第4回|日本住宅公団誕生――ダンチ族の新しい生活様式|連載「月刊 マイホームの文化史」
この連載について
わたしたちの身のまわりに建つ住宅はどうやって今のような姿になったのでしょうか。
この連載は、戦後の持ち家政策のなかでたくさん建てられてきた「マイホーム」がどうつくられてきたのかを、住宅行政、建築家、ハウスメーカー、工務店、セルフビルドなどなど様々なアクターのせめぎあいを通して浮かび上がらせる「もうひとつの近現代住宅史」の試みです。
※この連載は、学芸出版社より2026年に発売予定の『マイホームの文化史(仮)』の内容を抜粋したものです。
筆者
竹内孝治(たけうち こうじ)
愛知産業大学造形学部建築学科 准教授。1975年三重県生まれ。1998年愛知産業大学造形学部建築学科卒業後、木造住宅メーカー営業職に従事。勤務を経て、2007年愛知産業大学大学院建築学専攻修了。修士(建築学)。専門は住宅計画史、住宅産業論。著書に「“ふつう”の家々の造られ方―戦後庶民住宅の歩みをたどる」、『NOT YET―ALREADY』(共著、ルーヴィス、2021年)、「日本におけるプレハブ住宅の展開」(連載全12回、谷繁玲央氏と交互担当、日本建築士連合会『建築士』2021年2月号~2022年1月号)など。
美智子妃とオムツの旗
1960(昭和35)年9月、皇太子明仁親王(現・上皇さま)と美智子妃ご夫妻は、東京・田無町(現・西東京市)に建つ公団ひばりヶ丘団地を視察に訪れ、住民・マスコミから熱烈な歓迎を受けた。74号棟に住む横井さんのお宅、2DKの住戸についたベランダから皆に手を振るおふたりの写真が今に残る1【図1】。

(国際文化画報、国際画報社、1960年11月号、表紙)
訪問前年の1959(昭和34)年に竣工したばかりのひばりヶ丘団地は、180棟、全2714戸におよぶマンモス団地で、日本住宅公団が手掛けた物件としては当時最大規模。都市部では依然として深刻な住宅難がつづいていた時代とあって、まだまだ木造賃貸アパート(モクチン)住まいが多かった当時、鉄筋コンクリート造で、風呂や水洗トイレ等の設備も充実した公団住宅は目映いばかりのお城だった。その分、家賃も高く、入居者はサラリーマンのほか、医者や大学教授などが多かったという。1958(昭和33)年には「ダンチ族」が流行語となるなど【図2】、庶民のあこがれの的となった2。

(週刊朝日、朝日新聞社、1959年7月20日号、p.4)
あこがれの的だったのは団地を訪れた皇太子ご夫妻も同様。皇太子の婚約発表を機に報道が過熱し、「ミッチー・ブーム」と呼ばれる社会現象にまでなった。
そんな皇太子夫妻と団地という最強の組み合わせが成立したわけは、夫妻のアメリカ訪問を前にした学習の一環として、当時の日本で最先端の団地を見学することにあった3。舶来感ある最新型の住宅や設備が「アメリカ」のライフスタイルの予習教材としてイメージされた。
また、団地が立地する旧田無町は、戦時中は中島飛行機田無鋳鍛工場などの軍需工場があった土地4。いわば、戦争から平和への転換を物語る来歴を持つ場所に建つ「アメリカ」の事前学習施設=団地(実際は「ソ連」感が強いけれど)へ、戦後の平和な時代を象徴する皇太子ご夫妻が訪問する構図が成立したのだった。
ところで、できたてホヤホヤの団地とはいえ、皇太子ご夫妻をお出迎えするとなれば、それなりの準備が必要となる。公団住宅は建設されたはいいけれども、道路も舗装されておらず路線バス保育所もない状況だったという5。
戦後、昭和天皇が日本各地を巡幸するたびに訪問先がきれいに整備される様子が「天皇は箒(ほうき)である」と揶揄されたように【図3】6、皇太子夫妻の団地訪問に先立って徹底したクリーン作戦が展開された。通り道の舗装が修繕されブラシで洗われ、ガラスも磨かれ草もむしられる。

