連載『月刊日本の団地~時代を映すダンチ12選~』vol.6 ネクサスワールド

団地愛好家の有原です。
突然ですが、「ダンチって古い・・」と思っていませんか?
いえいえ、いま団地ではさまざまな新しい取り組みが行われているのです。
団地は建設時の社会の様相を映す鏡であると同時に、現在の取り組みはこれからの都市課題を解決するヒントにもなります。

建設当時の人々が団地に託した夢・・・。いまの団地で団地再生に奮闘する人々・・・。私と一緒に、新しい発見と感動の旅に出ませんか?


日本における戦後の深刻な住宅不足解消のため始まった団地建設は、その後も人々に住まいを提供し続け、団地の設計・建設はいよいよ円熟期へと突入します。時代はバブル期。海外や国内のスター建築家達が、こぞって日本の団地の設計を手掛けることになります。これらの団地は、後に全国で建設されるデザイナーズ・マンションの先駆けともなりました。今回は、世界的建築家たちが競作した夢の分譲ダンチ、『ネクサスワールド』を紹介します!

◆もし複数の建築家が、ダンチを1棟ずつ設計したら…?

前回紹介した『府営東大阪吉田住宅』や『府営泉大津なぎさ住宅』は、著名な建築家が設計した団地だった。団地はいくつかの住棟から構成されることが多い。そのため、団地愛好家の私としては、「様々な建築家が1棟ずつ設計したダンチがあればなあ・・。」という願望が、頭をもたげてくる。実は、そんな方式で建てられた団地は存在する。
まずは建築の歴史を紐解いてみよう。様々な建築家が集まって住宅群を設計した近代の事例で有名なのが、「ヴァイゼンホーフ・ジードルング」だ。これは1927(昭和2)年に、ドイツのシュトゥットガルト郊外で開催された住宅展覧会の名称である。

当時は前衛的だったモダニズム建築家を招聘し、時代を先取りした集合住宅や住宅の設計を依頼した。展覧会の会場となる敷地に、それまでの伝統的な住宅とは全く異なる、白くて四角いモダンなデザインの住宅が建ち並んだ。建築家たちは、次の時代の新しい暮らしを人々に問うたのである。この展覧会は50万人もの来場者を集めたという。そして展覧会終了後には、これらの住宅群は分譲販売され、住まいとして実際に人々が住んだ。

この展覧会に参加したのは17名の建築家だった。巨匠ミース・ファン・デル・ローエを中心に、ル・コルビュジェ、ヴァルター・グロピウス、ブルーノ・タウト、ペーター・ベーレンス、ハンス・シャロウンいった、建築史に名を残す優れた建築家たちが集った。

早期の日本の事例としては『金沢シーサイドタウン並木二丁目団地』が挙げられる。1980(昭和55)年に横浜市に建設された、日本住宅公団(現UR都市機構)の団地だ。神谷宏治、内井昭蔵、藤本昌也、宮脇檀が数棟ずつ担当し、4人の建築家ごとの個性的な住棟が建ち並ぶこととなった。(並木一丁目は槇文彦の設計)

このように、複数の建築家が団地を建設する手法を、本コラムでは仮に「建築家競作方式」と呼ぶことにする。この方式には数人の建築家が設計する住棟が配置されることで街並みが画一的にならず、多様性に富んだ景観が生まれるといったメリットがあった。

◆世界的スター建築家たちによる夢の競演!『ネクサスワールド』

「建築家競作方式」で建設された国内の事例のうち、最高傑作と評されるのが『ネクサスワールド(NEXUS WORLD)』だ。バブル真っ盛りの1991(平成3)年に竣工。福岡市のベッドタウンである香椎(かしい)に建設された、民間デべロッパーによる分譲集合住宅群である。

建築家・磯崎新(いそざき あらた)のコーディネートによって選ばれた国内外6名の若手気鋭の建築家が、集合住宅を1棟ずつ設計した。選ばれた6名の建築家はスティーブン・ホール(アメリカ)、石山修武(日本)、マーク・マック(オーストリア)、オスカー・トゥスケ(スペイン)、クリスチャン・ド・ポルザンパルク(フランス)、そしてレム・コールハース(オランダ)という、錚々たる面々だった。

この6名は一般的にはあまり有名ではなかったかもしれないが、建築界ではビッグネームばかりである。当時、建築学科の学生だった私は、建築界のスーパースターが揃ったこのメンバーを見て、「プロ野球のオールスター・チームか、アメリカ・プロバスケットボールのドリーム・チームのようだ・・」と興奮した。

『ネクサスワールド』(クリスチャン・ド・ポルザンパルクが設計した住棟)

『ネクサスワールド』(オスカー・トゥスケが設計した住棟)

