執着、あるいは四季【桃の節句】|連載「京都の現代歳時記考 -木屋町の花屋のささやかな異議申し立て-」
「日本は四季のある国である」。この言葉の本当の意味がわかったのは、花屋になってからずっとあとのことだった。この国にはたくさんの季節行事があり、その多くが何百年も昔から受け継がれてきたものである。もちろんほとんどの場合オリジナルと全く同じというわけにはいかず、時代に合わせて少しずつ姿を変えてきた。7月の祇園祭は良い例で、今では祭のハイライトともいえる山鉾巡行は当初存在せず、登場した後もしばらくは八坂神社で行われる神事のオマケのような存在だった。伝統行事がどのように変化していったかを辿るとその社会の変遷が見えてくる。行事というものが時代に合わせて姿を変えていったのではなく、時代に合わせて変化することができた行事だけが、現代に受け継がれているのかもしれない。その中でも、3月3日の桃の節句は興味深い。節句という風習が整ったのは江戸時代に入ってすぐで、雛人形と桃の花を飾る一連の祭りもその頃から大きくは変わっていない。しかしその頃と現代では決定的に違うことがある。それは暦と気候の問題だ。
ゲスト、そのための覚悟【正月】|連載「京都の現代歳時記考 -木屋町の花屋のささやかな異議申し立て-」
日本には、花を束ねて人に贈るという文化はなかった。
というのも、花はそれ単体で喜んでもらうのではなく、花をいけた部屋まるごとで来た人をもてなすことが日本の文化であった。花だけでなく、器や掛け軸やお料理など、その空間に用意されたすべてのものと余白とをお互いに引き立たせ合い、小さな対比を重ねて、座敷という一室を、季節感のある美しい空間に仕上げる。完成された花の作品をギフトの品として渡すのではなく、今あなたと共にしているこの季節を、最大限に表現すること。それがこの国が長い時間をかけて丁寧に作り上げてきた、もてなしのかたちである。
異文化、ところが本質【クリスマス】|連載「京都の現代歳時記考 -木屋町の花屋のささやかな異議申し立て-」
11月が終わりに近づくと、示しを合わせたように一面クリスマスの景色になる日本のまちの様子は、本場の方の目にはどう映るのだろうと思わないではない。
キリスト教が浸透している国の、家族で過ごす神聖な夜を話に聞くと、この商業的なお祭り感がやや否めない日本のクリスマスには、なんとなく後ろめたさを感じる。とは言え日本でも、歳時記として定着しているのは確かだ。キリスト教の祭事であると知った上で、デコレーションはもちろん、食事やケーキやサンタクロースやプレゼントを贈る習慣など、様々な面を取り入れて、みんな12月という季節を楽しんでいる。
伝統、実は無礼講【ハロウィン】|連載「京都の現代歳時記考 -木屋町の花屋のささやかな異議申し立て-」
子どもの頃、英会話教室に通っていた。私はそこに行くのがとても嫌だった。今と違ってとても内向的な子どもだったので、外国人の先生がどんどん話しかけてくるのも、学校が違う子たちと仲良くするのも苦手だった。10月のある日に先生がいった。来週はハロウィンパーティだから、みんな仮装してきてね。最悪だ、と思った。でも何しろ内向的な子どもだったから、もちろん嫌とも言えず母に魔女の帽子をのっけられて、教室へ行った。子供教室だからいつも遊びみたいなものだったけど、その日はハロウィンパーティだと言って、みんなでゲームをしたりお菓子を食べたりした。
センス、ではなくスタンス【重陽の節句】|連載「京都の現代歳時記考 -木屋町の花屋のささやかな異議申し立て-」
花店に来てくださった方が、一様に口にされる言葉がある。「センスないんで」。お家用のお花を買いに来てくださった方も、ギフト用のお花を見に来てくださった方も、皆口を揃えてそう言われる。「センスがないのでどの花にすれば良いかわかりません、自分では選べません」と。花を選ぶのに必要なことは、生まれ持ったセンスではない。私は色々な場所で、人に、そう言い続けている。これは気休めでもきれいごとでもなく、私の信条である。むしろセンスなどという、どうやって手に入れるのかわからない個人の感覚でしか測れないもので花を選ばなければならないという間違った考えが、花を難しく面白味のないものにしている、とさえ思う。では、何を拠り所に花を選べば、「花を楽しめる」のか。
恐れ、すなわち感謝【お盆】|連載「京都の現代歳時記考 -木屋町の花屋のささやかな異議申し立て-」
焼けるように熱いアスファルトの上に、進んでいるのか止まっているのかわからない自動車の列。スタジオのアナウンサーが伝えてくれる上りと下りの渋滞情報、熱中症対策強化の旨。冷房を効かせた車内から排出されているらしい生暖かい空気が、蜃気楼を歪ませる。これぞ日本の、お盆。
その目的は、実家に帰って普段一緒に暮らしていない家族や親戚と夏の休暇を過ごすためであるが、ではなぜ親族と時を過ごすのかというと、ちょっと忘れられがちなのだけれど、この時期に、死んだ人の霊がこの世に帰って来るからである。休暇だから家族と過ごすのではなく、家族全員でご先祖様の霊と過ごすために、休日になっているのである。
祈り、そして遊び【祇園祭】|連載「京都の現代歳時記考 -木屋町の花屋のささやかな異議申し立て-」
7月の京都。グーグルイメージでしか京都を知らない外国の方は、石畳の上で風に揺られる青もみじが、ひんやり涼し気で快適な古都とお思いだろう。実際の京都の気温は、そのイメージから感じる温度プラス15度、湿度はプラス50%といったところか。「こんなところでよく暮らしてるな」というのが夏の(実は冬もだけど)京都を訪れた人の正直な感想であり、同時に暮らしている人間の驚きでもある。高すぎる温度と湿度で食べ物はすぐに腐るし、いけた花は瞬く間に枯れる。熱帯並みの気候の中、冷蔵庫も冷房もなかった時代の人のことを思うと胸が痛む。日本で最も有名な祭りの一つ・祇園祭は、そのような場所で生まれた。