(民衆の雑誌・真相、11号、人民社、1947年9月、p.1)
ただ、横井さん宅に訪問の通知があったのは3日前の夕方で、「もう何か準備しようにも時日がなく、ただただお掃除を念入りにしていつもの倍くらいのお花を買ってきて飾った」のだとか7。
しかし、「箒」があえて掃かなかったものがある。皇太子夫妻が立つベランダの上下階をみると、そこには干された洗濯物、しかも下着がバッチリと写真に収まっていた。当時のメディアが報じた「皇太子ご夫妻訪問」写真には、総じて洗濯物が写っているのだからオムツの旗とのコラボはウッカリではなく、むしろ、皇太子ご夫妻は洗濯物と一緒にベランダで写真に収まる必要があったと考えるのが自然だろう8。
「皇太子の御成婚」という一大イベントにはじまる各種報道は、結婚、家庭の理想像を発信したものとされる9。ひばりヶ丘団地訪問もまたその重要なパーツとなった。ダンチは皇族に言祝がれた住まいになったと同時に、皇太子夫妻がオムツの旗にかこまれる「開かれた皇室」「戦後民主主義」の象徴としてもイメージされていった。
公団 vs.大和魂
皇太子夫妻が訪問したダンチ。そのはじまりは1955(昭和30)年にさかのぼる。同年に実施された第27回衆議院議員総選挙では最大の争点が住宅問題になった。選挙戦を制して組閣された第二次鳩山一郎内閣は公約の実現に迫られることに。そこでにわかに立ち上がったのが新たな住宅供給組織・日本住宅公団だった。
建設官僚にとっては、田園都市構想から同潤会や住宅営団に底流しつつも挫折を重ねてきた不燃住宅の集団的建設を実現する一大チャンスと見なされた。すでに1950年代はじめに公営住宅と住宅金融公庫で出そろったはずの住宅政策メニューに、さらに公団を加わることは、自由党や経団連、そして建設省内でも根強い反対意見がありながらも、あれこれと理由をつけてなんとか押し切り実現へと至る10。
後に公団総裁をつとめた南部哲也は日本住宅公団が「大へんな難産の末の誕生」だったと回顧している。そんな「難産」を物語るエピソードのひとつが、日本住宅公団法をめぐる国会審議で発せられた「コンクリート住宅は大和魂をうばう」発言だった。
「当時の住宅は木造が主体であった。国会審議の質疑の中で『お前たちはこのようなコンクリートの住宅を建設して、日本人から大和魂をうばうのか、大和魂は日本の土から生まれるものだ』と庭つき木造一戸建論をぶたれたこともあった」と11。
とんだ言いがかりに思えるこの発言も、実は広く人びとに共有された木造愛国論、持ち家忠臣論の典型でもある。住宅を確保し家庭生活の安定を図ることは、当時リアリティをもって懸念されていた日本の共産主義化を防ぐ役割も見込まれていた。「大和魂」発言は、戦前の帝国議会での審議に登場した「戸建持家=自分の城郭」をもつことが「忠君愛国の思想の根元」になるという発言の変奏にほかならない。
サトーハチロー作詩、古関祐而作曲による「日本住宅公団の歌」はこう歌う。
「ならんだ ならんだ ならんだ窓が 窓、窓、窓、窓、明るい窓が…」12。
十分な採光を平等に享受できる公団住宅の住棟設計は、戦後民主主義の理念の反映でもあった。鉄筋コンクリート造の集合住宅が建ち並ぶ公団住宅とあって、三角屋根でなく窓が強く意識される。広い敷地に不燃集合住宅が建ち並ぶ団地には、公団設立を機に結集した優秀な建築技術者たちがさまざまな工夫を込められている。なかでも人びとの目をひいたのがダイニングキッチンだった【図4】。

(日本住宅協会編『コンクリート・アパートすまい方読本』、新建築社、1958年、p.20)
限られた住戸面積にあっても機能的で近代的な住まい方を実現するために、それまで北側の片隅に設けられていたキッチンをダイニングと組み合わせて「食寝分離」を確保した。公団による住戸設計は「一戸ごとにコンパクトに基本的な住機能を詰め込もうとした」もので、その設計思想は「基本機能のみを追求して徹底的に小型化するという点で、零戦の開発やスバル360のような軽乗用車の開発構想と同じであった」との指摘もある13。夫婦と子どもという標準家族を収容するダイニングキッチンはいわば「零戦」や「軽自動車」のようにつくられた【図5】。

