全貌 日本庭園
内容紹介
850点余の写真、水墨画、文献で解き明かす日本庭園の世界観
重森三玲との出会いから日本庭園に興味をもった著者は、飛鳥時代から近現代にいたる全国の庭園を撮影行脚するなか、独自の鑑賞の眼を養った。造形の完成度・斬新さで厳選した100庭の紹介と、その思想的背景や特徴的技法にせまる解説を軸に、多様な日本庭園の全体像を的確なアングルで捉えた写真で解き明かす意欲的ガイド。
体 裁 B5変・224頁・定価 本体5600円+税
ISBN 978-4-7615-4096-8
発行日 2020/10/15
装 丁 KOTO DESIGN Inc. 山本剛史
はじめに
序章 日本庭園の全体像
1 日本庭園の特徴
1.1 日本庭園は世界的に見ても珍しいタイプの表現方法である
1.2 日本庭園が芸術であるためには
2 日本庭園の全体像の把握
2.1 日本庭園のテーマ
2.2 日本庭園の系統樹による生成と発展の系譜区分
2.2.1 系譜区分の基準
2.2.2 日本庭園の系統樹による生成と発展の系譜図
2.2.3 各系譜の具体例
2.3 抽象化度と造形の完成度に関する概念
2.3.1 抽象化度による庭園区分の定義
2.3.2 抽象化度と造形の完成度に関する概念図
2.3.3 抽象化度による庭園事例
3 日本庭園の抽象化プロセス
3.1 古典庭園における抽象化
3.2 小堀遠州による日本庭園への幾何学的造形の試み
3.3 重森三玲の抽象庭園
3.3.1 重森庭園の原点
3.3.2 重森の庭園および襖絵におけるヨーロッパ抽象主義の影響
コラム 石の選択
第一部 日本庭園100選
概要
100庭インデックス
1 地図による検索(全国の庭・京都府の庭)
2 作庭家別庭園検索(古典庭園・近現代庭園)
3 グループ別庭園検索(宗教団体・社会的地位)
第1章 古典庭園
001 平城宮東院
002 平城京左京三条二坊宮跡
003 大覚寺大沢池
004 平等院
005 浄瑠璃寺
006 毛越寺
007 法金剛院青女滝附五位山
008 旧大乗院
009 称名寺
010 龍門の滝
011 永保寺
012 瑞泉寺
013 西芳寺(苔寺)
014 天龍寺・臨川寺
015 願勝寺
016 保国寺
017 鹿苑寺(金閣寺)
018 慈照寺(銀閣寺)
019 碧巌寺
020 普賢寺
021 常栄寺
022 萬福寺
023 医光寺
024 旧関山宝蔵院
025 光前寺
026 龍源院
027 京極氏庭園跡
028 旧秀隣寺(現興聖寺)
029 北畠氏館跡
030 龍安寺方丈
031 大仙院書院
032 退蔵院
033 願行寺
034 信長公居館跡
035 一乗谷朝倉氏
036 三田村氏
037 英彦山庭園群(旧亀石坊・旧座主院・旧政所坊)
038 本法寺
039 西本願寺大書院
040 旧圓徳院
041 深田氏
042 小川氏
043 赤田氏
044 旧徳島城表御殿
045 名古屋城二之丸
046 和歌山城西之丸
047 頼久寺
048 二条城二之丸
049 南禅寺方丈・南禅院
050 金地院
051 摩訶耶寺
052 浜松市庭園群(龍潭寺・大福寺・実相寺)
053 大徳寺方丈
054 京都仙洞御所
055 修学院離宮
056 桂離宮
057 京都御所
058 近江孤篷庵
059 栗林公園
060 普門寺
061 大通寺
062 福田寺
063 青岸寺
064 酬恩庵
065 玄宮園
066 楽々園
067 小石川後楽園
068 岡山後楽園
069 旧芝離宮恩賜
070 六義園
071 仁王般若経
072 桂国寺
073 桂氏
074 縮景園
075 阿波国分寺
076 旧久留島氏
077 神宮寺
078 東海庵書院
079 粉河寺
080 松尾神社
081 百瀬氏
第2章 近現代庭園
082 無鄰菴
083 平安神宮神苑
084 對龍山荘
085 城南宮神苑
086 二条城清流園
087 足立美術館
088 東福寺本坊(八相の庭)
