現代、それでも祈る【梅雨】|連載「京都の現代歳時記考 -木屋町の花屋のささやかな異議申し立て-」

先人たちが日本の気候から見つけてくれた、
美しいもの・儚いもの・恐いもの、その中で生きていく知恵と工夫。
そんな季節特有の本来の暮らしぶりと、現代の暮らしぶりを結び、歳時記を再解釈する。

松尾芭蕉は言った。「季節の一つも見つけたらんは、後世のよき賜物」
私たちは、100年後の人々に、どんな贈り物をできるだろう。

なんかわくわくして、めぐる季節を感じて、余裕があれば祝えばいい。
ちょっと変わった視点から、京都・木屋町に店を構える花屋の主人が現代の暮らしにすこしだけ反抗します。

執筆者プロフィール

西村良子

京都木屋町の花屋「西村花店」店主、華道家。1988年京都府生まれ。2010年関西大学卒業。先斗町まちづくり協議会事務局兼まちづくりアドバイザー。2017年に花店を開店し、現代の日本での花と四季の楽しみ方を発信し続けている。木屋町の多くの飲食店や小路は西村さんの生け込みで彩られている。

閉店前、急な雨に慌てて外に出していた紫陽花の鉢を運んでいると、帰ろうと折り畳み傘を出していた若いスタッフに笑われた。「今日夜から雨って言ってましたよ」。「雨雲レーダー」とのこと。鉢の置かれていたところが、大粒の雨に打たれてみるみる黒くなっていく。6月、梅雨入りか。

梅雨と聞けば、枕詞のようにため息が出るのが現代人である。とくに京都の湿度ときたら大変なもので、洗濯物は一生乾かない。狭い歩道は傘をさした人でごった返し、車道を見ればびしょ濡れになってワイパーだけが忙しそうな、赤いランプのついた車が並んでいる。心躍る要素はひとつもない。

雨雲レーダー、〇〇マネジメントに〇〇管理アプリ。私達は日常のあらゆることを把握し思い通りにすることを望む。梅雨に苛立つのは、それがどうにもならないからだろう。スマホを使って詳細な雲の動きを知ることができたとしても、雨を止めることはできない。

子どもの頃はスマホもなく、献立表をカレンダー代わりに曜日を知り、半分くらいの確立でしか当たらない天気予報とともに何の不自由もなく暮らしていたはずなのに。知らないうちに、なんでもわかっていて何でも思い通りが当たり前になっていた。

そのことに気がついたのは、ちっとも思い通りにならない小さな同居人が、私の人生に現れたから。

6月のある日に産まれた小さな男の子に緑と名付けた。一緒に暮らし始めて、3年が経った。今思えば赤ちゃんの頃はまだ私に主導権があった。もちろん泣いてばかりだったけれど、泣いている理由はミルクかオムツか眠いかで、抱っこ紐に入れて背負って仕事を始めれば、すぐにすやすやと眠ってくれた。

3歳。パジャマに着替えなさいと言うと、けたけた笑いながら裸で布団の上を転がり回り、電気を消すと怒られる。洗濯して干している服を見つけては、それが着たかったのにと号泣。まだ帰りたくないと両手足を全力でばたつかせながら泣き叫ぶ我が子をかついで、誰にも目が合わないように四条河原町の交差点を渡ったときのことは忘れられない。自分の人生にこんなことが起こるなんて思ってもみなかった。

3歳になってすぐの週末。遊びに行った帰りにバスを待っていると、険しい顔をしながら両手を伸ばして「だっこ」と言ってきた。眠たいのだろうと抱っこ紐を準備しようとすると「ちゃう!ねむたくない!」。やれやれとそのまま持ち上げると、すぐに頭を肩の上にのせ、しばらくすると寝息が聞こえてきた。「やっぱり寝るんやんか」。

予定日より1か月も早く産まれてしまった緑は、ずっと小さかった。離乳食の頃からちょっとでも栄養のあるものを食べてほしいとあれこれ準備をするのだけれど、食べてくれない。言葉が通じないので本当に祈るような思いだった。

汗をかいたおでこが肩にくっついた。温かく、重たい。大きくなったな。6月の水気を帯びた風が、緑の柔らかい髪の毛を揺らした。「重いから歩いてよ」なんて言うけれど、「だっこ」と手を伸ばしてくれるのもいつまでだろう。目を閉じると、ため息が涙に変わった。

あらゆる行事が忘れられつつある現代でも、お宮参りや七五三など、子どもに関する行事は疑いもなく行われている。どうしてか、昔は興味もなかったけれど、実際に子どもと暮らしてみると理由はすぐにわかった。どうしようもないからだ。子どもの安全や健康をどうにか守ろうと足掻くのに、してやれることはとても少ない。できないままに、どんどん大きくなっていく。ただ毎日、祈ることしかできない。

無病息災を祈念して6月30日に食べられる水無月。京都発祥である。

テクノロジーは、なんでも人間の思い通りにしようとすることで発展した。文化や習慣は、思い通りにならないことを認め祈り、恐れたり感謝したりすることで生まれた。現代を生きる私達の生活からは、祈りも恐れも感謝も、みんな必要のないものになりつつある。本当に?

