『福祉と住宅をつなぐ―課題先進都市・大牟田市職員の実践』刊行記念 鼎談 vol.1 大月敏雄×牧嶋誠吾×園田眞理子

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『福祉と住宅をつなぐ―課題先進都市・大牟田市職員の実践』の刊行を記念しまして、推薦のお言葉をいただいた応援団の方との対談を行ないました。
第1回目のお相手は東京大学で建築計画を教えられている大月敏雄先生です。対談の様子をぜひご覧ください。
(画は上記から、テキスト(抜粋)は下記をご覧ください。)

◆主なトピック

牧嶋 誠吾

大牟田市居住支援協議会事務局長

園田 眞理子

元明治大学理工学部建築学科教授

大月 敏雄

東京大学大学院工学系研究科建築学専攻 教授

対談抜粋 文責:学芸出版社(2021年6月7日収録)

大月敏雄先生と牧嶋誠吾さんのつながり

園田牧嶋誠吾さんが『福祉と住宅をつなぐ』を出版されました。刊行を記念してこれから4回にわたって牧嶋さんの応援団の方との対談を行います。
今日は大月敏雄先生です。大月先生は東京大学で建築計画を教えておられます。
建築計画は時代の先を読んでどんな建築を目指すのかと、それを実現するための裏付けを得るための学問です。
大月先生も『福祉と住宅をつなぐ』をお読みくださり、是非、応援したいということでお出でくださいました。
大月先生が牧嶋さんと接点を持たれたのはどんな機会からでしょうか。

大月最初はスマイルホールで立地適正化計画のシンポだったと思います。空き家をつかった活動を紹介されていました。私は大牟田の隣の隣の八女の出身なので、近くでこんなことをやっているのだ、と印象深く思いました。
次は産炭地の研究です。産炭地は60年ほど前まで発展し人もドンドン集まっていたのですが、突然、もう終わりだ、閉山だとなってしまった。その後、町がなくなり山に帰ってしまったところもある一方、生き延びたところもあった。その違いは何かから学べないかと思い、全国の旧産炭地を訪れました。そのなかで大牟田にも伺いました。たしか牧嶋さんは建築部局におられたと思います。
次に居住支援協議会を作ろうとなったときに、大牟田がいち早く立ち上げられた。まだ都道府県でも立ち上がっていないところがあったころでした。イベントに呼ばれてご一緒しました。
そのあと、大牟田市が住生活基本計画を作りたいということで呼ばれました。ただ、そのときすでに、牧嶋さんは病院に移られていました。

園田浅からぬものがあるのですね。ご出身も近い。
旧産炭地の話が出てきましたが、大牟田の閉山はいつですか?

牧嶋平成9(1997)年の3月です。

園田大月先生、産炭地の現在という視点からは大牟田はどういう特徴がありますか?

大月人口が一番多かったとき20万人でしたが、いまは10万人ぐらいです。だから地元では「かつてはあんなに良かったのに、いまは何だ!」といった雰囲気が充満しています。
でも、他のところと比べると頑張っていると私は思っています。
その一つは、昭和10年ぐらいに三井が合成染料、とくにインディゴブルー(人造藍)の事業化に成功して、その本拠地を大牟田に置いたことだと思います。真っ白なモダンなオフィスビルも作りました。
だから三井化学のおかげで、本当に石炭しかないところと比べるとジワーとした下がり方に留まっています。ただ次の産業に転換できていないという現状です。
だけど、地元の方々はそういうことをあまり意識されていないで、人口が半分に減ったということにショックを受けておられるように思います。
牧嶋さんどうですか?

炭鉱閉山後の住宅の課題―旧炭鉱住宅と改良住宅

牧嶋一番よく見えるのが人口減少と高齢化です。
産業は我々住民が肌感覚として感じ取れない。市役所のなかでも産業の話はあまり出てこないです。
振り返ってみると平成9年に閉山した後に、炭鉱の社宅がいっぱい残っていました。
その建替を市営住宅(改良住宅)でやろうということになって、私も担当させて頂きました。

大月本にも書かれていますね。

園田産業をどうしていくのかは、大牟田だけの問題ではなくなってきています。大牟田は大月先生のお話では化学産業で20世紀の間はなんとか命脈を保っていたということですが、人口半減が重たく受け止められているということです。
産業自体をどうにかするという話は別として、この本のテーマである福祉と住宅という視点から今日は考えてみたいと思います。
社宅を改良住宅に変えていくとき、この本でも「2章 市営住宅を使い尽くせ」で新地東住宅のことを書かれています。住宅をリロケーションしながら住宅を建て直すときに、牧嶋さんの言葉によれば福祉は暮らしなんですが、暮らしの再生もしていこうというあたりで、相当大胆なことをされていると思います。
たとえば「福祉施設ではなくて、コンビニで良いのだ」という役所の偉い人の発言があったとも書かれています。
どこを苦労されたでしょうか。