089 岸和田城(八陣の庭)
090 瑞応院(楽柴庭)
091 興禅寺(看雲庭)
092 漢陽寺
093 旧重森氏(重森三玲庭園美術館)
094 福智院(蓬莱遊仙庭・登仙庭・愛染庭)
095 松尾大社(上古の庭・曲水の庭・蓬莱の庭)
096 龍源院(東滴壺)
097 本楽寺
098 大和館・観山閣/交龍の庭
099 竹村氏/遠照寺
100 鈴木大拙館(水鏡の庭)
第二部 日本庭園の世界観
概要
第1章 宗教思想とそのシンボル
1 日本神道と磐座
1.1 神道の教理
1.2 磐座の事例
1.3 日本庭園としての事例
①旧関山宝蔵院 ②春日大社 ③正智院 ④松尾大社
2 道教思想と鶴島・亀島
2.1 道教の教理 143
2.2 道教の神仙蓬莱思想と鶴島・亀島庭園
2.2.1 飛鳥・奈良時代の庭園のデザイン
2.2.2 道教の神仙蓬莱思想と鶴島・亀島庭園
3 仏教を象徴する石組造形
3.1 仏教の各宗派に共通する内容
3.1.1 仏教の宇宙観である九山八海と須弥山
3.1.1.1 九山八海と須弥山の教理
3.1.1.2 九山八海と庭園の造形
3.1.1.3 九山八海と須弥山の事例
3.1.2 三尊像を石組造形に
3.1.2.1 三尊石組の教理
3.1.2.2 庭園における三尊石の事例
3.1.3 浄土の庭(地上に極楽を作る)
3.1.3.1 極楽浄土と末法思想の教理
3.1.3.2 極楽浄土の庭
①平城宮東院 ②平等院 ③浄瑠璃寺 ④毛越寺 ⑤白水阿弥陀堂 ⑥西芳寺
3.2 臨済宗(禅宗)
3.2.1 禅宗の伝記および教理
3.2.1.1 蘭渓道隆が初めて龍門瀑を作る
3.2.1.2 夢窓疎石
3.2.1.3 龍門瀑の原点と庭園の形
3.2.1.4 禅宗思想の庭は禅語録・水墨画の視覚化による
①龍門瀑 ②楞伽窟 ③「五灯会元 夾山」より
④蘭渓道隆の『大覚禅師省行文』 ⑤「観音猿鶴図」 の水墨画を庭園に再現
3.2.2 禅宗の庭
3.2.2.1 坐禅石または坐禅窟の系譜
3.2.2.2 龍門瀑の系譜
3.2.2.3 龍門瀑の系譜(鯉魚が龍に化身する瞬間の造形)
①碧巌寺 ②旧徳島城表御殿 ③常栄寺 ④西山氏
3.2.2.4 聖樹による祈りの聖域
①建長寺 ②大徳寺・金地院
3.2.2.5 碧巌録や水墨画の影響を受けた庭園
①金閣寺・碧巌寺・天龍寺・高梨氏館跡 ②永保寺 ③瑞泉寺 ④常栄寺
⑤大仙院 ⑥退蔵院 ⑦信長公居館跡 ⑧福田寺 ⑨阿波国分寺 ⑩粉河寺
3.3 天台宗 180
3.3.1 天台宗の教理:阿弥陀如来聖衆二十五菩薩来迎図
3.3.2 天台宗の庭:瑞応院
3.4 真言宗
3.4.1 真言宗の教理
3.4.1.1 歴史
3.4.1.2 両界曼荼羅図 金剛界曼荼羅(東寺)
3.4.1.3 五智如来の仏像名と方位の由来は「成身会」に基づく
3.4.1.4 曼荼羅図と仏像による立体曼荼羅の関係性
3.4.1.5 密教の世界観を表現した「空海の立体曼荼羅」
①東寺講堂の五智如来 ②金剛三昧院の五智如来の立体曼荼羅
3.4.2 真言宗の庭
3.4.2.1 仁王般若経の庭
3.4.2.2 「仁王般若経の庭」は五智如来の立体曼荼羅と言える
3.4.2.3 如来名号碑と二対の守り像
3.5 浄土真宗
3.5.1 浄土真宗の教理
3.5.1.1 「二河白道」について各宗祖の著書
3.5.1.2 善導の「二河白道」の教義
3.5.1.3 「易行水道楽」の伝承
3.5.1.4 各宗祖が「易行水道楽」について記した内容
3.5.1.5 「二河白道」のテーマの庭園
3.5.1.6 「易行水道楽」のテーマと地割
3.5.2 浄土真宗の庭
3.5.2.1 「易行水道楽」がテーマの庭
①願行寺 ②福田寺 ③赤田氏
3.5.2.2 「二河白道」をテーマとしたと思われる桂離宮の庭
3.6 法華宗(日蓮宗)
コラム 文献による枯山水庭園の実像
第2章 庭園世界を象る技法
1 地割の重要性
1.1 地形に対応した造形の地割
