「農」と「食」のフロンティア

関 満博 著

内容紹介

過疎化に苦しむ辺境の農山村で、今、燎原の火のように自立と産業化への動きが広がっている。農産物の直売所、加工所、レストラン。そこでは年配の女性たちが、その地に暮らすことの価値を見い出し、輝いている。自立と産業化は高齢化に向かう私たちが挑戦すべき未来ではないか。新たなうねりが今、辺境の地から始まっている

体 裁 四六・240頁・定価 本体2000円+税
ISBN 978-4-7615-2500-2
発行日 2011/01/01
装 丁 KOTO DESIGN Inc.


目次著者紹介はじめにおわりにセミナー
はじめに

第1章 中山間地域への招待

1 「村」が三つに分解した
2 「自立」に向かう村 岡山県新庄村
3 「中山間地域」とは何か
4 「農産物直売所」「農産物加工場」「農村レストラン」 三点セットの展開
5 「集落営農」の推進

第2章 農産物直売所は地域との「出会いの場」

1 「農産物直売所」とは何か
2 誰もがここに来て「笑顔」になる場 島根県邑南町[旧石見町]/農産物直売所「香楽市」
3 女性たちの直売所と加工場 岩手県二戸市[旧浄法寺町]/進化し続ける「キッチンガーデン」
4 旧村の思いを込めた直売所 高知県四万十町[旧十和村]/女性たちの活動母体「おかみさん市」
5 日本最大級の農産物直売所 長野県伊那市/出入り自由の「グリーンファーム」
6 「農産物直売所」のゆくえ

第3章 地域活性化を願う農村レストランの展開

1 「農村レストラン」とは何か
2 栃木県の「農村レストラン」の草分け 栃木県佐野市[旧葛生町]/そば街道の起点「仙波そば」
3 「過疎」という言葉が生まれた町 島根県益田市[旧匹見町]/高齢女性たちの「萩の会」
4 四万十川流域で「仕事」と「食事の場」づくり 高知県四万十市[旧西土佐村]/清流を楽しむ「しゃえんじり」
5 三点セットを展開する開拓集落 栃木県那須塩原市[旧塩原町]/法人化に向かう「アグリパル塩原会」
6 「農村レストラン」のゆくえ

第4章 中山間地域の女性起業と小さな加工

1 「小さな加工」の意味するもの
2 「小さな加工」から、体験、宿泊まで 岩手県久慈市[旧山形村]/農産加工グループ「成谷自然食の会」
3 女性たちが神戸で評価されるパンを目指す 島根県津和野町[旧日原町]/田園の中の「はたのパン屋さん」
4 女性起業と農作物の受託加工 福島県会津若松市[旧北会津村]/次に向かう「企業組合ぴかりん村」
5 どぶろく特区と農家食堂、民泊 高知県三原村/「濁酒特区」の展開
6 「小さな加工」のゆくえ

第5章 集落営農が中山間地域を変える

1 「集落営農」とは何か
2 日本初の集落営農の農事組合法人化 島根県津和野町/農事組合法人「おくがの村」
3 「農」と「環境」の田園都市の新たな取り組み 北海道江別市/株式会社「輝楽里」
4 中山間地域等直接支払制度で直売所を展開 岩手県奥州市[旧江刺市]/「伊手地区」全体の取り組み
5 「ぐるみ型」集落営農の展開 長野県駒ヶ根市/農事組合法人「北の原」
6 「集落営農」と進化の方向

第6章 中山間地域の「自立」と「豊かさ」

1 中山間地域へ「希望」と「勇気」を
2 農村レストランと攻めの産直 岩手県葛巻町/「江刈川集落」の取り組み
3 戦国時代から続く集落の仕事 島根県東出雲町/原風景の中の「畑ほし柿生産組合」
4 集落再生に向けたこだわり豆腐と、次の一手 島根県益田市/若者たちも集う「真砂地区」
5 無農薬栽培、露地飼いの養鶏で「楽園」を形成 高知県四万十市/三代目の若者が継ぐ「一圓農場」
6 「庭先集荷」まで行う地方青果卸市場 高知県香南市[旧赤岡町]/株式会社「赤岡青果市場」
7 地域に対する「愛情」の深さ

第7章 中山間地域の「未来」

1 中山間地域と限界集落
2 中山間地域の新たな取り組み 島根県と高知県
3 中山間地域の新たな「価値」の創造


おわりに

関 満博(せき みつひろ)

1948年富山県小矢部市生まれ。成城大学経済学部、同大学院博士課程単位取得。東京都商工指導所、東京情報大学、専修大学を経て、1998年一橋大学商学部教授、2000年より一橋大学大学院商学研究科教授。博士(経済学)。専攻は地域産業論。

