創造都市・横浜の戦略
内容紹介
芸術や文化の創造性を活かし、地域の個性が際立つオンリーワンの都市を目ざす創造都市。その先頭を走っているのが横浜市の文化芸術創造都市政策だ。その政策展開の現場にいた著者が、その背景、基本的な視点、内容、実施手法、成果、課題などを紹介・考察する。これからの自治体の地域・都市再生の方向を指し示す待望の書
体 裁 A5・176頁・定価 本体1900円+税
ISBN 978-4-7615-1248-4
発行日 2008/08/30
装 丁 穂積由紀夫(gritter)
はじめに
クリエイティブシティ・ヨコハマ・マップ
横浜市関内地区略図
第1章 都市横浜の誕生と創造的遺伝子の懐胎
1 開港と横浜のはじまり
2 経済の高度成長と都市問題の発生
3 企画調整局と市長のブレーン
4 都市デザインと都市景観
第2章 文化事業から文化政策へ
1 萌芽期の文化事業
2 オールターナティブ・スペースの活用
3 文化政策の誕生
4 STスポット横浜の成功とその運営手法
5 民間活力の導入をめざす指定管理者制度のスタート
第3章 創造都市政策が生まれた背景
1 横浜の新たな都心「みなとみらい21」の開発
2 中田市長誕生
3 市政改革
4 中田市政の成果
第4章 文化芸術都市創造政策の誕生
1 文化芸術を柱とした都心再生策の検討
2 文化芸術と観光振興による都心部活性化検討委員会提言
3 文化芸術都市創造事業本部の誕生
第5章 創造界隈形成の起爆剤 BankART 1929
1 横浜市の歴史的建築物保存と市民活動共同オフィス
2 歴史的建築物文化芸術活用実験事業=BankART 1929
3 BankART 1929の展開
第6章 創造都市への躍動
1 点から線へ、官から民へ、アートからまちづくりへ
~急速に進むクリエイティブ・クラスター(創造界隈)
2 映像文化都市構想
3 ナショナルアートパーク構想
4 横浜トリエンナーレ
第7章 創造都市政策の検証
1 創造都市政策の特徴
2 創造都市政策の成果
3 国際ネットワークの形成
4 横浜市の創造都市政策の課題
第8章 創造都市論と行政のイノベーション
1 創造階級・創造産業・創造都市
2 創造都市政策が登場した背景
3 文化政策の変容と創造都市政策
4 政策手法の転換
5 行政組織のイノベーション効果
6 創造都市政策の課題
(資料)クリエイティブシティ・ヨコハマの形成過程
独白、おわりにに代えて
索引
横浜市は、2004年全国に先駆けて創造都市をめざした取り組みを開始した。「創造都市」とは、人の創造性に注目し、それにより都市を発展させようという考え方で、20世紀の終わり頃から欧米で注目され始めたものである。
そこでは、芸術・文化などの創造性が、これからの地域の発展にとってもっとも重要な資源であるという認識から、それを担うアーティスト、クリエーターの活動拠点を形成することで、彼らを誘致し、その成果をまちづくりに活かしていこうとしている。
芸術・文化は、最も創造性豊かな領域であるが、規格品の大量生産を前提とした20世紀型社会にあっては社会発展の重要な要素とは考えられてこなかった。少なくとも政府や企業にとっては、芸術・文化は、人々の「心を豊かにする」ためには必要なものであるが、あくまでも経済が許容する範囲で存在が許されるものであった。いわば「社会のアクセサリー」と見なされてきた。
しかし、先進国における産業構造の変化により、芸術・文化の価値が再認識され始めた。産業構造の変化とは「工業社会」から「知識社会」へと社会が転換することである。工業社会において重要な資源は、原材料や工場、鉄道などの輸送手段であったが、知識社会でもっとも重要な資源は「知的財産」、すなわち人間の「創造力」である。知的財産には大きく分けて科学技術分野の特許と、芸術・文化分野の著作権があるが、知識社会においては、知的財産の開発、保護、活用が最も重要となる。
産業構造の変化により、製造業がいち早く衰退したEUの工業都市は、1960年代以降、失業率の上昇や犯罪の増加など都市の荒廃に見舞われた。これらの都市のなかから、芸術・文化の創造性を活かした都市再生に成功した事例が、1980年頃から報告され始めた。「創造都市」というビジョンはこのような中から生まれてきた。
21世紀に入ってわが国でも、創造都市に対する関心が急速に広まりつつある。わが国で最も早く創造都市を提唱したのは、金沢市の金沢経済同友会であるが、地方自治体で最も早く創造都市を提唱し政策として実行したのが横浜市である。
文明が都市を生み、都市が文明を生む。そして文明の骨格を形成するのが文化である。本書では、このような基本認識に立ちながら、芸術・文化の創造性と都市の関係について考察する。そのために、横浜市の「文化芸術都市創造政策=クリエイティブシティ・ヨコハマ」(以下「創造都市政策」と呼ぶ)をとりあげ、それが生まれた背景、基本的な視点、政策内容、実施手法、成果、課題などを紹介、考察し、これからの自治体政策の方向を示したい。
執筆に際しては、次の点を視点とした。
- ①横浜の創造都市政策は、飛鳥田市政時代の国に先駆けた先駆的な自治体政策、田村明がリードしたアーバン・デザインなど歴史と文化を大切にしたまちづくり手法の継承であること