1.1.1 平安時代までの造形は自然の風景を表象した平面的造形
1.1.2 鎌倉・室町に始まり、江戸時代まで続く山畔を利用した立体造形の庭
1.1.3 室町時代末期以降、池泉庭園の立体造形は平坦部の築山に
1.1.4 枯山水庭園、龍安寺へのプロセスとその広がり
1.1.4.1 平坦部に比較的小面積の枯山水庭園が作られる
1.1.4.2 石組間の有機的つながり
1.1.4.3 弧状配石の地割
1.1.5 現代においては小面積の庭園にならざるを得なくなった
1.1.5.1 極小の庭はテーマの選択と単純化が必要
1.1.5.2 重森三玲の狭い地形を克服する地割の創造
1.2 護岸形成に付随したテーマの固定化および脱皮への試み
1.2.1 池泉庭園の護岸保護機能から護岸の修景へ、そして護岸造形の極致と終焉
1.2.2 大名庭園は護岸造形のマンネリからの脱却を目指した地割
1.2.3 傾斜地にとらわれず平坦部に作られた立体造形は、テーマの選択肢が広がる
1.3 地割の変遷ーー池泉庭園から枯山水庭園へ
2 錯覚の活用
2.1 遠近法
2.2 逆遠近法
2.3 背後の景色が動くように錯覚させる方法
2.4 長さ方向を強調させる方法
3 借景の庭
3.1 借景の理論
3.2 借景庭園の事例
3.2.1 古典庭園の借景
3.2.2 重森三玲の庭
コラム 剪定によるBefore & After
おわりに
なぜ日本庭園は生まれたのだろうか。
筆者は常々、自然石を抽象的に配置し、芸術的な作品にする庭が生まれた背景、とくに枯山水という特異な手法が育まれた理由について考えている。
まず、地形学上の背景があるだろう。日本は縦長の列島で中国大陸と太平洋の境界にあるため、四季の変化がある。狭い土地ではあるが高い山があるため、川の勾配が大きく、渓流、渓谷が形成され、清流が流れている。そのため日本人は美しい自然を謳化し、時に畏敬の念を持った。また、大陸と接合していなかったったため、独立した民族としての美的感性が育まれ、国土の美しさを再現する欲求が生まれた。
そもそも日本では神道の影響があり、巨石信仰が古代からあった。特異な形状、巨大な石に神秘的な感情を抱いていた。自然石を配石することを石組(いわぐみ)というが、その原点は「磐組」ではなかろうか。すなわち磐座(いわくら)、磐境(いわさか)に由来すると考えられる。
一方、古来より中国大陸からは道教・仏教(浄土教・密教・臨済宗など)・儒教の思想がもたらされ、宗教的テーマに起因した多くの造形が生まれた。単なる珍しい文化の受容ではなく、篤い信仰心で受容したが、国風化する過程で、その教理を造形化したいと願ったのではないだろうか。
同様に、日本庭園には、庭園先進国としての中国、韓国庭園の影響も少なくない。最古の本格的日本庭園である平城宮跡内の東院庭園が、すでに影響を受けている。遣唐使の粟田真人は704年に帰国したが、彼は唐の長安に行き、太液池(たいえきち)に接する隣徳宮で則天武后による歓迎の宴を受けた。また、洛陽には上陽宮(しょうようきゅう)という名高い庭園があり、その自然風景的地割と卵石護岸についても学んだと思われる。
古代朝鮮半島の国家の一つ、新羅にある鴈鴨池(がんおうち)の広大で深い池には、島が三つあり、その護岸は約30cmの切石を約2mも整然と積み上げてある。護岸の周辺には巨石が分散配置されて、あたかも抽象枯山水庭園のようであり、日本庭園に多大な影響を与えたことは明らかである。
当時、わが国では平城宮東院庭園の須弥山石組が突然のように日本人の前に現れるが、上記のような先進文化の影響を受けたと考えると納得がいくのである。
