伝統、実は無礼講【ハロウィン】|連載「京都の現代歳時記考 -木屋町の花屋のささやかな異議申し立て-」

先人たちが日本の気候から見つけてくれた、
美しいもの・儚いもの・恐いもの、その中で生きていく知恵と工夫。
そんな季節特有の本来の暮らしぶりと、現代の暮らしぶりを結び、歳時記を再解釈する。

松尾芭蕉は言った。「季節の一つも見つけたらんは、後世のよき賜物」
私たちは、100年後の人々に、どんな贈り物をできるだろう。

なんかわくわくして、めぐる季節を感じて、余裕があれば祝えばいい。
ちょっと変わった視点から、京都・木屋町に店を構える花屋の主人が現代の暮らしにすこしだけ反抗します。

執筆者プロフィール

西村良子

京都木屋町の花屋「西村花店」店主、華道家。1988年京都府生まれ。2010年関西大学卒業。先斗町まちづくり協議会事務局兼まちづくりアドバイザー。2017年に花店を開店し、現代の日本での花と四季の楽しみ方を発信し続けている。木屋町の多くの飲食店や小路は西村さんの生け込みで彩られている。

子どもの頃、英会話教室に通っていた。私はそこに行くのがとても嫌だった。今と違ってとても内向的な子どもだったので、外国人の先生がどんどん話しかけてくるのも、学校が違う子たちと仲良くするのも苦手だった。10月のある日に先生がいった。来週はハロウィンパーティだから、みんな仮装してきてね。最悪だ、と思った。でも何しろ内向的な子どもだったから、もちろん嫌とも言えず母に魔女の帽子をのっけられて、教室へ行った。子供教室だからいつも遊びみたいなものだったけど、その日はハロウィンパーティだと言って、みんなでゲームをしたりお菓子を食べたりした。

その頃、ハロウィンとはそういう感じだった。多くの人はその存在を知らず、知っていたとしても自分には関係のない、一部の英語文化に関係ある人だけの行事だった。英会話教室にはずいぶん長く通ったので、私は毎年ちょっとした仮装をしては、ハロウィンパーティーに参加した。内向的な私がハロウィンに馴染んでいくのにつれて、10月が近づくとまちの中でも少しずつオレンジ色のものやかぼちゃの飾りが増えて行った。今では9月に入るやいなや、雑貨屋さんも100円均一もオレンジ色に染まる。デパ地下には和洋に関わらずパンプキンテイストの秋のお菓子が並ぶ。ここ10年くらいだろうけど、実際に仮装をしてまちへ繰り出す人もどんどん増えた。

桃の節句には、「いつ飾るん!?」と母に怒られながらお雛様をひっぱりだしてみんなでちらし寿司を食べた。七夕にはホームルームの時間にみんなで短冊を書く。クリスマスだって、家族とその友達と集まっておいしいものを食べて、子供だった私にプレゼントをくれるのが、もう当たり前になっていた。でも、ハロウィンは違った。はじめは誰も知らなかった外国のお祭りが、年を追うごとに目に見えて、みんなのイベントになっていった。

ハロウィンはもともと、古代アイルランドのお祭りだ。そこには日本と同じで自然信仰の文化があったそうで、10月31日は彼らの大晦日にあたる日だった。大晦日であると同時に、夏と冬の二季のその土地では夏が終わり冬になる季節の変わり目だった。仮装をするのは季節の変わり目にはあの世とこの世の扉が開き魔物がやってくるので、いたずらされないように自分たちも魔物の格好をする。

日本(京都だけなのだろうか?)にも、まったく同じ発想の行事がある。“節分お化け”だ。現代では花街でしか行われていないけれど、節分には歳徳神としとくじん様が立春に向けて移動なさるので、その隙間を狙って鬼やら魑魅魍魎が移動する。彼らに憑りつかれてはいけないので、自分でないものに変装するというお楽しみ行事だった。余談だけれど歳徳神様の移動先を「恵方」といい、歳徳神様はあちこち移動される神様なので毎年恵方が変わることを知ったときは、伝統というものがすごく身近に感じられた。こんな風にみると、ハロウィンは日本人の感覚にとても合っている。「季節の変わり目」を恐れつつ楽しむというコンセプトも、かぼちゃそのものの季節感もその色彩も、日本の秋の終わりと冬の始まりにふさわしい。同じようによその文化のお祭りで、昔通っていた英会話教室ではハロウィン同様にパーティーをしていた「イースター」と比べれば、その差は歴然である。その時期を象徴するものは日本人にとって桜に他ならず、色のついた卵やうさぎが入る余地は今のところない。

