恐れ、すなわち感謝【お盆】|連載「京都の現代歳時記考 -木屋町の花屋のささやかな異議申し立て-」
先人たちが日本の気候から見つけてくれた、
美しいもの・儚いもの・恐いもの、その中で生きていく知恵と工夫。
そんな季節特有の本来の暮らしぶりと、現代の暮らしぶりを結び、歳時記を再解釈する。
松尾芭蕉は言った。「季節の一つも見つけたらんは、後世のよき賜物」
私たちは、100年後の人々に、どんな贈り物をできるだろう。
なんかわくわくして、めぐる季節を感じて、余裕があれば祝えばいい。
ちょっと変わった視点から、京都・木屋町に店を構える花屋の主人が現代の暮らしにすこしだけ反抗します。
執筆者プロフィール
西村良子
京都木屋町の花屋「西村花店」店主、華道家。1988年京都府生まれ。2010年関西大学卒業。先斗町まちづくり協議会事務局兼まちづくりアドバイザー。2017年に花店を開店し、現代の日本での花と四季の楽しみ方を発信し続けている。木屋町の多くの飲食店や小路は西村さんの生け込みで彩られている。
焼けるように熱いアスファルトの上に、進んでいるのか止まっているのかわからない自動車の列。スタジオのアナウンサーが伝えてくれる上りと下りの渋滞情報、熱中症対策強化の旨。冷房を効かせた車内から排出されているらしい生暖かい空気が、蜃気楼を歪ませる。これぞ日本の、お盆。
その目的は、実家に帰って普段一緒に暮らしていない家族や親戚と夏の休暇を過ごすためであるが、ではなぜ親族と時を過ごすのかというと、ちょっと忘れられがちなのだけれど、この時期に、死んだ人の霊がこの世に帰って来るからである。休暇だから家族と過ごすのではなく、家族全員でご先祖様の霊と過ごすために、休日になっているのである。
お盆にあの世から帰ってくる霊を、京都に昔から暮らす人は親しみを込めて「おしょらいさん」*と呼ぶ。お花だけでは食べていけない頃にアルバイトさせてもらっていた、宮川町のお茶屋の女将さんが教えてくれた。女将さんに教えてもらって、そういえば亡くなった祖母も、昔そう言っていたことを思い出した。言葉や風習というものはそうやって風化していくのだなと思ったことは余談だけれど、おしょらいさんは、あの世からまず特定のお寺を通じてこの世へ帰って来る。有名なのが東大路松原の六道珍皇寺で、8月の7日〜10日にかけて人々がおしょらいさんをお迎えに行く「六道参り」が行われる。この国では霊的なものは皆先がとがったものの先に依りつくことになっているので、迎えたご先祖様は高野槙*に乗って各お家へ帰られる。依りつく先は植物である場合が多い。六道珍皇寺は宮川町のすぐそばにあるのだけれど、話が出ると女将さんは「あっついえェ?」と言っていた。その悪戯っぽい笑顔を思い出すと、今でも笑ってしまう。
おしょらいさんが家にいる期間は、お仏壇に特別な飾りをする。お花もいつものより豪華になって、蓮やミソハギ、高野槙が入り、夏らしく瑞々しい。隣にはおしょらいさんが飲まれる用に、小さな器に毎朝きれいな水を注ぎ、小さな蓮の葉を浮かべておく。その他、夏に採れる野菜や果物を盛り合わせ、蓮の葉の上にのせた「お盛りもん」に、「お膳」と呼ばれる毎日のお料理をお供えする。お膳には「麻木」と呼ばれる白っぽい細い枝を切ってお箸として置いておく。
そうして8月16日。全国的にも有名な「大文字焼き」が行われる。なんとなく夏の終わりの行事として定着しているけれど、正しい呼び方は「五山の送り火」で、お盆最後の夜に、ご先祖様があの世へ帰っていく際の道しるべのために行われる。遠くで揺れる送り火を眺めながらご先祖様が家を後にするのを感じ、きっとあの世へ無事帰られたら、お盆が明ける。
そんな風に、あるいはかつてはすべての日本の人たちがしていたように、夏の野菜やお花に囲まれて、家族や親戚みんなが疑うことなく集まって、毎日違うお膳をお供えされたお仏壇に手を合わせ、なんとなくずっとお線香の香りに包まれた部屋で亡くなった人たちに想いを馳せ、遠くで燃える送り火を眺めるような夏の日々を過ごすことができたら、なんて豊かな暮らしなのだろうと思う。しかし多くの現代人にとって、これはかなり難しい。飾りやお供えの買い出しに、家族の食事とは別にお膳の準備。真面目に一からやっていたら旅行はおろか、友達と飲みに行くこともだらだら過ごすこともできない、お仏壇のお世話に明け暮れる日々となる。
それが当たり前だった、お盆がお盆だった時代。それは多分、死というものが、今よりもずっと身近に存在した時代だった。自分も親しい人も、今よりもずっと短い寿命の中で生き、たくさんのものを恐れ、祈り、日々を生きていた。そういう毎日の中で、家族とともに行うスペシャルなお参りや飾りやお料理は、今日生きていることの確認と喜びと、感謝を分かちあうための行事だったのではないだろうか。恐れの裏返しに感謝があり、感謝を共有することが豊かさを生む。恐れというもののほとんどない今の時代に立ってみて、そんな風に思う。