さて、庭園の手法の発展には、現実的なところ経済的な理由も考えられる。日本は狭い土地に多くの人間がいたので、庭園に割く場所が少なく、もとより大きな池泉庭園が生まれにくい環境であった。とくに1467年に応仁の乱が起きて京都が灰燼と化してからは、経済的に疲弊した権力者も大きな池泉庭園を作ることは困難になり、自ずと枯山水庭園が多くなった。ときに禅宗の伝来があり、抽象枯山水庭園が発生しやすい条件は整った。(ただし、日本庭園が小面積の枯山水庭園に不可逆的に推移したとは言い切れない点もある。その後も権力や経済力のある王侯貴族、将軍、大名、財閥等においては歴史の流れに逆行することもあった。彼ら時代の覇者ともいうべき人々は、従来通りの大池泉庭園を作ることがあった。特に大名庭園は、治安の良くなった江戸時代には江戸の屋敷はもちろんのこと各領内での庭園も豪華な庭を競って作った。)
他方、1549年ザビエルが初めてキリスト教を伝え、1612年にキリスト教禁止令発布までの約60年間に宣教師が織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、後陽成天皇などに伝えた知識は何であったか、庭園はどのような影響を受けたのであろうか。断片的には推測できるが、宣教師が教えたであろうルネッサンス、バロック時代の手法とその影響を受けた庭園の関係性が今後の研究の課題となろう。
そう考えると、日本庭園は、新しい時代思想(道教、仏教、ヨーロッパ文化の影響)に適応した天才的作家(橘俊綱、蘭渓道隆、夢窓疎石、上田宗箇、小堀遠州、小川治兵衛、中根金作、重森三玲ら)の活躍により新しいテーマの庭が生まれ、古い様式の庭が廃れ、さらにまた新しく斬新な庭を生み続けた変遷の歴史ともいえよう。
以下、本書の目的と概要について、編集方針を含めて記す。
本書の目的
庭園というのは、案外ぼんやり眺めるだけでは、感動が湧いてこないものである。
その庭の成り立ちを知り、真剣に観察することではじめて感じ取れること、腑に落ちることがあることを、筆者は長年の庭園の観賞のなかで体得した。ある程度の基礎知識を持ってひとりよがりにならないよう庭園に対峙し、積極的に問いかけを行いながら庭園に向き合うことで、膝を打つような発見に出会うのである。
庭園について設問しながら観ると、庭園の造形を見ることになり、目の前に見えるものを見るだけではなく、その庭、ひいては日本庭園の辿ってきた歴史を考えることになる。
なぜ、このような急峻なところに石を置いたのか、なぜ、日本庭園はおもに自然石を用い石の配置に価値を見出すようになったのか……。
作者・施主の意図は何か、何を象徴しているのか……。
あるいは、宗教や時代の思想にどのように影響を受けているのか、時代によってテーマや造形はどのように変化してきたのか……。
なぜがなぜを生み出していく体験の中から、自分なりの気づきを文章化していくうちに培った筆者流の庭園観賞の仕方をまとめたのが本書なのである。
従来の庭園に関する書籍は、飛鳥時代、奈良時代、戦国時代は想像を交えて日本庭園論を展開せざるを得なかった。しかし、最近になると飛鳥京跡苑池、平城宮東院庭園、鳥羽離宮、一乗谷朝倉遺跡、信長公居館跡などの発掘調査によってその実態がわかってきた。これら発掘資料などの知見を参考にしながら、日本独自の庭園が育まれたプロセスと美学的見地で庭園に求められる価値を考え、学際的に新しい日本庭園像を描きたいと思った。
日本庭園は美しい自然を写すことから始まるが、外来思想(宗教)を受け入れ、時代とともに造形の目的が変化してきた。日本庭園を論ずる場合、系統の異なる庭園を比較し評価するために、各系譜の生成発展図を作り、その系譜を5つの区分として提案した。
とくに枯山水庭園は、龍安寺タイプの静寂な庭と粉河寺や阿波国分寺の庭のような、迫力があるダイナミックな庭を別系譜とした。また小堀遠州を祖とする幾何学模様の庭を提案したが、遠近法、大刈込、借景などの手法がどこからの影響で発生したのか詳細は不明であるが新たな系譜を設けた。
なお、お断りしておきたいのは、たとえば、ある庭園を枯山水庭園の系譜として取り上げた場合でも、池泉庭園部があり、池中に鶴島と亀島があることが多々ある。当書では注目すべき項目が、枯山水部に焦点を当てた場合に、枯山水庭園の系譜とした。