建設当時、建築雑誌を最も賑わせたのは、レム・コールハースが設計した住棟だった。後に世界的なスター建築家の地位を確立するコールハースも、当時はまだ若手で実作品は少なかった。そんな彼が『ネクサスワールド』で完成させた集合住宅は、今まで誰も見たことのない常識破りの形状で、見るものみんなを驚かせた。

冒頭の写真を見て欲しい。まずは真っ黒な外壁に驚くだろう。これは石垣調の型枠に黒色のカラーコンクリートを打ち込んだもので、日本のお城の石垣をイメージしたそうだ。

内部は一転して、明るい中庭を持つ中層メゾネットが、横三列に並ぶ。各列の屋根の天端は互い違いにうねり、道路側に面する断面のガラス窓から採光する。そして各住戸の廊下は、なんとスロープになっている。玄関扉はスチールメッシュ。これも住宅内部には、まず使われない素材だ。

住みやすいかどうかはさておき、とにかく独創性の点では興味深いものがある。実際、この風変わりな住棟は日本の集合住宅の既成概念を打ち破ったと高く評価され、コールハースはこの作品で1992(平成4)年の日本建築学会賞を受賞した。

こうした、国内外の人気建築家が集合住宅を設計する企画は、これ以降も全国の民間デベロッパーにより各地で行われた。それらは、いつしかデザイナーズ・マンションと呼ばれ、分譲販売された。『ネクサスワールド』は、後の高級デザイナーズ・マンションのはしりだったと言える。その後、世界で活躍する建築家がこれほど勢揃いした国内のプロジェクトは、『ネクサスワールド』以外に他にはない。

『ネクサスワールド』(レム・コールハースが設計した住棟)

レム・コールハースが設計した住棟-スロープの廊下

レム・コールハースが設計した住棟-スチールメッシュの玄関扉

※『ネクサスワールド』は民間デベロッパーによる開発。日本住宅公団や住宅供給公社などが建設した集合住宅ではないので、一般的には団地ではなく分譲マンションに分類されることが多い。だが、建築基準法には「一団地(いちだんち)認定制度」という建物の規制を緩和する制度があり、『ネクサスワールド』もこの制度を利用している。このため、本コラムでは『ネクサスワールド』をデザイナーズ分譲団地に認定している。

◆まだまだある!「建築家競作方式」による日本のダンチ!

複数の建築家が1棟ずつ(または数棟ずつ)設計する方式で建設された日本の団地は、このほかにもある。そのいくつかを見てみよう。※(  )内の数字は第1期の住棟が完成した年

■『シーサイドももち』(福岡県/1989年)
民間デベロッパーによるウォーターフロント開発で、埋立地に住宅団地を建設。海外からマイケル・グレイヴスやスタンレイ・タイガーマン、日本からは黒川紀章や出江寛といった著名な建築家が腕を競い、ユニークな外観の住棟群を建設した。

■『幕張ベイタウン』(千葉県/1995年)
千葉市美浜区の幕張新都心につくられた集合住宅群。スティーブン・ホール、曽根幸一、松永安光、坂本一成、小島一浩などの建築家が参加し、ヨーロッパ調の街並みを作り出した。

■『今井ニュータウン』(長野県/1998年)
1998(平成10)年に開催された長野オリンピック・パラリンピックの選手村として建設。各地区の住棟を、長谷川逸子、内藤廣、新居千秋、富永譲、元倉眞琴、遠藤剛生などの著名建築家たちが設計した。オリンピック後は、分譲住宅や市営住宅などとして活用されている。

■『ハイタウン北方』(岐阜県/1998年)
『ネクサスワールド』と同じく建築家・磯崎新がコーディネーターとなって、妹島和世、高橋晶子、クリスティン・ホーリィ、エリザベス・ディラーの4名の建築を指名し、競作した団地。4名とも女性の建築家であることが特色である。

『今井ニュータウン』(長谷川逸子が設計した住棟)

『ハイタウン北方』(妹島和世が設計した住棟)


※このほかに、次の団地が「建築家競作方式」である。
■『熊本市営新地団地』(熊本市/1991年)早川邦彦・富永譲・緒方理一郎ほか
■『熊本市営託麻団地』(熊本市/1993年)坂本一生・長谷川逸子・松永安光
■『岡山県営住宅中庄団地』(岡山県/1993年)丹田悦雄、阿部勤、遠藤剛生ほか
■『HAT神戸』(兵庫県/1999年)安藤忠雄・遠藤剛生・坂倉建築研究所

◆『ネクサスワールド』は神々の競演だった!?