宮川町の女将さんは、他にもいろいろなことを教えてくれた。着物の着方とたたみ方、立ち振る舞いや話し方、姿勢や食べ方まで仕込んでくれ、花屋としても華道家としてもまだまだ未熟だった私に、お座敷のお花をいけさせてくれた。何よりも、生粋の京都生まれ・京都育ちの彼女の暮らしの傍に数年でもいられたことは、このまちで、花で生きていくことを決めた私の、かけがえのない財産になっている。女将さんは、ただのスタッフだったはずの私を、自分で花屋をしたいと言う私の夢を、心から応援してくれた。
木屋町に自分の店をオープンしたのは、女将さんが亡くなった半年後だった。 新しい女将さんや店のお姉さんの下で、お葬式やできる限りのお手伝いをさせてもらって、お茶屋さんのアルバイトを辞めた。幸い、花屋は少しずつ忙しくなっていった。毎日は、何しろ人生で初めてのことで、疲れ果てて一瞬のうちに過ぎて行った。女将さんのことはずっと心に引っかかっていたのだけれど、どうしても時間をとることができず、結局初めてお墓参りに行ったのは亡くなってから3年が経とうとしていた頃だった。女将さんが私に遺してくれた着物に袖を通し、初めて行ったそのお墓の前に立って、手を合わせた。ごめん、女将さん、こんなに遅くなって。奥の歯に力を入れると涙がこぼれた。時間をとることができない?そんなことは、きっとなかったはずなのに。
お盆をお盆らしく過ごす人を、私たちは豊かだと思う。でもその豊かさは単に季節行事を執り行っているからではなく、ご先祖様に感謝し、亡くなった人に想いを馳せ、普段の生活では考えることのない生や死に、ゆっくりと向き合う時間がもたらすものである。
生きていることは随分当たり前のことになった。病気になったり命の危機に見舞われる方がずっとイレギュラーで、多くの人がいつか訪れる死のことを基本的には忘れて、毎日を安全に健康に清潔に過ごしている。それなのに(それゆえに?)生きることはあまりにも大変で、忙しい。ご先祖様に感謝すること、亡くなった人に想いを馳せること。そんなこといつだってできるはずなのに、私たちは、日常の中で立ち止まることができない。旅行、飲み会、SNS。過去になってしまったことに全身で向き合うには、選択肢が多すぎる。だからこそ私たちは、「お盆」をやめてはいけないのだと思う。恐れのない世界に生きているという過信は、本当の豊さとは真逆の位置にあることを忘れてはならない。毎日でなくて良いから、一年に一度、この日々に死を想い生に感謝する。そうすれば、この国から「お盆」が消えることはない。
たとえお盆のあれこれの準備を一からすることができなかったとしても、お野菜だけでもお花だけでも、お供えのつもりで飾ってみるのはどうだろう。暑いけれど、散策がてら六道参りに行くだけでも良いし、送り火を眺めるだけでも良い。なんなら線香花火だって良い。そして、目をとじて耳を澄ませてみる。かつて訪れた死と、いつか訪れる死に想いを馳せ、今ここにある生に感謝する。狭くて冷えた車から降りたときの、むせ返るような熱気と、肌に照りつける太陽の光。閉め切った窓からは聞こえなかった、けたたましい程の蝉の声。私たちは、この8月を、生きている。
今年も仕入れてきたホオズキ*の実を手のひらに取ると、女将さんの声がする。
「いやァ立派なホオズキ。これやったら明るいわァ」、
「おおきに」。
季節の花
ホオズキ(ナス科)
漢字ではちっとも読めない「鬼灯」と書くのは、お盆に帰って来られる霊たちの灯りという意味です。「鬼」はこの世のものではない、という表現でしょうか。この世のものではない皆様は基本的には夜移動されるので、お盆には「灯り」が欠かせません。迎え火に送り火。お仏壇の傍には盆提灯。そんなちょっと大がかりな灯りではまかなえない部分を、小さなホオズキで照らすのかな。ご先祖様たちがホオズキの実をランタンにしてやってくるところを想像すると、なんとなくかわいいですね。
高野槙(コウヤマキ科)
高野山に多く自生する霊木(画像奥にある尖った植物)。常緑樹なので一年中緑ですが、お盆のお花として親しまれています。日本では、霊的なものはとがったもの(とりわけ常緑樹であることが多いのですが)の先に依りつくと考えられてきました。お家の神棚の榊も、お正月にいける松も、祇園祭の山鉾の上に立ててある松や杉や長刀も同じ理由からです。
高野槙の葉は松などと比べ葉に厚みがあり、瑞々しさを感じます。
小噺
本連載の執筆者が構える「西村花店」であるが、実はこの花屋何やら企んでいるらしい。
小噺として、今後の「西村花店」の行く末も紹介。
毎話の再解釈が花屋の空間にどう昇華されていくのか、そんな様子もお楽しみください。
おしょらいさん
ご先祖様の御霊(魂)を、京都では親しみを込めてこう呼びます。冥土から私たちのもとに戻る際の6つの道から迷うことがないよう加護し迎える「六道参り」は、「お精霊さん迎え」とも京都では呼ばれます。
高野槙(こうやまき)
常緑樹なので一年中緑ですが、お盆のお花として親しまれています。
ホオズキ
漢字ではちっとも読めない「鬼灯」と書くのは、お盆に帰って来られる霊たちの灯りという意味です。
盆提灯(ぼんぢょうちん)
お盆にご先祖様が道に迷うことなく戻ってこられるための道しるべとして迎え火を灯します。またお盆が終わる間際には送り火としても灯され、お盆の期間中はずっと飾られます。
企画・編集・小噺イラスト:安井葉日花(学芸出版社)
題字:沖村明日花(学芸出版社)