庭園の目的は、自然の風景や宗教的思想を事細かに説明するためにあるのではない。作者が心に響いた内容を抽象化した造形である。今回試案として、象徴庭園から抽象庭園への各段階の定義を定めた。
日本庭園が人類の普遍的価値基準で評価されるには、抽象の度合いが関係すると考え、その項目と基準を提案した。ただし、庭園の評価は絶対的な価値基準で評価することに「そぐわない」要素を持っていることも確かである。ここでは一つの評価基準であるが、言葉のみで評価するのではなく、具体的な庭園の事例を写真で提示した。
●第一部 日本庭園100選
◇第1章 古典庭園 (約81庭)
100庭は、庭園の各系譜および、造園年代を網羅して選択した。
しかし、本書の大きな特徴として、庭園は最終的には造形の斬新さを主に評価基準とした。日本古来の禅思想や、侘び寂びよりも、現代の若い世代や海外の人々が共感できる造形性を重視した。
当書の掲載方針は庭園の沿革を最小限にとどめ、作者がテーマとして意図した造形が表現された写真を選択し、キャプションでも、その意図を明確にした。
なお、各庭園の思想的背景は各庭園での記載は省略して、第二部でまとめて記載する。
◇第2章 近現代庭園(約19庭)
明治・大正・昭和時代の代表的作家8人の代表作を選択した。
●第二部 日本庭園の世界観
◇第1章 宗教思想とそのシンボル
まずは庭園が影響を受けた宗教の教理を明らかにし、それを象徴する造形や技法について記載する。各宗派の教理に基づいたシンボルに適合する庭園の要素はできるだけ多く例示した。たとえば洲浜・荒磯・遣水・鶴島・亀島・九山八海・三尊石・龍門瀑・五智如来など。
ここであげる宗教は、神道、道教、仏教(真言宗・天台宗・臨済宗・浄土の庭・浄土真宗・日蓮宗)である。従来は臨済宗の庭園を中心として、日本庭園が語られてきたが、当書では可能な限り多くの宗派の庭を掲載した。
◇第2章 庭園世界を象る技法
日本庭園を考察するうえで、筆者が欠いてはならないと考える次の3点に着目して、記した。
・地割の重要性
当書では、庭園の多様性を理解するために「地割」の概念が重要と考え、地理的および歴史的背景と庭園のテーマの変遷を記載した。
・錯覚の活用
狭い土地に庭園を作ることになると、当然工夫が必要である。その一つの手法が錯覚である。各種錯覚の効用について事例を示す。たとえば雪舟の作った常栄寺や龍安寺は遠近法構成である。
・借景の庭
狭い土地に作った庭園は、何らかの意味で自然が背景に入ってくる。しかし、単に庭園の背後に自然の山並みが見えるだけでは「借景庭園」としては成立しない。借景庭園が意味を成すためには、いかなる条件が必要かを考察した。
日本庭園の発展に向けて
私の本格的な庭園行脚は20年あまりになるが、ランダムではあるが、飛鳥、奈良時代から始まり、中世、戦国、江戸時代、そして近現代を網羅し、本書では日本庭園を全般的に俯瞰できたものと自負している。
飛鳥、奈良時代の庭園で理想郷ともいえる庭に出合ったと思えば、近現代では洗練された芸術の庭にも、これ見よがしのトリッキーな庭にも出会った。作庭時期の古い新しいは、庭園の価値には関係ないことが実感された。ときの天才達は日本庭園の辿ってきた歴史に想いを馳せつつも、先人の手法からできるだけ離れて、作者自身の手法を編み出し、独創的な庭園を生み出しているからである。
一方、日本庭園は樹木や植栽を伴う石組の空間配置芸術である。よって樹木が大きくなり石組が鑑賞できなくなったり、傾斜地の石組や護岸石組が、災害にあったり経年変化することが多く、時代を超えて本来の姿を保つことの困難さや、関係の方々の言葉に尽くせぬ努力を知った。よって作者の意図を正しく読み取るためには、日本庭園の体系的な知識と技量についての理解が必要だと思うようになった。その研鑽によって、自らが埋もれた庭を発見した喜びは望外のものである。