(「スバル360」商品リーフレット、富士重工業、1965年頃)
ダンチ住まい方マニュアル
皇太子ご夫妻の団地訪問に先立つ6年前、1954(昭和29)年の『アサヒグラフ』にベランダにはためくオムツの旗についての記事が掲載された14。
「アパートの窓に干し物―珍しくもない風景だが、梅雨どきともなれば晴れ間をねらって一斉に窓が開き干し物の展覧会場となる」。
記事には当時のベランダ事情がいろいろ書かれいる。戸山アパートでおきた子どもの転落事故からベランダ手摺が嵩上げされるようになったり、板張りの風呂が増設されたり、ベランダ部分からさらに突出させて物干し竿を掛けたりと無法地帯化が進んでいた。そんな状況を受けて、同記事では建築家・池辺陽にコメントを求めている。池辺はこう言う。
「テラス付きのアパートという言葉はロマンチックな響きをもっている。テラスの日光浴、鉢に匂う美しい草花。ところが現実はごらんの通り、これではテラスではなく物干し場である。これが現代日本文化を象徴する近代的アパートと称するものなのだ。
ただ、池辺も「だからといって日本の住人たちを責めるわけにはいかない」と同情する。「洗濯機も乾燥機もなく、屋上の干し場は盗難の心配がある。いわば普通の家を縦に重ねただけのアパートではこれ以外どんな暮し方があるのだろうか。本当の人間の生活ができるアパートにするためには、アパートに住む人たちがその住居を愛し必要な施設を作らせる努力がまず必要である」と。
戦後、公営住宅や公団住宅が続々と建設されていくのに伴って、それまでほとんど木造の戸建て住宅や長屋、2階建てアパートにしか住んだ経験のない人びとが、鉄筋コンクリート造のアパートで生活することになった。そこで、戦時下に模索された「住まい方指導」がふたたび登場する。
たとえば、1958(昭和33)年から、日本住宅公団は管理事務補助者、通称「ヘルパー」を団地に配置した。新しい住様式に戸惑ったり、住まい方をめぐるトラブルに直面したりする主婦への相談相手だった。日本生活科学化協会で生活士として講習を受けたヘルパーたちは、大学で家政学や福祉学などを学んだ若い女性たちで構成された15。
同じ年には、日本住宅協会が『コンクリート・アパートすまい方読本』を出版し啓蒙につとめる【図6】16。洋便器やダストシュートの使い方から、ベランダでの洗濯物の干し方にまで指導はおよぶ。集合住宅が広く人びとに受容されるためには、こうした補助輪の数々が必要だった。

(日本住宅協会編『コンクリート・アパートすまい方読本』、新建築社、1958年)
池辺のベランダ評の前年、1953(昭和28)年には、日本建築学会の機関誌『建築雑誌』にベランダの洗濯物について論じる小文が掲載された17。著者「UZO」は西山夘三のペンネーム。彼はこう記す。
「戦後の建築新風景の随一は、やはり日本中いたるところの都市でみられる鉄筋コンクリートアパートの集団であろう。(中略)ところが、雨上りの天気のよい日など、この堂々たる建物の前面に、色とりどりの旗さしもの、つまり、カサ、フトン、洗濯物、その他あらゆるものが飾られ、うららかな陽をあびて照りはえる」と。
こうした状況に対して「けしからん、何とかせよ」との声も当然ある。たしかに「洗濯物で南側の窓をふさぎ、部屋の中への日光の射入をさまたげているなどとは、まずい事だ」と住宅計画学者らしく指摘するも、「美しさ」を台なしにしているという意見には同意しがたいと言う。
「私はむしろこの旗さしものに、生活の生きているよろこびの表現を感じる。(中略)整つた暮らしができる施設と余裕が人々にできてくるまでは、おむつのはためくフアサードを私は日本人の生活の美しい表現と感じたい」と。
この小文のタイトルは「おむつのハタ」。生活感が消し去られた昨今の建築写真を批判しながら、ベランダにたなびく戦後民主主義の象徴=オムツの旗を称えたのだった。そんな戦後民主主義なライフスタイルを牽引するのが皇室ブランドなのはちょっと不思議ながら、まだら模様に戦前・戦後が並び立ち、親米であり反米でもあり、ソ連も混ざり合う根っこに皇室があるのが日本的といえば日本的だろう。
さて、それから丸60年が経過し、皇太子ご夫妻が訪問した74号棟は取り壊されて今はない。でも、ふたりが立ったあのベランダだけが、団地の敷地内に保存されている【図7】。

(松波庄九郎「ひばりが丘団地」、写真AC、ID:889705)
マイホーム形成の「理想・規範」と庶民生活の「現実・事実」が取り結ばれた場所、ひばりヶ丘団地。戦後民主主義を象徴する「マイホームとしての『家庭』の幸福」が広く発信された皇太子ご夫妻団地訪問。天皇が立ち寄った場所が「聖蹟」となり、そこで食事をとった食器が「御器」と呼ばれるように、ひばりヶ丘団地は「聖蹟ひばりヶ丘」となり、その故事を「御ベランダ」が今に伝えるのだった。
そして、限られた住戸面積で食寝分離を実現する苦肉の策だったダイニングキッチンは、戦後住宅のアイコンとして受容され、地方の一戸建て住宅にまで援用されていく【図8】。