- ②公立文化施設(ハコモノ)を自治体が建設し財団(疑似役所)が管理運営する、といった従来型の文化政策から、歴史的建造物をNPOが運営するという新しい文化政策モデルへの転換がはかられたこと
- ③文化担当部署によりタテワリで進められてきた文化政策が、都市再生を図るための総合政策として再編され、自治体政策のなかで中枢的な役割を担うように変化してきている点について、1970年代の自治体文化行政との関連において考察する
- ④創造都市政策誕生の背景、その特質、政策上の意義、課題などの考察を通して、横浜を位置づけなおす
- ⑤著者が、横浜市職員として創造都市政策の形成にも関わった経験を活かし、具体的な例を織り交ぜて紹介する
なお、本書の読者層としては、地方自治体首長・議員・職員、公立文化施設職員(指定管理者を含む)、研究者、都市政策や文化政策等を学ぶ学生、NPOメンバー、企業のCSR(企業の社会的責任:Corporate Social Responsibility)担当者、そして歴史的建築物や環境の保全、活用に取り組む建築・都市計画関係者等を想定している。これらの方々にとって、本書が少しでも参考になれば本望である。
私は、団塊の世代に遅れること2年、1951年に生まれた。大学時代は学園紛争の残り香がただよう、なんとなく白けたキャンパスで「漫然」と過ごした。卒業後の進路として民間企業への就職は考えなかった。当時は、企業へ就職することは資本主義の先兵となることであり、せめて公務員か教員になるのが「良心的」だといった雰囲気が支配的であったからである。第1章で述べたように、私は当時の飛鳥田市長の横浜市にあこがれて入庁したわけだが、実は、入庁時にそれほど高いモチベーションを持っていたわけではなかった。当時「でもしか先生」という言葉があった。「教員にでもなるか」「教員にしかなれない」という意味で使われていた。その意味で言えば私は「でもしか公務員」として横浜市職員となった。
しかし、文化事業課で文化事業を企画するようになり、俄然エンジンがかかり始めた。仕事が面白くなったのだ。そのころは毎朝職場に行くのが楽しみだった。若かったこともある、上司に恵まれたこともある。今ふり返ると、あの時代の経験が現在の自分のコアを形成したのだと思う。がむしゃらに働いたし、むちゃもした。
「むちゃ」には説明が必要だ。文化の仕事は、アーティスト、プロデューサー、企業、メディア、海外諸機関など市役所外の人たちとの協力関係がうまく構築できるかどうかが仕事の成否を決定する重要な要素である。私は、当時ヒラ職員の分際で市役所の枠を越えてこれらの人たちと直接仕事をした。もちろん、そのような仕事のやり方は行政になじむものではない。上司からは、しょっちゅうしかられた。私は自分を「はみだし公務員」であると規定してきた。
ウォルフレンが言うようにわが国は官僚が仕切っている(『日本権力構造の謎』早川書房、1994年)。しかし、官僚は少数派である。100人の市民に対し、1人の市職員がいるというのが普通の比率である。100人の市民のうち、たった1人が市職員ということは、市職員は地域社会においては少数派であるということを意味する。私は99人の市民の側で仕事をしようと考えた。理不尽なことで上司にしかられても気にしないようにした。1/100の市職員がしかっているのだから、と自分を慰めてきた。もちろん市役所の中で出世しようとは考えていなかった。
私は飛鳥田市長の横浜市で仕事がしたいので横浜市に入ったが、飛鳥田は私の入庁と入れ違いで、市長を辞任した。その後24年間にわたり中央省庁の天下り官僚が市長を務め、飛鳥田時代の横浜市の輝きは失われた。
しかし、2002年に中田宏が市長となり、これまで述べてきたような市政の変革が急ピッチで進んだ。創造都市政策は、そのなかから生まれた。私は、ある意味で中田市政は飛鳥田市政の再来であると考えている。アンチ官僚主義、市民参画、情報公開など両者に共通する部分は多い。もちろん、旧社会党の飛鳥田とニューパブリックマネジメントを推進する中田はイデオロギー面では正反対である。しかし、市民生活の向上が目的の地方行政のなかでイデオロギーは大きな要素ではない。飛鳥田により横浜市役所という畑に植え付けられた「改革の遺伝子」は、24年間の「冬眠」を経て、中田により息を吹き返した、と思いたい。これが筆者の本書執筆の動機である。つまり、「クリエイティブシティ・ヨコハマ」は、飛鳥田が市長に就任した1960年代から始まっていたのだ。
本書の出版については、多くの方々の力添えがなくては実現できなかった。飛鳥田元市長のブレーン、田村明氏、鳴海正泰氏、皆川達也氏には原稿校正でお世話になった。開港150周年・創造都市事業本部をはじめ横浜市の各部署のスタッフのみなさん、BankART 1929の池田修さんには忙しいなか、情報提供、原稿チェックなどの協力をいただいた。創造都市論のわが国におけるパイオニアであり、横浜市にもアドバイスをいただいている佐々木雅幸氏には理論構築の面で貴重なアドバイスをいただき、感謝している。チャールズ・ランドリー氏からは有益な様々なアイデアをいただいた。学芸出版社の前田裕資氏には、本書の構成、表現、など多くの指摘をいただいた。最後に読者の視点から原稿チェックをし、改善点を指摘してくれた妻美樹子に感謝する。
2008年7月17日
野田邦弘