牧嶋大胆にという感覚はないです。これが住まいとして普通だろうという意識です。
当時はハコモノをきちんとデザインして作るというのが普通の感覚でしたが、そのなかで私が人の生活をみてきちんとやろうと考えられたのは1章で紹介した「バリアフリー」での失敗を含めた経験、バリアフリーの本質的なところを学べたことが大きかったです。
確かに「福祉施設ではなくて、コンビニで良いのだ」と言われましたが、これから高齢化が進んでいくなかで自立できないお年寄りが増えていくので、誰かのサポートが必要だということを理解いただきました。
福祉施設を併設するのはこれからの時代に相応しい集合住宅のあり方だと理解いただき、制度にのっけていただけたと思います。

園田私は100年前といまが重なって見えます。大月先生が紹介された同潤会の猿江裏町不良住宅地区改良事業では、ただハコモノを置くだけではなく、ゴザ工場を作られたり保育園をミックスしたと聞きました。100年前にできていたのに、なぜ、いまできていないのか。
そういう事例がないかというと、大牟田に行くしかないというのはどういうことなのでしょう?

福祉と住宅のかかわり―100年の経緯

大月私は卒業論文の時に猿江裏町を取りあげました。あれは改良事業なので、牧嶋さんが大牟田で取り組まれた住宅改良事業の前のバージョンを使ったものです。言ってみれば同じ事業なんです。

ですが、100年前は内務省の社会局というのがあって、社会事業全般をみていて、そのなかに住宅供給事業があったのです。ですから住宅は福祉政策の駒だったのです。
その後、昭和13年に厚生省ができ、そのなかに住宅課ができました。
ところが軍部から家を作ることを専門にせよと言われて福祉色がどんどん薄くなりました。そぎ落とされてそぎ落とされて残ったのが住宅供給でした。

戦時中から住宅供給は大工さんとか林業とかの産業と関わりがあると捉えられていました。
戦時経済でもそうでしたが、戦後の経済復興のなかに日本の経済を底上げするものだということで組み込まれていって、それが戦災復興院になって建設院になって建設省の住宅局になっていくなかで、福祉が脱色されて骨として住宅供給だけがのこっていく。
それを一番頑張ったのが田中角栄だと言われています。ゼネコンの人ですから。
彼の我田引水のためにそうなってしまったと私は理解しています。

じゃあ、福祉のなかに住宅があったときはどうだったかというと、住宅を建てるだけでは解決しない、解決すべきものはなにかを考えたときに、家が足りないから建てるというのではなく、この地区に困っている人達がこれぐらいいる、それを何とかしたい、ついては住宅は必要だよね。だけど住宅は必要条件であって十分条件ではないということを皆が知っていた。

だから、住宅を作るときには、福祉施設とか授産施設を一緒に作った。
たとえばゴザ工場も一緒に作って、住んでいる人に働いてもらって、賃金を払ったり、技術を習得してもらう。そこで作られたゴザは同潤会のリフォームに活用するという良い循環を作っていたのです。

それが戦後になってぱったり止んだなかで、牧嶋さんの仕事を見ると、牧嶋さんの頭のなか、哲学のなかに「箱だけの問題じゃないんだ」ということが入っていると思いました。
いま、やらなければいけないのは、日常的な活動の延長として福祉的な活動が普通に行われるということなんです。

だから「俺は福祉になってしまったから、申請書を書いて、福祉の人にお願いして」という形の福祉じゃなくて、日常のなかで、「ちょっとこの辺りが痛いかな、なんとかして」といったことに誰かが気づいて、見つける拠り所があって、みんながよってたかってメンテしてあげる。そういう舞台はどうやったらできるかという課題設定を牧嶋さんはされているのではないかと思います。

住宅行政でやるべきことは、来年何戸作りましょうといった、かつてやられていたことではない、ということがこの本を読むとよくわかります。
猿江裏町から100年経って、やっとほっとする物語があるなあと思いました。

牧嶋さんが福祉と住宅をつないだきっかけは

園田まさに100年前にできていたことが、戦争があり、戦後のトンカチ一本槍で進んで来たところに、ようやく牧嶋さんの仕事が出てきた、100年前にやっていたことをやらざるを得なかったということだと思います。
牧嶋さんが福祉を取りもどさないと住宅供給とか団地再生はあり得ないと思われたきっかけは何かあったのですか?

牧嶋いや、どうでしょう。国交省の第○期5カ年住宅建設計画とかは見てきました。
住宅の量的政策があって、たくさん作れということもあったのですが、その後、量より質という流れも見ていました。
それは見ていたのですが、なんでしょう。住民の方や、いろいろな人たちと付き合うと住宅に対する思いが深まった、と思います。たとえば入居者の方から「ハコモノを作ったらそれで良いのか」と教えていただいたようにも思います。
だから住宅を作る側として何ができるかを考え整備してきたと思います。

 

国に言われるがママに作ると将来の負担になる

大月でも、公営住宅の建て替えは、間引いて、数を減らして建て替えるだけの仕事にもできたじゃないですか。それを牧嶋さんは許せなかった、そんなんじゃダメだと思われたんじゃないですか?

