まちへのラブレター
内容紹介
建築とコミュニティデザインの融合を追体験
参加型デザインって、コミュニティって、「つくらない」デザインって何だろう?建築家とコミュニティデザイナーによる、仲むつまじくもシリアスなやりとりから、従来の建築家像やデザインの意味を問い直す。ある駅前整備プロジェクトを通じて、二人のデザインが如何に融合してゆくのか、その過程を追体験する試みでもある。
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まえがき──乾久美子
夏の手紙―参加型デザインの成り立ちが知りたい
一信 ランドスケープデザインについての素朴な問い
二信 生活者に関与しない男子中学生的建築家像
三信 住民参加そのもののデザインで問うのは“誰が?”と“何を?”
四信 コミュニティデザインにおける正義と公正
五信 都市を「転用」する手法/形が美しく、仕組みが美しく、振る舞いが美しいこと
六信 ワークショップにおける形(ゲシュタルト)の提案について
追伸───山崎亮
秋の手紙―生活者と設計者のコミュニケーションについて
七信 システムが開くこと、閉じること
八信 商業と市民活動のせめぎあい
九信 人と自然のせめぎあい
十信 プロセスを図面化することの難しさ
十一信 プロポーザル・コンペ批判!
十二信 問題を解くためのドローイング、プロジェクトを進めるためのシナリオプランニング
追伸───乾久美子
冬の手紙―コミュニティって、何だろう
十三信 市民の意見とは何か
十四信 「賑わい」という言葉への違和感
十五信 コミュニティは意思を持った人の集まり
十六信 建築的思考が「つくらないこと」に役立つのに…
追伸───山崎亮
春の手紙―デザインの必然性はどこに
十七信 「ああならざるを得ない」デザイン
十八信 ラカトン・アンド・ヴァッサルの建築
十九信 「つくること」のなかにあるグラデーション
追伸───乾久美子
あとがき──山崎亮
ひたすらボールを投げ続けた一年──まえがきにかえて 乾久美子
私の前に山崎亮さんが登場したのは数年前のシンポジウムでのこと。つくらないデザインを説く山崎さんの発表を聞きながら「アッ、また口だけの人だ。かたちで責任をもつ必要のない人は何でも言えるからいいよな~」などといつもの調子でとらえてしまい、山崎さんの言おうとしていることを真摯に受け止めようとはしませんでした。どこの業界でもそういうところがあると思いますが、建築設計もなかなかハードで複雑な仕事なので、同業者からの意見は素直に聞くけれど、外部からの意見は「あれは素人だからね」と耳を傾けるのを面倒くさがります。そんな狭量な設計者代表のような私が、二〇一一年二月から宮崎県の延岡市で山崎さんと仕事をご一緒することになってしまいました。
延岡市のプロジェクトはこれまでの多くの駅前再開発がそうだったような区画整理や単体の建築の設計というものではなく、駅を中心とするまち全体の将来像について市民と共に考えていくというもので、もちろん私にとっては初めてのタイプの仕事です。なので依頼を引き受けるにあたり、これまであまり真剣にはふれてこなかったまちづくりや都市再生、市民参加などにかかわる本を改めて読みこみ始めました。建築だけに集中しすぎていた意識を社会問題にシフトしようと努力していたわけですが、そんな折、山崎さんが乾事務所にフラリとやって来て、これまでのstudio-Lの活動や延岡市ですでに始まっている取り組みについて解説してくださる機会がありました。
パソコンを取り出した山崎さんはのっけからボルテージ最大。しかも一対一の状況下でまくしたてられたのだからそれはもうすごい。「ひええっ、この人は確かに口だけだけど、口だけでものすごい量と質のデザインができているではないか!」と驚くと同時に、建築設計の出来不出来にのみ拘泥してきた日々を猛省してしまいました。ただでさえまちづくり系の本をよみ進めながら「建築設計が取り扱っている世界って意外と狭いのかもなあ」と反省し始めていた矢先ですからダブルパンチをくらった感じなのです。そんなわけで、あえなく「建築設計道」から転向せざるをえなくなってしまいました。