もう一つ子どもが教えてくれたことがある。小さい子どもはいつも忙しそうだ。

夢中になって何かで遊んでいるなと思ったら、ふとしたことで興味が移り走って行ってしまう。家に帰るまでの、毎日歩いているはずのわずかな道のりで何かを見つけてはその度に指さしてしゃがみこむ。気に入らないことがあれば全力で泣いて、楽しいと思えばいつまでもそれを繰り返す。見ていて本当に忙しいなと思う。

だけど彼らは、絶対に時間に忙殺されたりしない。大人の忙しさと何が違うのだろうと考えてみると、子どもは時間を自分の思い通りにしようとしないみたいだ。時間という概念がないのかもしれない。

私達は、何時までにあれをやろうこれをやろうと計画し、時計を使って「時間」を思い通りにしようとする。大抵は予定通り進まずに苛立ち、順調に進めば次の予定に追われる。結局、思い通りになんてできていないのだ。支配しているつもりが逆に追い詰められている。

自然や季節にも同じことが言える。梅雨を鬱陶しく思う気持ちはたぶん、水を支配しているという思い上がりから生まれるものだ。室内にいながら蛇口をひねれば、いつでも清潔な水が思い通りの量だけ出てくる。この水が、空から落ちてくる雨粒やごうごうと川を流れる水と同じものであると、私達はいつ忘れてしまったのだろう。

片方の面に恐れを、もう片方の面に感謝を併せ持った特殊なコインこそ、日本人が持ち続けてきた「祈り」の感覚である。そして気候が移ろう中で、共に暮らす人々と共に、コインを表に向けたり裏に向けたりすることが「季節行事」であり、もっというと「季節」そのものだった。

「現代の生活からは季節感がなくなった」。それは天気も気候も時の流れも、人間の都合の良いようにコントロールしようとして支配できているのだと勘違いをした結果である。

梅雨が明ければ7月だ。京都はまだ雨が降りやまないうちから、少しずつ祇園祭の色になって行く。幼い緑はまだ恐れも感謝も知らない。軒先から滴る雨を不思議そうに眺め、触れる場所に水がたまっていればすくったり流したり、いつまでも遊んでいる。

スマホも冷房も、きっともう私たちの暮らしから消えることはないだろう。もちろん時計も水道も。しかしそれらと、向き合う心は変えられる。私たちの暮らしには、それでも祈らなければならないことが、きっとまだたくさんある。その想いこそが、この国の未来の季節を造っていく。

季節の花

紫陽花(アジサイ科)

日本原産のお花だけあって、暑さにも寒さにもとても強く、放っておけば毎年きれいな花が咲きます(花に見える部分は実際にはガクですが)。雨に強く濡れた姿も美しく花が咲く梅雨の時期にふさわしい、最高に季節感のあるお花。花の色は雨や土の性質で変わってしまうのですが、それもまた紫陽花の楽しみのひとつです。

小噺

本連載の執筆者が構える「西村花店」であるが、実はこの花屋何やら企んでいるらしい。
小噺として、今後の「西村花店」の行く末も紹介。
毎話の再解釈が花屋の空間にどう昇華されていくのか、そんな様子もお楽しみください。

 

単語禄
梅雨

日々、どうにかこうにか上手いことやりくりして自分の機嫌も取ってコントロールしているつもりが、突然やってくるどうにもならない大雨。半年の疲れがたまってきたところにやってくる梅雨を快く受け入れられる人はそうそういないのではないでしょうか。
昔はきっと豊作祈願かなっての雨だった。稲妻も、稲の妻と書いて雷です。ただ作物が育って嬉しい反面、いきすぎると災害になる。そんな境界を祈念したり、追い払ったり、時には感謝したり…、どんな気持ちの方向であってもこれらすべてを祭として、季節行事としていたのです。
行事は楽しいもの、楽しくないと参加できない、そんな風潮が現代にはありますが、上向き以外の感情に注目してみると、また新たな季節行事の楽しみ方につながるかもしれません。

夏越の祓(なごしのはらえ)

1年の折り返しとなる6月30日に、この半年間の穢れを、この時期神社に設けられる大きな茅の輪をくぐることで祓います。人の形を模した紙を身代わりとして穢れを託し、神社で焚き上げされたり、おさめたり、川に流したりすることで厄を祓ったりもします。これは神社や地域によって異なるそうです。

水無月(みなづき)

京都において、夏越の祓には欠かせない和菓子です。白いういろうの上に炊いた小豆をのせ三角形に切り取られたような形をしています。ういろうは氷を模しており暑気払いの意味が、小豆には邪気払いの意味が込められています。


企画・編集・小噺イラスト:安井葉日花(学芸出版社)
題字:沖村明日花(学芸出版社)


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