第2回|急げ住宅建設――戦災復興と工場生産住宅|連載「月刊 マイホームの文化史」
この連載について
わたしたちの身のまわりに建つ住宅はどうやって今のような姿になったのでしょうか。
この連載は、戦後の持ち家政策のなかでたくさん建てられてきた「マイホーム」がどうつくられてきたのかを、住宅行政、建築家、ハウスメーカー、工務店、セルフビルドなどなど様々なアクターのせめぎあいを通して浮かび上がらせる「もうひとつの近現代住宅史」の試みです。
※この連載は、学芸出版社より2026年に発売予定の『マイホームの文化史(仮)』の内容を抜粋したものです。
筆者
竹内孝治(たけうち こうじ)
愛知産業大学造形学部建築学科 准教授。1975年三重県生まれ。1998年愛知産業大学造形学部建築学科卒業後、木造住宅メーカー営業職に従事。勤務を経て、2007年愛知産業大学大学院建築学専攻修了。修士(建築学)。専門は住宅計画史、住宅産業論。著書に「“ふつう”の家々の造られ方―戦後庶民住宅の歩みをたどる」、『NOT YET―ALREADY』(共著、ルーヴィス、2021年)、「日本におけるプレハブ住宅の展開」(連載全12回、谷繁玲央氏と交互担当、日本建築士連合会『建築士』2021年2月号~2022年1月号)など。
天皇陛下の組立住宅
後に「女性建築家第一号」として知られることになる建築家・浜口ミホは、敗戦前後に北海道へ疎開していた。そして、そこで知り合った若い農家Yさんの住宅相談にのることになる。理想の住まいについて打ち合わせを重ね、これからの時代は格式を重んじるのではなく機能的な住まいにしましょうと提案する浜口に、Yさんは申し訳なさそうにこう応えた。
…理論としてはそれはよくわかる。しかし自分のまわりの人々、父母、親類、部落の人々のことを考えるとそう急に皆とちがう住宅をつくるわけにもゆかない
と1。
もっともな提案だからといって、それが受け入れられるわけではない。もしかするとYさんは「自分のまわりの人々」を口実にやんわりとお断りしたのかもしれない。
この浜口がぶちあたった壁を乗りこえるどころか、壁をぶち抜く解を出したのが、彼女が疎開前に勤めていた建築設計事務所の所長であり、戦後日本を代表する建築家・前川國男だった。前川は焼け野原となった日本の国土を復興し、深刻な住宅難を解決するために、「合理的な、よい住宅がより安く、より早く、より大量に生産され、供給」できる組立住宅「プレモス」を開発する。
戦後日本にふさわしい近代化・民主化をうながす住宅として構想された「プレモス」は「団結と組織による近代社会の新しい力」をはぐくむ労働者集合住宅としても提案され、労働者たち自ら共同建設する作業風景も描かれている【図1】。建ちならぶプレモス群の中央に、託児所、クラブ、図書室、そして共同炊事場も設けられている。そこには「家事が共同化され、社会化される」あたらしい社会と生活のあり方が込められた2。

「100万人のプレモス住宅」とアピールされたこの住宅が想定する居住者は労働者だけではなかった。なんと天皇陛下をはじめ皇族たちが住まう住宅群としても提案されている。題して「皇族方の集合住宅案」【図2】。計画地である白金御料地跡に配置された5つの住宅群は、それぞれ皇太后邸、天皇私邸、秩父宮邸、高松宮邸、三笠宮邸で構成され、さらに倶楽部やテニスコートが描かれている3。天皇陛下にこそ「プレモス」に住んでいただきたいという前川の提案にはひとつのねらいがあった。

