ゲスト、そのための覚悟【正月】|連載「京都の現代歳時記考 -木屋町の花屋のささやかな異議申し立て-」
先人たちが日本の気候から見つけてくれた、
美しいもの・儚いもの・恐いもの、その中で生きていく知恵と工夫。
そんな季節特有の本来の暮らしぶりと、現代の暮らしぶりを結び、歳時記を再解釈する。
松尾芭蕉は言った。「季節の一つも見つけたらんは、後世のよき賜物」
私たちは、100年後の人々に、どんな贈り物をできるだろう。
なんかわくわくして、めぐる季節を感じて、余裕があれば祝えばいい。
ちょっと変わった視点から、京都・木屋町に店を構える花屋の主人が現代の暮らしにすこしだけ反抗します。
執筆者プロフィール
西村良子
京都木屋町の花屋「西村花店」店主、華道家。1988年京都府生まれ。2010年関西大学卒業。先斗町まちづくり協議会事務局兼まちづくりアドバイザー。2017年に花店を開店し、現代の日本での花と四季の楽しみ方を発信し続けている。木屋町の多くの飲食店や小路は西村さんの生け込みで彩られている。
日本には、花を束ねて人に贈るという文化はなかった。
というのも、花はそれ単体で喜んでもらうのではなく、花をいけた部屋まるごとで来た人をもてなすことが日本の文化であった。花だけでなく、器や掛け軸やお料理など、その空間に用意されたすべてのものと余白とをお互いに引き立たせ合い、小さな対比を重ねて、座敷という一室を、季節感のある美しい空間に仕上げる。完成された花の作品をギフトの品として渡すのではなく、今あなたと共にしているこの季節を、最大限に表現すること。それがこの国が長い時間をかけて丁寧に作り上げてきた、もてなしのかたちである。
そんな風に発展してきたいけ花や座敷という文化が、今や衰退してしまっている理由はいろいろあるけれど、そもそも家にお客様用のニュートラルなスペースがないことと、同時にアクセスの良い場所にカフェやカラオケなど人と時間を過ごすことができる空間がたくさん増えてきたことが大きい。かつてはパソコンを使ったり漫画を読むことが目的だったインターネットカフェも、現在では休憩や仕事などそれぞれの目的でニュートラルなスペースとして使われている。日本人にはそういう場所が必要なのだと改めて感じる一方、そこから決定的にこぼれ落ちてしまったものがある。主人と客、ゲストとホストの関係である。
花街を研究している先生が、「お茶屋は最後の日本的空間である!!」と豪語しておられたことがある。お茶屋とは、お料理・お酒とともに、芸妓さん・舞妓さんを呼ぶことができる店。料亭ではなく、料理は仕出し、芸舞妓さんも置屋と呼ばれる芸舞妓さんが所属している店から呼ぶ。お茶屋の仕事はまさに「貸し座敷」であり、人数に合った席を用意し軸を掛け花をいけ、その日のお客さんによってお料理を選び、美人が良いのか気立て良しが良いのか、その席に合った芸舞妓さんを呼ぶ。最近ではカウンターのあるお茶屋もあるので一人で来られる常連さんも少なくないけれど、基本的にはお茶屋が使われるのは接待の席である。お茶屋の女将は、常連さんとともにその席のホストとなり、精一杯ゲストをもてなす。
私たち一般人がこの主人と客の文化を垣間見ることができる行事は、現代ではお正月くらいだろうか。いわゆる「実家」が主人となり、外に出た子供たちや親戚が客となって訪れる。用意されたお節料理を、名前の書かれたお箸でいただく。お正月だけはお花を飾りたいと、花店にもたくさんの注文をいただく。季節の花は、もてなしの象徴だ。
さて最近のお若い方は、友達の家に遊びに行くとその人に負担がかかってしまうから、レンタルスペースを借りるらしい。ただしこれが貸し座敷と違うのは、お誕生日パーティをするとかそういう目的がある場合だけでなく、ただみんなで集まって好きに過ごす、まさに友達の家でだらだらするようなことを、家ではなく第三の場所で行うらしい。