ここまで複数の建築家が関与して建設された団地について説明してきた。ところで、先ほど『本コラムでは仮に「建築家競作方式」と呼ぶことにする』と述べた。「仮に」と前置きしたのは、この方式の正式な呼び方が、建築業界でも定まっていないからだ。

敷地全体のデザインを監修・調整する建築家を中心に、設計を進める方式には名称があり、「マスター・アーキテクト方式」と呼ばれる。これは、『ベルコリーヌ南大沢』(東京都/1990年)などで試みられた、デザインコントロール手法の一つである。だが『ネクサスワールド』のように、それぞれの建築家があまり拘束されず、設計の自由度の高い集合住宅群の方式については、これといった呼び方はないようである。

ただし、建築家によっては「IBA(国際建築展覧会)方式」、「街区型都市開発方式」、「コラボレーション方式」、「コミッショナー方式」、「博覧会建築方式」、「連歌形式」、「バザール方式」、「日本方式」などと呼ぶ人もいる。では、『ネクサスワールド』や『ハイタウン北方』のコーディネーターを務めた建築家・磯崎新は何と呼んでいたのか?と気になったが、私が調べた限りでは不明だった。

ところが、調べるうちに興味深いエピソードを発見した。磯崎新は、『ネクサスワールド』の事業開始に先立ち、招待した6人の建築家を福岡県に招いて国際会議を開催した。会場として磯崎新が選んだのは、福岡県宗像市(むなかたし)にある宗像大社だった。

宗像大社では毎年秋に「みあれ祭」が行われる。「みあれ祭」は、航海安全や大漁を願って催されてきた祭りだ。この祭りでは、神社周辺の群島に祀られる祭神が船で運びだされ、宗像神社の社内にある祭場を「神籬(ひもろぎ)」にして祀られることになっている。

神籬(ひもろぎ)とは、神々を迎える神域のこと。不思議なことに、宗像神社の神籬(ひもろぎ)には社殿などが無く、何もない庭が広がるのみである。古代の神社建築の祖型を遡ると、このように社殿が存在しない始原に至るそうだ。1年に1度本土へ集った神々は、この内部も外部もない虚ろな空間に降臨し、ただ戯れるのである。

磯崎新は『ネクサスワールド』を設計するために世界中から建築家が訪日した様子を、この「みあれ祭」に例えた。つまり、群島から神々が宗像神社に参集するように、世界各地で活躍する建築家がこの地に参集したとなぞらえ、この神社を会場に選んだと語っていたのだ。

言われてみると、世界中のカリスマ建築家が集い、何もない土地にそれまで誰も目にしたことのない新しい建造物を次々と創造したのだ。その意味で『ネクサスワールド』は、確かに「神々の競演」と呼ぶに相応しかった。だから私は、この方式を「建築家競作方式」と併せて「ひもろぎ方式」と呼びたい。

『ネクサスワールド』の当初計画では、2期工事として、磯崎新が設計した2棟の高層住宅も敷地の中心に建設されるはずだったが、90年代初頭にバブルは崩壊し、高層棟の建設は中止となってしまった。(後年、別の設計者により建設された)。バブル期を支えた経済基盤が失われると、全国に広がっていた華美なデザイーナーズ・マンションの建設ブームにも陰りが見え始めた。複数の建築家よりも一人の建築家に全住棟の設計を依頼する方が予算を抑えられるということもあり、「建築家競作方式」の時代は終焉したかのように思われた。

ところが、2003(平成15)年、5名の日本人建築家を登用し「建築家競作方式」で建設されたデザイナーズ賃貸住宅が、大きな話題を呼ぶ。それがUR都市機構による賃貸団地、『東雲キャナルコートCODAN』だった。

一体なぜバブル崩壊から10年が経った時期に、再び「建築家競作方式」によって団地が建設されることになったのだろうか。

◆公団のファイナル・プロジェクト『東雲キャナルコートCODAN』

『東雲キャナルコートCODAN』(山本理顕が設計した住棟)

東京都江東区にある『東雲キャナルコートCODAN』は、運河沿いの工場跡地を再開発して建てられた新築の団地だ。UR都市機構が隈研吾・伊東豊雄・山本理顕らスター建築家に設計を委託。賃貸団地でありながら、まるで高級分譲マンションのようなデザイン性の高い団地となった。

注目を集めたのはデザインだけではない。今まで団地の設計として好ましくないとされてきた中廊下型(廊下を住棟の中心に配置し、その両側に住戸を配置した形式)をあえて採用しながら、二層の空間を開けることにより通風・採光を確保するなど、新しい都市空間の提案・モデルにも果敢に挑んでいる。