前川は言う。
およそ社会の生活様式というものには、その社会の最高の層の人々のもっている生活様式がお手本になって、順次に階層の下るに応じつつ、多くの人々によって何らかの形で、それが模倣されていく
と。それゆえ
国民の『憧れの的』として最高の位置にあられる陛下や皇族の方々の生活様式は国民全般の生活様式に対して、実は深い関係がある
のだと4。「そう急に皆とちがう住宅をつくるわけにもゆかない」という多くの人びとが新しい「生活様式」を受容するには新しい「お手本」が必要だった。いわば「おうち」受容のための「おいえ」活用。封建性に抗って住宅の近代化を模索したのが浜口なら、前川はむしろ封建性をテコに理想を実現させようとしたのだった。
焼け野原からの住まいの応急復興にとどまらず、さらに「近代的で民主的な社会への変革」をもたらすブレイクスルー。ただ、「プレモス」はその後の建設実績といえば炭鉱労働者用がほとんどで、その他は「床の間追放」を提唱した浜口ミホや、日産コンツェルンを率いる鮎川義介など、一部の新しもの好きなインテリ層が購入したにすぎなかった5。その後に天皇が「プレモス」に住むことはなかったし、なによりも「プレモス」には「床の間」もなかった。
工場でつくる家
敗戦を境に軍国主義から民主主義へ転換しても、住宅大量建設という課題は一貫してつづく。むしろ状況は深刻化していた。1945(昭和20)年9月、「罹災都市応急簡易住宅30万戸建設計画」が閣議決定され、応急簡易住宅の建設が急がれた【図3】。

戦時中に住宅営団が手がけた組立家屋と同じく、プレカット材や木質パネルを現場で組み立てる方式が採られるも思うように実績は伸びない。さらに資材輸送の混乱や部品の盗難など問題山積となって建設は当初計画の3分の1にとどまった6。
この手痛い失敗の反省を活かし、1946(昭和21)年10月には質の高い規格住宅の大量建設へ向けて「工場生産住宅協会」が発足した【図4】。

「合理的な、よい住宅がより安く、より早く、より大量に生産され、供給される」住宅の開発と供給は、主要都市部が焦土と化した日本社会の喫緊課題となり、「プレモス」のほかにも数多くの試みが「工場生産住宅」というネーミングのもと行われた7【図5】。戦前から夢みられてきた「自動車のように住宅をつくる」という理想がふたたび実現へ向けて模索される。

その生産を担ったのは、建設業はもちろん、戦時中に航空機や船舶の製造を担った企業や、さらには紡績や楽器製造からの異業種参入だった【図6】。前川國男と山陰工業のほか、浦辺鎮太郎が倉敷絹織とともに開発した「クラケン」などが知られる。

興味深いことに住宅復興が急がれた当時にあっても、規格化された住宅が画一的になることへの懸念は語られている8。同一規格でありながら和風・洋風を使い分ける提案もあった。「プレモス」も外装・内装を変えることで富裕層にも炭鉱労働者にも対応している。
「プレモス」の木材加工を請け負った山陰工業は、戦時中、満洲重工業開発の航空機製造を担った企業だった。敗戦にともない、戦時中は航空機や船舶などを手がけていた軍需工場の木工機械を活用した住宅建設がすすめられた。ただ、ここでの試みも、地方での生産組織が構築できなかったことや資材不足などの要因から1949(昭和24)年にはあらかた消滅し、かろうじて継続していた「プレモス」も1951(昭和26)年には生産を終了する9。
工場で家をつくる試みは、大量生産の計画は立てられても、いざ施工するとなると計画をなしくずしにするトラブルが発生しがちなことや、各地で建てるための生産組織なくして住宅建設はありえないと改めて認識させた。
「クラケン」の開発にあたった浦辺鎮太郎は、後に工場生産住宅の敗因を整理しながら、新しい住宅の受容を拒んだ要因のひとつに「土壁論」を挙げる。土壁でつくられた住まいでないと、お茶を飲んでもおいしくならないというものだった10。
技術だけでなく社会が計画の実現を阻む。天皇が住むこともなく「床の間」もない住宅の社会受容はまだ先のこと。一方で建設業とは無縁だった異業種企業が、これまでもっぱら大工が手がけてきた住宅をつくりはじめた状況は、1960年代に活発化するハウスメーカーの登場を予告するものでもあった11。
すべてが家になる
住宅大量建設プロジェクトとして知られるものに1949(昭和24)年に竣工した「戸山ハイツ」がある【図7】。木造平屋1戸建てと2戸建てが混在する合計1,052戸が建設されたこの計画は、やや特殊な成立事情があった。