(「ダイヤブロック:ダイニングキッチン(メイツシリーズ5)」河田、1975年)。
注
- 国際文化画報、国際画報社、1960年11月号、表紙 ↩︎
- 奥野修司「ひばりが丘:最先端団地の『夢の跡』」、所収『昭和の東京12の貌』、文藝春秋、2019年、p.114。また、『週刊朝日』(1958年7月20日号)では「ダンチ族」と題して、「このごろふえたアパート群のことを団地といいますが、あのアパート居住者をダンチ族というわけです。ダンチ族は新しい都会の中堅庶民層です。一団地千戸以上のもザラですから、そうした新しい庶民層が生み出すさまざまな問題を、無視することはできますまい」と報じた(無記名「新しき庶民”ダンチ族”」、p.4)。 ↩︎
- 原武史『団地の空間政治学』、NHK出版、2012年、p.22。「ミッチー・ブーム」については、石田あゆう『ミッチー・ブーム』、文藝春秋、2002年のほか、清宮由美子『美智子妃誕生と昭和の記憶』、講談社、2008年を参照。 ↩︎
- 斎藤貴男『戦争経済大国』、河出書房新社、2018年、pp.40-41 ↩︎
- 前掲、奥野健二「ひばりが丘」、p.115。「道路は舗装されていなくて、路線バスもない、保育園もない、当時は「田無町駅」と呼ばれた駅に行く道も舗装されていなくて砂利道なんです。雨になるとドロドロになってしまい、通勤にはゴム靴を履いて駅で履き替えていました」とある。 ↩︎
- 無記名「天皇は箒である」、真相、11号、p.1。「数千人の労働者が命のつつかい棒と頼む坑木が腐りはてても一顧もしない炭鉱資本家、数十万の人民が日夜往来する道路にウソツパチの公約スローガンが風にふかれてなびいていても見向きもしない官僚共が、われらが象徴の往くところ、地下千数百尺の黒闇地帯から、オメシ車が一瞬疾駆し去る街頭の一角、建物の壁に至るまで、ナメルが如く、払うが如く、たちまちにして変わる美まき町、美まき村。げに“天皇は箒である”といいたくなる次第である。」 ↩︎
- 横井洋子「皇太子ご夫妻をわが家にお迎えして」、主婦と生活、主婦と生活社、1960年11月号、p.252。原は前掲書『団地の空間政治学』で、訪問当日が火曜日だったため、夫の横井静香さんは不在だったと思われると指摘しているが、この手記によると普段は仕事を休むのが嫌いだったけれども、訪問当日は特別に休みをとり、夫婦そろってお出迎えたのだそう。 ↩︎
- 横井さん自身、ベランダの洗濯物について「あれは、私どものよそいきでない普通の家庭生活の営みもみていただけて、かえってよかったのではないかと思っています」と語っている。前掲、横井洋子「皇太子ご夫妻をわが家にお迎えして」、p.254。 ↩︎
- 内田隆三『国土論』、筑摩書房、2002年、p.180。さらにこうつづく。「テニスコートのロマンスから華やかな結婚へ、東宮御所での新しい家庭生活、エプロンをつけて洋風のキッチンに立つ皇太子妃、新家庭自らが子育ての規範としてつくった『ナルちゃん憲法』など―皇太子による新しい『家庭』のイメージはマス・メディアを通じて消費されていく。」 ↩︎
- 本間義人『戦後住宅政策の検証』、信山社、2004年、pp.190-191。あわせて、住田昌二『現代日本ハウジング史:1914-2006』、ミネルヴァ書房、2015年、pp.222-223も参照。 ↩︎
- 日本住宅公団史刊行委員会編『日本住宅公団史』、日本住宅公団、1981年、p.6 ↩︎
- 同前、p.416 ↩︎
- 橋本寿朗『戦後の日本経済』、岩波書店、1995年、p.130 ↩︎
- 無記名「窓」、アサヒグラフ、1954年6月16日号、p.23 ↩︎
- 前掲書、『日本住宅公団史』、p.39 ↩︎
- 日本住宅協会編『コンクリート・アパートすまい方読本』、新建築社、1958年 ↩︎
- UZO「おむつのハタ」、建築雑誌、日本建築学会、1953年1月号、p.58 ↩︎