京都は、季節を大切にしてきたまちだ。大切に、というか、それこそがこのまちの秩序である。着物、食べ物、もちろん花も、京都らしいものはみんな季節に基づいている。だとしたら、みんなが「あぁもう10月かぁ」と思えるようなイベントが自然に形づくられているのだから、京都はよろこんで受け入れるべきなのではないかと思う。とはいえ、繁華街の“仮装して飲み会”問題は無視することができない。木屋町でも確かにまちがざわつく。店を閉める夜10時頃にも、路上で宴会をしている仮装した人々が大きな声で笑ったり歌ったりしている。コロナ禍前は、ばたばたと走って行く警察の姿もめずらしくなかった。

ハロウィンのパーティーピーポーたちは節分のことなんて思い出しもしないだろう。それでも、良い面も悪い面も含めて、ここまで社会に根付いてきたのは、日本人の季節を愛するDNAが騒いでいるからだと思いたい。そうだとしたら、日本はまだ捨てたものじゃない。現代日本のハロウィンに問題があるとすれば、ひとつは、季節の表現がないことがある。みんなただ仮装して出てくるだけで、そこには季節への想いや表現や楽しみがない。もう一つ大きな問題は、「みんなが楽しめる」ものじゃないということ。日本の祭りは、踊る阿呆に見る阿呆。踊っている人は楽しくても見る人が冷めた目をしているのでは祭にならない。踊る人も見る人も、同じように阿呆になって楽しめなければ。仮装には本来そういうパワーがあるのだけれど、現代人の自分のグループだけが楽しければ良いという発想が、そのパワーを奪ってしまっている。

この連載のタイトルにもなっている「歳時記」という言葉。「季節行事」と同義だと思ってる人が多いけれど、もともとは本のことだった。季節に応じた祭事・儀式・行事・自然現象などを解説した本のことを歳時記という。長い歴史の中でたくさんの人たちが季節の事柄や行事を整理し、忘れられてしまったものは省き新しく定着してきたものを入れ編集し、「歳時記」としてまとめてきた。ハロウィンは、日本の新しい季節行事になりつつある。でも、迷惑行為が過ぎて「ハロウィンはかなん!!」「かぼちゃなんて見たくない!」なんていう人が増えてしまったら、私はとても困る。それこそ異議申し立てをしなければならない。どうかお若いパーティーピーポーたちに言いたい。季節感と、踊らない阿呆を大切にしてほしい。それだけ守れば大抵のことは許される。この国には、無礼講という言葉がある。

初めから伝統だった行事なんてない。100年後の歳時記に、ハロウィンは載っているだろうか。それは私たちの“楽しみ方”にかかっている。松尾芭蕉は言った。「季節の一つも見つけたらんは、後世のよき賜物」。歳時記は、いや季節そのものが、私たちが信じて楽しむことで存在していることを忘れてはならない。新しいページに「ハロウィン」とその楽しみ方を書き足そう。他にももっと書き足そう。そして100年後の人々に、どうか素敵な「歳時記」を残せますように。

季節の花

花なす(ナス科)

鑑賞用の茄子やトマトの仲間を「花なす」と呼びます。一般的な花なすはミニトマトのようにつるんと丸い形をしていますが、こちらは近年人気の品種“ミニパンプキン”。かぼちゃ型に切り込みが入っています。本物のかぼちゃが花瓶にいけられないのに対し、ミニパンプキンは茎がついているので10月の一輪挿しにかかせません。

小噺

本連載の執筆者が構える「西村花店」であるが、実はこの花屋何やら企んでいるらしい。
小噺として、今後の「西村花店」の行く末も紹介。
毎話の再解釈が花屋の空間にどう昇華されていくのか、そんな様子もお楽しみください。

単語禄
歳時記(さいじき)

季節に応じた祭事・儀式・行事・自然現象などを解説した本のことです。私たちは何ページの新たな季節の楽しみ方を書き足し、後世に残せるでしょうか。

仮装(かそう)

季節の変わり目には魔界の扉が開くといわれ、やってきた魔物や悪魔に悪さをされないように自分も悪魔の格好をして身を守ります。

踊る阿呆に見る阿呆(おどるあほにみるあほ)

このあとに「同じ阿呆なら踊らにゃ損々」と続きます。どうせみんな阿呆なのだから、一緒に踊ってしまおう、その方がきっと楽しいから、という日本のお祭りの精神を現しています。ハロウィンもそんな行事になるといいですね。


企画・編集・小噺イラスト:安井葉日花(学芸出版社)
題字:沖村明日花(学芸出版社)


連載記事一覧

記事をシェアする

学芸出版社では正社員を募集しています
学芸出版社 正社員募集のお知らせ