ただ転向とはいっても単純に百八十度変わったというわけではありません。「社会問題をデザインで解決する」という言葉が注目されている今日この頃ですが、こと建築に限って言えば「解決」という言葉に飛びつくのは危険です。例えば、戦後の住宅不足の解決のために真摯に取り組みつくりつづけた集合住宅が、時代が変わると手のひらを返したように批判されるという事実を私たちは知っています。解決しなくてはいけない問題のタイムスパンと、建築が存在するタイムスパン。そのふたつをすりあわせるのが建築ではすごく難しく、それゆえ建築のことを深く考えれば考えるほど社会問題との距離をおきたくなるのです。しかし私たちが暮らす現代日本はいまや課題だらけで、どっしり構えているわけにもいきません。したがって時には建築の知恵を「解決」のために柔軟に使っていくべきだろうと考えるようになりました。それが私なりの「転向」というわけです。
本書での議論は参加型デザインを中心に進んでいますが、私の個人的な興味は、もうすこし広範な建築論にありました。建築をデザインする際には何を目的に据えるべきか。どういうタイムスパンで考えるべきか。これまでのハードウェア中心の建築デザインに対して、つくらないデザインという思想がでてきた場合、両方の可能性と限界を見極めながら使い分ける方法がはたしてあるのかなどについて、山崎さんという両方に精通する希有なまなざしの力を借りながら概観しようとしていたのです。そうすることで、劇的に変化しつつある設計環境に戸惑いを覚えている私のような実務者や、建築教育に携わる人々(教員も学生も)に、広く議論のプラットフォームのようなものを提供できないかと考えたのです。延岡のプロジェクトをご一緒することでボーナスのように得た信頼関係に甘えて無知をさらけだしつつ、あらゆるところからボールを投げて山崎さんの考えを引き出そうとしてみた背景には、そうした意図がありました。
というように、実力に見合わない目標を掲げて走ってきたこの一年、私のほうは結構必死だったのですが、山崎さんは違ったんだろうなあ。
二〇一二年八月
とりあえず一区切り ── あとがきにかえて 山崎亮
「往復書簡」という形式は興味深いものだ。じっくり考えながら対話を進めるという意味で「対談」とは違った趣がある。「対談」と「往復書簡」。たまたま同じ時期に建築家との対話が二冊の書籍にまとまった。一冊は藤村龍至さんとの「対談」をまとめた『コミュニケーションのアーキテクチャを設計する』(彰国社)であり、もう一冊が乾久美子さんとの「往復書簡」をまとめた本書である。
「対談」は、相手がしゃべったことを聞き、こちらが思うところを述べ、それについてまた相手が何かをしゃべる。これが細かく入れ替わりながら対話が続く。即興的なやりとりだからこそ面白い方向に話が展開することがあるものの、反射的に出てくる話題は別の場所で話をしたことと似た内容になることが多い。一方、「往復書簡」はまとまった話題が相手から提供され、それをじっくり読み込んでからまとまった返事を書く。こちらのまとまった返事のなかから相手が興味を持つ話題を選び取り、また一定量の返事が届く。本書の場合、それが二日後に届くこともあれば二ヶ月後に届くこともあった。平均すると二週間ごとにやりとりしたことになるだろうか。いずれにしても、対談に比べるとのんびりとしたやりとりである。だからこそ、じっくり話題を選び、考え、返信することができる。相手の話題に合わせて返答を考えるので、問いかけによっては自分ひとりでは到底生み出せなかったような話を書き綴ることができる。最近は、油断するとどこで話をしても「どこかで話したこと」を繰り返してしまいがちなのだが、本書には驚くほど他で語らない話題が登場している。これは往復書簡という形式がなす業だと言えよう。
独自の話題が生まれたもうひとつの理由は、ほかでもない乾さんの存在だろう。振り返れば、乾さんこそが本書における名ファシリテーターであった。他で語ったことのないような話題が飛び出したのは、乾さんの問いかけ方が毎回絶妙だったからである。本書を一読いただければ分かるとおり、結局のところ私は乾さんが提示してくれた適切な話題にその都度なんとか応対してきただけなのである。
いつかまた、往復書簡ができたらいいなと思う。次回は私がファシリテーター役を果たさねばなるまい。今回は「参加のデザイン」について乾さんが問い、私が応じるという往復書簡だった。次回は「建築のデザイン」について私が問い、乾さんがそれに応じるという往復書簡にしたい。また、本書で語ろうと思って語り切れなかったこともある。「○○については後ほど」と書いておきながら、結局語らなかったトピックも多い。それらもまた、次回の往復書簡にて語りたい。