この団地の竣工は2003年から2005年にかけてだが、2004年は独立行政法人都市再生機構(UR都市機構)が誕生した年だった。戦後の住宅不足を解消するため1955年に発足した日本住宅公団は、時代の変化に合わせて、幾度かの組織改編を経てきた。(下記参照)
2004年をもって、戦後日本の団地作りを半世紀にわたり牽引してきた組織の名称から、初めて「公団」の名前が外れたのだ。『東雲キャナルコートCODAN』は、「公団」の最後を飾る、記念すべきファイナル・プロジェクトだったのである。

団地の名称につけられた〝CODAN〟からは、日本住宅公団の歴史とレガシー(遺産)を引き継いだ、当時の担当者たちの矜持と熱気が伝わってくる。終焉したと思われた「建築家競作方式」も採用し、総力をあげて、総決算としての団地建設に挑もうとしたことが窺い知れるのである。

1階レベルのS字アベニューの店舗

ガラス張りの玄関扉

2階レベルのデッキ部分

伊東豊雄が設計した住棟

【日本住宅公団の変遷】
●1955(昭和30)年 『日本住宅公団』が設立
●1981(昭和56)年 『日本住宅公団』と宅地開発公団が統合し『住宅・都市整備公団』が設立
●1999(平成11)年 『住宅・都市整備公団』が『都市基盤整備公団』に改組される
●2004(平成16)年 『都市基盤整備公団』と地域振興整備公団の一部門を統合し、『独立行政法人都市再生機構(UR都市機構)』が設立

◆そして、団地建設の時代は終わりを迎えた…

『東雲キャナルコートCODAN』以降、全国で団地が建設されることは、既存団地の建て替えを除き、ほぼなくなった。戦後から住宅に困窮する人々に住まいを供給してきた団地の使命は、ついにその役割を終えたのである。

私は、この『東雲キャナルコートCODAN』の建設をもって、「団地建設の時代の終わり」と認識している。灯(ともしび)消えんとして光を増す。

最後の団地『東雲キャナルコートCODAN』は、団地の歴史と神話の終焉を告げる最後の一閃だったのだ。


このコラムでは今回まで、Vol.1~Vol3において団地黎明期における「始まりの団地」を紹介し、Vol.4~Vol.6においてその後の時期の「進化した団地」を紹介した。当時の技術者たちが団地に託した理想の住まいへの想いと、その実現に懸けた情熱の熱量を感じてもらえたのではないだろうか。

そして、時は流れ2000年代。21世紀に入ると、全国の多くの団地が建設から50年以上経った。どの団地でも老朽化が目立ち始め、高齢居住者ばかりになり、空き家も目立ってきた。解体され建て替えられた団地もある一方、建て替えるのではなく、今ある団地を活用し、また居住者間のコミュニティを復活させようとする挑戦も新たに始まった。これらは「団地再生」と呼ばれる取り組みである。

次回からVol.7~9において、いち早く団地再生に取り組んだ「団地再生の始まり」3団地を紹介し、Vol.10~12において、その後の「団地再生の進化」を感じ取れる3団地を紹介するつもりだ。団地の現場で今まさに、団地の課題と対峙し奮闘する人々の姿に光を当てていきたい。

ということで、次回は団地再生の嚆矢的事例、『観月橋団地』を紹介します!
〈vol.7へつづく〉

【参考文献】
・『新建築1991年5月号』(新建築社/1991年)
・『新建築1998年2月号』(新建築社/1998年)
・『新建築1998年5月号』(新建築社/1998年)
・『新建築2000年5月号』(新建築社/2000年)
・『新建築2003年9月号』(新建築社/2003年)
・『新建築2004年5月号』(新建築社/2004年)
・『新建築2005年6月号』(新建築社/2005年)
・『SD1991年7月号 特集-続・都市居住の可能性』(鹿島出版会/1991年)
・『都市集合住宅のデザイン』(まちをつくる集合住宅研究会編著/彰国社/1993年)
・『建築MAP九州/沖縄』(TOTO出版/2008年)
・『世界一美しい団地図鑑』(志岐祐一他著/エクスナレッジ/2012年)
・『だれも知らない建築のはなし』DVD(石山友美監督/ダゲレオ出版/2017年)

 

※団地を訪問する場合は、居住されている方々の迷惑にならないよう十分注意しましょう。


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著者プロフィール

有原 啓登

(ありはら ひろと)
団地愛好家。1973年神奈川県横浜市の左近山団地出身。大阪府立北野高等学校、近畿大学理工学部建築学科卒業。関西のゼネコン勤務を経て現在は地方住宅供給公社に勤務。公営住宅の指定管理者応募、 公社団地の団地再生等に携わる。個人の趣味でSNSに『週刊日本の団地』『都市計画・街づくりブックレビュー』を投稿したところ評判を呼び、大学や企業から講演の依頼が来るまでに。趣味は団地訪問と団地の本収集。