「戸山ハイツ」は別名「都営戸山米軍放出住宅」という。「放出」されたのは駐屯用の兵舎セット。“舶来の品”を活用しながら日本の大工・職人が日本の住様式にあわせた家をつくることになった12。
この建設計画を担当したのは、関東大震災で九死に一生を得て、当時は東京都建築局長の任にあった石井桂だった。椅子座式を前提とし、しかもフィート単位で加工された兵舎の部材を転用するのは至難の業だった。1,052戸におよぶ住戸は整然とした並行配置で、「敷地に兵隊が整列しておる姿」と評された13。兵舎からの転用だけに。
兵舎つながりでいえば、当時たくさん建てられた進駐軍の建物にカマボコ兵舎がある【図8】。名前の由来となったカマボコのような形状で大きな空間を確保できるため、住宅、事務所、店舗などにも対応したことから、戦後に払い下げられたて店舗や学校施設、公共施設へ転用された事例も多い。積水ハウスがプレハブ住宅を開発する際のデザインソースにもなった14。

空襲による焼失に加えて、延焼回避のため自分たちで家屋を破壊・撤去した「建物疎開」などにより、敗戦直後の住宅不足数は約420万戸に達した。迫りくる冬将軍を前に土管だけでなく、学校や兵舎、軍艦、バス、汽車、洞窟などなど雨露しのげるものはなんでも住宅に転用された15【図9】。自動車のように工場生産された工業化住宅をめざした「国民住宅」以来の夢は、皮肉にも戦災によって悪夢的に実現したのだった。そしてすべては家になった。

敗戦から6年後の1951(昭和26)年の雑誌記事には、市内にゴロゴロ転がっていた鉄管に40世帯100人あまりが暮らす「鉄管部落」が紹介されている16。
1957(昭和32)年には「国際文化住宅都市」と謳われる芦屋市でも土管住宅が広がり25世帯46人の土管暮らしが登場する17。戦後の転用住宅は1950年代後半になってもあちこちに存在していたのだった。
そんな転用事例の代表「バス住宅」の住まいぶりを、住宅営団を辞めて京都大学助教授に就いていた西山夘三が記録している【図10】。1950(昭和25)年に採集した大阪・城北バス住宅は、中央に建てられた共同炊事所・便所を囲むように、円環状に廃バスが配置されたもの。前川國男が「プレモス」による労働者集合住宅でもって示した「家事が共同化され、社会化される」姿が否応なしの現実として立ちあがる。危機が「おいえ」をふるい落とす。