とはいえ、続編を読みたいというニーズがなければ、乾さんと個人的にメールでやりとりするにとどめるべきだろう。コミュニティデザイナーたるもの、読者の意見を聞きながら続編を構想すべきである。本書読了後、続きを読んでみたいと思う方がいれば、ツイッター、フェイスブック、ブログなどで「続編が読みたい!」「こんなテーマで話し合って欲しい!」とつぶやいていただきたい。その数が多ければ出版社も続編の刊行に踏み切るはずだ。続編のテーマもその中から見つけたい。
だから、この「あとがき」で本書のまとめを書くつもりはない。感動的な言葉で締めくくるつもりもない。ページ数に限りがあるからいったんこのあたりで区切りをつけるものの、乾さんとのやりとりはこの先も続く。延岡でプロジェクトをご一緒させてもらっている以上、まだまだ語り合いたいことがたくさんある。いつの日か、そのやりとりの一部をまたみなさんと共有できることを願っている。
乾さんとの出会いをつくってくれた延岡駅周辺整備プロジェクトの関係各位と、往復書簡という楽しいやりとりを提案してくれた学芸出版社の井口夏実さんに感謝したい。そして、さまざまな話題で「参加のデザイン」に関する重要なキーワードを引き出してくれた乾久美子さんに謝意を表したい。
今回はこのあたりで一区切りつけることにしよう。今日はこれから福山市でワークショップ。明日は大分市に移動して住民のヒアリングである。
二〇一二年七月二十三日
乾久美子さん
山崎亮さん
社会が大きく変わり続けていることに気づいてはいるが、何がどう変わっていて僕たちにどう影響を与えているのか、いまいちその実感がない。焦っているのか諦めているのか、ただ過ぎていく時間に身をまかせていることに不安を感じている。そんな僕と友人たちに向けて。
コミュニティデザイナーの山崎亮さんと建築家の乾久美子さんによる往復書簡は、参加型デザインとはなんだろう、という素朴な疑問から始まった。そのやりとりは新しい価値観とは、新しい公共とはなんだろうかという所まで射程を広げていく。本書を読み進めるに連れ、僕たちが暮らすこの社会ではつくる人・つくらない人という二項対立が簡単に描けなくなっているのがよく分かる。色々な方面からのアプローチが必要で、それは必ずしも既存の職業や肩書きで定められているものではないだろう。
僕は学部時代に建築設計の基礎を学び、まちづくり研究室を経て、大学院では働くひと・もの・ことを対象としたワークプレイスを専門とする研究室に所属している。そして今は交換留学生として、フィンランドでデザイン・ビジネスマネジメントを学んでいるところだ。まるで脈絡がないようだが、モノからサービスへ移行している社会状況に建築・デザインからできることを模索しているつもりだ。見える領域と見えない領域を往来しながら新しい価値をどうやってつくることが出来るのか、考えていたらここにいた。
情報に溢れ、こうすべきだ、という明確な指標を疑わなければならなくなってしまった今、未来にいる僕たちを想像し、今起きていることを振り返って考えることが大切なのだと本書から読み取ることが出来る。そうした時に、つくる・つくらないだけではない、たくさんのバリエーションが存在してることに気がつかせてくれる。多様な関わり方やそうした関わり方を許容する社会をどうつくっていくことが出来るだろうか。本書はコミュニティデザインのあり方を問うだけでなく、僕たちがどう生きていくのかを考える時にも一助となるだろう。
(京都工芸繊維大学大学院/浅野 翔)
担当編集者より
あるとき、山崎さんに会うと、延岡のコンペの話を興奮気味にされた。
「乾さんが、パースや図面を使わず文章だけのプレゼンで監修役を射止めたんだよ!」と。
私は何て真面目な建築家なんだろうと驚いた。建築家が、初めて臨むまちづくりに際し、敢えて絵を描かないって、すごく正直で格好いい。
そんな方ならきっと、プロジェクトが進む間も、いろいろなことを順序立てて真面目に考え続けるんだろう・・・ぜひその過程を知りたいな!と思ったのが往復書簡をお願いするきっかけだった。お二人とも、楽しみながらも真剣に、やりとりを続けてくださり濃密な一冊になっている。
特に、これからどんな道を歩もうかと、将来を探っている学生さん、若い人たちのことが、お二人の頭にはいつもあったと思う。
(井口)