。
最大の都市の再生の狙いはその活性化にあり、渋谷駅を基点とするスリバチ地勢谷部を活性化させ、その活況を街へと波及・浸透させてゆく建て付けが渋谷再開発事業の建前でもあったろう。
活性化を支えるものとして、利便性・集客性・話題性・快適性・デザイン性・文化性、そしてなによりも公共性などが問われていた。当然それらのベースに競争力のある差別性と事業性が大前提として要請される。それらをプロジェクトとして都市再生の視点から再開発計画の交通整理に当ったのが渋谷駅中心地区まちづくり調整会議内に設けられた「まちづくり調整部会」(座長岸井隆幸)と「渋谷駅中心地区デザイン会議」(座長内藤廣)であった。都市のスペシャリストと建築のスペシャリストに依る二頭体制と言われてきた。
そこでの基本的な問題意識は以下の様なものだった。
なによりも渋谷駅中心地区に集中する都市基盤整備への調整の必要性が強い問題意識となる。複雑な都市基盤の整備・更新が都市再生の為の大前提であったことに加え、渋谷駅中心地区のいずれの施設もその更新期を迎えていた経緯がより限定された地区の再生に向かわせた。一方で「渋谷の特有なダイバーシティを担保しないと渋谷はつまらない街になってしまう」(内藤廣)、つまりは「渋谷らしいまち」をつくる牽引力たりえたいとする問題意識も強く挙げられていた。
それらの下地となる「まちづくりガイドライン」(二〇〇七年)に示された「都市回廊の創出で歩ける街にすること、渋谷の谷地形を生かした環境をつくること。文化情報の発信や地元の人を巻き込むみんなで育てるまちづくり」などの指摘も基本的な問題意識として継承されてゆく。
二〇〇〇年前後からの渋谷更新を巡る長い議論で、渋谷駅周辺地域が国の都市再生緊急整備地域に指定(二〇〇五年一二月)され、問題意識は「都市再生」へ向う。
「超高層ビルを建てるだけのビジネス」では街がだめになる、との強い問題意識から開発施設の低層部分の様態に関心が向けられ新たな都市アメニティを目指そうとする。しかし、そこには再開発で体現する「スケール」と「ヴォリューム」の巨大で過密な存在についての推量は薄い(特区開発で達成される最大開発規模のことではない)。
その局面にコミットしたのがデザインアーキテクトたちの超高層ビル立面表皮デザインであった。そうしたデザインアーキテクト制の採用も都市再生にはデザイン性が欠かせないとの問題意識が根底に在ったのだろう。デザインは都市にノイズを作り出す。渋谷再開発は大規模開発だからこそ新たなノイズを創出すべき、とする。デザイン上の同質化、統一化ではなく、異質性を志向し、街に多様性をノイズとして生み出そうとした。
公共性についてはどの様な問題意識が窺えるのか。
「公共貢献」という視点が示されている。これは「公共貢献としてカウントされる都市のオープンスペースである公開空地や鉄道上の空中広場も基本的にエリアマネージメント団体が管理し、そこから得られる収入もエリアマネージメント団体に入るのが原則」とするスキームが示され、渋谷再開発事業そのものが公共性を持つとの認識を「公共貢献」に果させようとしているものです。
渋谷再開発で開業したオープンスペースの扱いを全体的に眺めてゆくと、その場での公共性とは何か、と言う議論よりも、エリアマネージメントの対象としての公共空間の扱いの議論の印象が強い。その為、オープンスペースはどこまでも公共空間風の域を出ていない。
「公共貢献」と言う形で、特に生まれる「オープンスペース」がエリアマネージメントの管轄の手中に収まるしくみを貫徹しようとしている。
その典型の証例が「ヒカリエデッキ」であることは言うまでもないことだろう。「公開された空地」の所在を不明にしての「公共貢献」が罷り通っている。渋谷再開発ではこうした公開空地や通路・広場などが本来の公共性の議論を開くことをせず、「公共貢献」と言う大義を片付けようとしているのではないか。公共空間については気になる発言が多々有る。
「シビル・ミニマム的基盤が整うと、もう一段質の高いサービス、つまりさまざまなニーズにきめ細かく対応する民間サービスが必要になります。これまでは公共空間を行政がつくり、街区内は別途民間がつくるというかたちでしたが、これからは民間サービスと公共空間を一体的に考えてゆく必要があります」(岸井隆幸)