牧嶋市営住宅を作れば皆、手を上げてくる。作れば埋まるという状況です。
だけど私は少なくすることに意味があると思いました。
どんどん建て替えると、建った後も建物のお守りをしなきゃいけないです。それは15年、20年後に大牟田の財政にとってどうなのか、大変になってしまうのではないか。
行政は必要なものは作らなければいけないけれど、ムダに作る、国に言われたから作るというのではなく、きちんといまの人口動態にあわせてやるべきと考えていました。
単なる数ありきで公共施設を作ってはいけないと思います。

作ったときが終わりではない

園田作ったものはお守りしなきゃいけない、作るからにはどういうふうに使われていくかを考えなければいけないということだと思います。
大牟田からは外れますが、3.11の震災復興のなかでの仮設住宅ひとつをとっても、仮設といえどもそこに作ったものがどうやって活かせるのか、ということがあると思います。
作ってテープカットでパチパチと拍手して終わるという習性から特に建築屋さんは逃れられない、だけどこれから時代はそうじゃないというところをどうやって突破していけば良いのか。
大月先生はどう考えられますか?

大月建築の雑誌でも建ったときの写真をとって、それを作った人は素晴らしいと言われたりするのですが、5年後見に行ったら、ずたずたになっていて、やっかいなものを作ってしまったということが結構ありますよね。
だから物事の評価を5年、10年、15年ぐらいで見ていくという文化を、物作りの人たちが、当たり前のようにやっていかなくてはいけないし、5年後10年後ダメだったらもう一回チャンスを上げて再投資して、ちょっと作り変えていくことが大事なんだ、軌道修正することが大事なんだとならないかと思います。
そんな文化は日本の行政システムにはほぼないんですね。
時間をかけて、皆が汗をかいて作っているのだから、5年後ダメだったら軌道修正のためにチャンスをあげる。だから良いモノ作ろうぜ。
そっちのほうにこそ、設計的、計画的に頭を使わなければいけない。キャンバスに絵を描いて一等賞を取るだけが仕事だといった風潮を止めた方がいいですね。

園田牧嶋さんは、そのへんの苦労をこの本に全部書かれたと思いますが違いますか?

牧嶋それは第1章にあるバリアフリーを現場で見てきたから気づいたことが大きかったと思います。
手すりや段差を作っても結局使われないことがある。まったく意味がないということがたくさんあるんです。だから作り手をきちんと育てていくということ、大工さんとかいろんな人たちに楽しくやってもらう、教えるというより一緒に学ぶということを行政の手法として啓発していったほうが良いなと思います。
コンサルタントも、いろいろ策定してくれますが、結局、「推進するのはあなたたち行政だよ」というレールを敷かずに策定だけが終わってしまう。だからレールの敷き方も議論をしてコンサルタントの人たちも成果をあげていただけるようにしたら良いかな、と思います。

大月さんからのメッセージ[福祉の仕事を建築で解決する]

園田作る人を勇気づけて、育てる人がそれを引き継いで、最後は、暮らしと住まいが一体になって、大月先生の言い方なら住宅政策ではなく居住政策、牧嶋さんの言い方なら「暮らしが成り立つためにどうしたら良いかを皆、考えたらどうか」ということだと思いました。
最後に、大月先生からこの本のここがキモですとか、読者へのメッセージをお願いできませんか。

大月改めて思ったのは「牧嶋さんは建築家なんだな」ということです。どの立場にいても、福祉にいても、建築で勝負したい人だなと思いました。
福祉の仕事を建築で解決しようとしているということです。それは建築屋さんの面白い振る舞い方として学べると思います。
いまの若い建築家の人たちは昔よりは多様に活躍できる場が用意されてきていますが、そのなかに福祉も、大看板の福祉ではなくて、日常をよくしようぜという福祉のなかで、役場でも、建築で勝負できるフィールドはいっぱいあるぞ、ということを、どの章、どの節を読んでも説いていると思います。
だから僕は建築の人に読んで貰いたいと思います。とくに若い人ですね。

園田福祉のことを建築で解決したい人は、この本を読まないと・・

大月そうです。

園田最後に、牧嶋さんはいかがですか?

牧嶋ちゃんと解説をしてくださり、ありがとうございます。
大月先生が書かれた本のなかで、薬箱のような町というのがあったと思います。
ごちゃまぜというか多様化している社会のなかで、我々が建築屋として生活や暮らしの課題の解決にアプローチできたら~という思います。
大月先生は包括的居住支援とおっしゃっておられますが、一緒にそういうことを学べていただけたらと思います。

園田福祉のことを建築の立場で考えてみたい方、福祉の課題に建築でどうやって切り込むのか、それを知りたい方は『福祉と住宅をつなぐ』というバイブルがありますので、是非、お読みください。

今日はありがとうございました。

『福祉と住宅をつなぐ 課題先進都市・大牟田市職員の実践』牧嶋 誠吾 著