こうした「バス住宅」は1961(昭和36)年にも記事「バスつき住宅」として登場し18、1970年代になってようやく姿を消していったという。
戦災の影響はさまざま。家を焼かれた、一家の大黒柱を失った、仕事を失った、体を悪くした。そんな要因の有無によっても格差は容赦なくうまれた。日本が高度成長を謳歌していたそのとき、いまだ転用住宅に寝起きせざるをえない人びとがいた19。戦後復興期の苛酷な住宅事情はいやがおうでも住まいのあり方を変化させていく。そのあちこちに戦争の爪痕を残しながら。
注
- 浜口ミホ「農村住宅の封建性:住生活水準の研究」、『日本住宅の封建性』、相模書房、1949 年、pp.47-71。浜口とYさんとの交流については、北川圭子『ダイニング・キッチンはこうして誕生した:女性建築家第一号浜口ミホが目指したもの』、技報堂出版、2002年、pp.186-189を参照。 ↩︎
- 前川國男「100万人のプレモス」、主婦の友社編『明日の住宅』主婦の友社、1948年、pp.4-11。「プレモス」をはじめとした戦後復興期の住宅工業化については、権藤智之・竹内孝治「戦後初期の木造住宅工業化:我が国の木造の技術的変遷・第9回」(ビルデイングレター、2025年2月号)を参照。 ↩︎
- 前掲「100万人のプレモス」、p.11 ↩︎
- 同前、p.10 ↩︎
- 浜口ミホ「たのしく経済的に建てた新婚夫婦の十四坪住宅」、主婦之友、1953年6月号、pp.322-325。鮎川邸については「プレモス72型特集」(新建築、1950年3月号、新建築社、pp.80-83)参照。炭鉱労働者住宅は買う人と住む人が異なる(決定権者は住まない)から、馴染みの薄くとも購入するハードルが低くなる。 ↩︎
- 日本建築学会編『工業化戸建住宅・資料:構法計画パンフレット5』、彰国社、1983年、p.6 ↩︎
- 松村秀一監修『工業化住宅・考:これからのプレハブ住宅』、学芸出版社、1987年、p.44 ↩︎
- たとえば、牧野清「パネル式組立住宅(和・洋風)に就いて」、新建築、1947年5月号、p.16 ↩︎
- 前掲書『工業化戸建住宅・資料』、p.7 ↩︎
- 浦辺鎮太郎「住宅生産工業の展望」、新住宅、1948年6月号、p.181-184 ↩︎
- たとえば「工場生産住宅協会」の構成員に名を連ねた「松下造船」は松下幸之助率いる松下グループであり、同グループの住宅事業は、現在の「パナソニックホームズ」につながっている。 ↩︎
- 石井桂「戸山ハイツ建設の思い出」、『建築家の歩いた道』、室町書房、1954年、pp.124-138。屋根も瓦葺に耐えないために、粗悪な石綿スレートや再生鉄板などをかき集めて完成にこぎつけた。 ↩︎
- 秀島乾ほか「戸山ハイツ批判座談会」、新建築、1949 年6月号、pp.211-215 ↩︎
- 正式名称はクォンセット・ハット (Quonset hut)。飯塚五郎蔵『デザインの具象:材料・構法』、エス・ピー・エス出版、1989年、p.262-263。「セキスイハウスA型」との関係については、松村秀一ほか編『箱の産業:プレハブ住宅技術者たちの証言』(彰国社、2013年、p.69)を参照。 ↩︎
- 戦災復興院により不足住宅数420万戸と推計された(戦災復興外誌編集委員会『戦災復興外誌』都市計画協会、1985年、p.51)。転用住宅については、西山夘三「ねぐらずまい」、『日本のすまいⅠ』、勁草書房、1975年、pp.261-296。転用住宅については次も参照。渡辺裕之『汽車住宅物語:乗り物に住むということ』、INAX出版、1993年。 ↩︎
- 「憂き世は熱い・鉄管部落」、毎日グラフ、1951年7月1日号、pp.8-9 ↩︎
- 「石を枕の芦屋市民」、アサヒグラフ、1957年2月10日号、pp.12-13。バラエティ番組「お笑いマンガ道場」で富永一朗が鈴木義司を挑発すべく描いた「土管に住む貧乏人の鈴木一家」は、「土管住まい」という表現がもつ社会的背景と、それゆえのブラック・ユーモア抜きには語れない。 ↩︎
- 「バスつき住宅」、アサヒグラフ、1961年11月3日号、p.3 ↩︎
- 「鉄管部落」の1951年は、清家清「森博士の家」、「土管住宅」の1957年は吉阪隆正「ヴィラ・クゥクゥ」、「バス住宅」の1961年は、篠原一男「から傘の家」が竣工した年にあたる。 ↩︎