こうした発言と呼応する形で、「MIYASHITA PARK」のデザインアーキテクトとして参加したスタッフ(日建設計)の「ここでは公共空間の商空間化と商空間の公共化とを目指した」と、更に一歩踏み込んだ発言をしている。今日の民間主導型大規模再開発の趨勢の裡で、こうした公共性に対する認識と実践が無原則に行使されることには慎重に注視してゆかなくてはなるまい。あまりにも発言が作る側からだけの片手落ちなのである。
つまりはこんなにも公共空間や公共性が簡単に整理されてしまうと危惧を感じざるを得ない、と言うことなのだ。民間サービスと公共空間を一体的に考える、と言うがその前提としての公共性の議論が不可欠なのは忘れてはならない。公共性のナニが民間サービスと馴染み、ナニが馴染まないかをもっと議論すべきではないか。
公共空間は所与に存在するものではない。そこに皆が共通利益として感じられる公共資質性を認めてこそ、その場の公共空間が担保されるものなのである。その共通利益を民間サービスだけで果せるわけがない。
公共空間とは皆に依って感じとられるものであるべき対象なのです。この基本原則は変らない。そして、変えられない。変えてはならない。
共通利益はどの様に感受されるのだろうか。まずは、誰もがその場の利益を享受出来ること。その場の空間の身体感覚が共通利益として皆と共有化しえるもの。そして、その場に寛容さが備わっているもの。それらの要件群を叶えるものが皆にとっての共通利益ではあるまいか。
必ずしも、民間サービスが公共性を高め、公共空間となるとは限らない。むしろ、公共空間での民間サービスが同質化を招き、多様性を排除しかねないことも銘記すべきなのだ。
民間サービスが街を楽しくさせる、とする開発主体側の都市発想を私は全面的には受け入れ難い。特に公共性の強い場所での民間サービスの在り様については慎重を期したい。大型の映像スクリーンを超高層施設の壁面に設置し、それをエリアマネージメントに依り運営し、公共空間の管理を廻してゆくスキームそのもので、公共性・公共空間への対応こと足れりとする公共性そのものを不問にした作法が渋谷再開発の開発資質として根本的に目に付くのである。
これは一方で街がエンターテインメント化され、運営・管理が目に見えずに徹底化が進み、場所の寛容さが失われ、どんどん街が世知辛くなってくる事態を加速させるものになっていることに素早く気付くべきだ。
「MIYASHITA PARK」に包摂されてしまった都市公園としての渋谷区「宮下公園」の在り様も、「ヒカリエデッキ」の在り様も、共に本来のオープンスペースの懐の深さを欠き、極めて世知辛く、瘦せ細った公共性及び公共空間を露見させているだけではないか。
こうした問題意識から誘導される開発資質が都市の再生を実現させる為に姿を整えだしており、二〇二七年の渋谷再開発工事完了まであと四年。
渋谷はきれいに整いだしたが、世知辛さが増大しているのが、現況を覆っている空気感だろう。
長期にわたり遂行し続ける渋谷再開発工事現場の事態を唯眺め、変貌してゆく都市様相にその度惑わされるだけではなく、もっと慎重に、飽きることなく再開発計画を支えている開発資質とヴィジョンとを工事現場から、工事期間からシビアに臨場照応してゆくことをしなくてはなるまい。
その作業が在ってこそ一〇〇年に一度の一大都市更新事業を「渋谷問題」として皆で議論することが出来るようになる。
「渋谷問題」を皆で骨太な議論にし、それと並行して事態化する新宿・池袋などの一大都市更新事業をも視野に収められる都市批評の地平を確かなものに固めてゆきたい、と思う。
渋谷再開発工事現場の臨場作業を「渋谷問題」への助走と捉えてきた。臨場から吟味した「渋谷問題」に繋げなければならない問題群をここで概観しておこう。その意味合いからこれまでの「臨場」を振り返ってみる。
そこからは「渋谷問題」への更なる気付きと「渋谷問題」の輪郭や骨格を把握する上でのヒントに出会えるかもしれない、との期待もこもる。そしてそこで出会えた特異な様態・様相を狼煙として記して置きたい。
あくまでも「渋谷問題」は渋谷再開発の計画レベル・建設レベルそして再開発完了後の稼働レベルなどにわたるロングレンジな局面の検討・検証を通してこそ更新される渋谷を問うてゆくものになります。
がしかし、ここでは渋谷再開発の開発資質を工事現場の臨場から窺うことから把握された問題群を改めて俎上に載せてみることにする。渋谷問題を当事者意識の薄い概念的な議論や批評の対象に済ませてはならないからなのだ。同時に改めて都市批評に新風を吹き込み、新たな時代の都市のアーバニズムを獲得してゆく為にもこの渋谷問題に自覚的にアプローチしてゆく。
(つづく)