確かにそうすれば、その家の主だけが片付けをしてお菓子を用意しなくて済む。行く方も、お返しをしなければ、今度はうちに呼ばなければと気負う必要がない。駅で集合してスタバでコーヒーを頼めば、する負担もされる負担もない。お正月の文化が今でも生きているのは、ホストが実家や親戚なら荷が少ないからなのかもしれない。
花には空間が必要である。ここ数年はそう言い続けてきた。いけ花は、それを飾る物理的なスペースがないから衰退しているのだと。でも本当の意味で失われつつある大切な問題は、「主人と客」という文化なのかもしれない。「お・も・て・な・し」が日本を代表する文化であることに異論を唱える人はいないだろう。だけどそれは、主人と客の関係がなければ在り得ない。そして私たち、伝統文化の継承者側が見落としがちな問題に、主人になるのはもちろんだけれど、客でいることにも負担がある、ということが言える。そのしつらえを理解し愉しむ、責任と覚悟が。
お正月、飲食店さんにお花をいけこみに行くのは、毎年いつもより気合が入る。いつもはおまかせのお店さんにも、松に千両のような渋い感じが良いか、色花をたくさん入れて華やかな感じが良いか等、いろいろとお伺いする。お店の方の手となって花をいけ、それぞれの理想のおもてなしのお手伝いをしているのだと改めて感じる。コーヒーショップは空間を提供してくれるけど、もてなしはしてくれない。
「良い店」あるいは「一流」と言われるお店ほど、お料理だけでなく店としてではなく、主人として細部まで丁寧に空間を作られる。しかしどんなに周到に準備されたもてなしも、「客」がいなければ完成しないことを忘れてはならない。客とはお金を払ってサービスを受け取る人のことではなく、主人のもてなしを受け取ろうとする人のことである。
料金と引き換えにただ食事をするのではなく、「主人」が表現しようとしているものに目を凝らしてみてほしい。全部わからなくても構わない。それが、花を束ねて贈る習慣のないこの国が築き上げた、最高の文化の形である。
季節の花
松(マツ科)
一年を通して葉が緑の「常緑樹」にとにかく神聖な力を感じてきた日本人ですが、その中でも松はとりわけです。日本中に自生することと、「万年」という異名の通り樹齢が大変長いことなどから、長い歴史の中で日本人に愛され続け尊ばれ続け、格もおめでたさも最高です。お正月にやってくる一年で最も大切な神様・年神様もこの木に依りつくと信じられ、12月に大掃除やお節料理などの支度が済むと、その証に家の外に門松やしめ縄を飾り、中には松をいけるのが習わしです。
小噺
本連載の執筆者が構える「西村花店」であるが、実はこの花屋何やら企んでいるらしい。
小噺として、今後の「西村花店」の行く末も紹介。
毎話の再解釈が花屋の空間にどう昇華されていくのか、そんな様子もお楽しみください。
祝事
日本にはたくさんの祝事があり、歳時記と祝いは表裏一体です。何かを祝うとき、私たちは誰かに呼ばれ、方々から集まります。方々から来るわけですから、呼んだ人(ホスト)は気合が入るわけです。正月なんかには普段は買わないお花や食材、お酒を準備してゲストを待ちます。私たち(ゲスト)に、どうにか自分たちの普段感じている美しい季節だったり、空気感、温度感を共有して喜んでもらいたいからです。喜んでもらいたいとき、季節を感じてもらおうと無意識的にこうした行動をとってしまうこと、それが最高のおもてなしになると信じていること、きっと日本人のDNAなのでしょう。
もてなされ
実は”もてなす”よりも、”もてなされる”方が勇気がいることなのかもしれません。一歩相手の懐に入ってみる勇気、その懐の中で相手を理解する知識、それを伝え対話する礼儀。このまどろっこしさに、効率重視になってしまった私たちはおののき、負担に感じるようになってしまったのでしょうか。でもその中でしか得られない空間が、発見があるはずですよね。
企画・編集・小噺イラスト:安井葉日花(学芸出版社)
題字:沖村明日花(学芸出版社)
撮影:生駒竜一