本書では主に、宗教と庭についての角度から日本庭園を考えてみたが、これは私流の切り口である。これにとらわれることなく、読者のみなさまの本物の庭を見るきっかけとなったり、私の画像が独自の鑑賞の眼が養われる一助となれば、嬉しいことである。
そして日本独特の芸術分野としての「日本庭園」を評価し、発信して欲しいと念願いたします。日本庭園の発展はとりもなおさず、人類の普遍的価値の発展につながると信じるからです。
私は、昭和36年に地元の大学の工学部に入学し、芸術や、美術などについては全く縁のない生活をしていました。就職したのも化学メーカーで、相変わらず芸術には縁がないのですが、幸運なことに西宮市に住むことになったので、休日には京都や奈良にぶらり旅を楽しむことになりました。
ところが昭和44年、松本の生家の庭を重森三玲先生と齋藤忠一先生に修復していただいたのがご縁で、導かれるように庭園について興味を持つようになりました。当時、重森先生の『日本庭園史大系』が社会思想社から出版されますと、2か月に一冊の本が届くたびに、訳もわからずに読み耽りました。特に鎌倉時代や室町時代の巻の冒頭にある庭園の時代と造形内容については、なるほどと膝を打って高揚していたのが思い出されます。
その後、20年ほど前に「京都林泉協会」という庭園鑑賞のグループに入れてもらいました。重森三玲先生が昭和7年に同志を募って作られた伝統と革新の同好会です。毎月の例会では、近畿地方を中心として、実際の庭園を鑑賞しながら齋藤忠一先生、野村勘治先生の名講義を聞くことになりました。ありがたいことに、この会に入会してからは、庭園の見方が俄然深くなったのではと実感したものです。
この有意義なチャンスを活かすために、見聞きした内容をホームページに書き込みました。つまり各地の庭園を訪ね、吸収したり、感じとったエッセンスを文字と画像に落とし込む作業を20年間行ってきました。日本庭園は宗教と無縁でないことを知り、庭園のテーマと造形を宗教的な角度から見ることを提案しています。また、庭園を撮影するには、まず作者の意図を理解したいと考えています。
その成果は『重森三玲 庭園の全貌』として2009年9月に上梓することができました。そして、重森先生の研究は自分なりに「永遠のモダン」の解明に至り、2018年10月にその点を加筆した上記著書の増刷がかないました。現在は、重森先生の作った襖絵の撮影と仮想復元にも取り組んでいます。
今回『全貌 日本庭園』をやはり学芸出版社から上梓できたのは、故京極迪宏前社長に大局的な視点での庭園解釈のアドバイスをいただいたからです。
さらに今回の出版に関しても、齋藤忠一先生、野村勘治先生の強力なご支援をいただけたからです。たとえば今回の著書の「第二部 日本庭園の世界観」の「神仙蓬莱」「禅宗の教理」に関しては、齋藤先生の高著『図解 日本の庭』(東京堂出版)ならびに日頃のご指導がなくては書くことができませんでした。
一方、野村勘治先生からは、浄土真宗を中心とした宗教の教理と造形の関係をご指導いただきました。加えて、儒教と日本庭園、謡曲と日本庭園についてもご教授いただきましたが、本書の原稿に間に合わなかったことは申し訳なく思っています。
また、林泉協会の会員各氏との何気ない会話におけるヒントやアドバイス、励ましには感謝しきれません。なお、林泉協会の現在の例会は隔月ごとに行われていますが、令和2年1月に開かれた例会は実に1029回目になります。
○京都林泉協会のホームページ
最後になりましたが、本書の制作にあたり、お庭の掲載を快くご許可をくださった皆様に深くお礼申し上げます。
また、博物館、美術館、寺社ならびに個人所蔵の貴重な資料のデータを提供いただき感謝いたします。大阪大学の圀府寺司先生には美学的な表現のご指導をいただきました。
学芸出版社の越智和子さんには編集校正のみならず、著書全体の再構成を一緒になってしていただきました。改めて謝意を表します。
2020年9月
中田勝康
開催が決まり次第、お知らせします。