日本の「地域産業」をめぐる状況は、この20年ほどの間に劇的に変化している。1990年の頃までの日本の地域産業は、繊維、電機、自動車といった、20世紀後半の日本産業をリードした産業群との関連で議論されることが多かった。地域のモノづくり産業の集積をどのように進めていくのか、ハイテク産業をどのように発展させていくのか、あるいは、周辺の途上国との競合に悩み始めた日用品の地場産業地域、また、重厚長大型の鉄鋼、造船等の企業城下町をどうしていくのかなどが焦点とされていた。

戦後50年、モノづくり産業、製造業で繁栄した日本は、新たな時代の到来を感じながらも、やはりそれまでの繁栄の基礎であったモノづくり産業、製造業の再編で次の時代を考えようとしてきたのであった。
だが、1990年代初め以来の20年にも及ぶ試行錯誤にもかかわらず、事態は好ましい方向に進んでいるようにはみえない。世界からは「失われた20年」ともいわれ始めている。終戦のわずか20年後の60年代末に「世界第2位」の経済大国に躍り上がったが、2010年には、およそ40年も続いたその位置を隣国の中国に明け渡すことになった。まさに時代が大きく変わってきたのであろう。むしろ、意外な経済的繁栄を獲得した日本は、現在、20世紀型の発展モデルとは異なった枠組みの中で、新たな「可能性」を模索していかなければならない。

その場合、私たちの前提は、自然資源に乏しく狭い国土であるにも関わらず経済的に豊かになったこと、そして、その後、1気に成熟し、高齢化、人口減少等に直面しているという点であろう。また、わずか60年ほどの繁栄だが、その発展の激動の中で各所に歪みが生じているという点にも注目しなければならない。

その場合、元気な高齢者の増加、社会的使命感を抱けなくなった若者の登場、そして、人間関係の希薄化、少子化などは、経済的に発展したはずのこれからの日本を考えていく際の基本的な要素となろう。また、地域の視点からすると、大都市と地方の格差、中山間地域の限界集落の発生、商店街の空洞化、ニュータウンなどの住宅団地の高齢化などが指摘されるであろう。日本は戦後60年の経済発展の1つの帰結として、世界が経験したことのない新たな課題に向かうことを余儀なくされているのである。

他方、日本が繁栄の時代を通りすぎ、縮小社会に突入しているのとは対照的に、隣国の中国をはじめ東アジアの各国地域は未曽有の発展過程に入っている。少し前まではそれら諸国の低賃金を目指して日本企業の進出が相次いだものだが、21世紀に入ってからは明らかに発展する周辺諸国の市場を目指した進出が目立ち始めている。それは日本企業ばかりでなく、世界の企業の注目するものとなっている。明らかに、東アジアの重心は日本から中国を中心としたものに移りつつある。

以上のような新たな枠組みの中で、日本の地域産業問題の主要なテーマは、少なくともアジア規模になってきた産業展開の新たな枠組みの中でのあり方に加え、成熟し豊かになったはずの地域を丁寧に見直し、そこに暮らす人びとが「希望」を抱き、輝いていける環境をどのように作り上げていくかというものになっている。

このようなことを考えながら、2000年の頃から全国の中山間地域を巡り歩いてきた。私自身は70年代の初めの頃から全国の地域産業の「現場」を歩いてきたのだが、それは、2000年の頃まではモノづくり産業、製造業が中心であり、全国の代表的な工業集積地、地場産業地域、企業城下町など都市部に限られていた。時折訪れる農山村地域も、都会からの進出企業への訪問が主たる目的であった。そして、特に90年代末の頃には、いずれの工業集積地域も疲弊していることに胸が痛んだ。モノづくりの「現場」の人びとは疲労感を深く漂わせていたのであった。

他方、時折通りすがる山深い中山間地域の「農産物直売所」では、年配の女性たちが輝いていることを不思議に思っていた。そして、2000年の夏、日本のチベットとされていた岩手県北上山中の川井村(現宮古市)で初めて「農産物加工場」といわれるものを訪れる機会があった。それは衝撃であった。1見、普通の食品加工工場に見えたその中で、年配の女性たちが活き活きと輝いていたのであった。疲弊しているはずの中山間地域の片隅で、何かが起っていることを知る。以来10年、中山間地域を訪ね歩く日々を重ねていくことになる。

その後、中山間地域の「農」と「食」の周辺に惹きつけられ、各地で多くの農産物直売所、農産物加工場、農村レストランにめぐり会い、また、条件不利の地域で取り組まれている集落営農、農業法人化の取り組みなどに出会い、地域産業問題に従事してきたはずの自分の視野の乏しさを痛感させられることになる。

そして、2000年代に入り、効率性を求めた「平成の大合併」が推進されていく。2000年の頃にはその数約3230といわれた市町村が1気に減少し、2010年には1700ほどになっていった。特に、「村」の減少は著しく、この間、600ほどの村が180ほどに減少したのであった。その結果、新たな合併市の中には市域が6倍になったケースも報告されている。1定のまとまりのあった市街地に広大な中山間地域が付け加わっていった。町村の役場は縮小され、そこに暮らす人びとに辺境性を深く痛感させているのである。

だが、それにも関わらず、そこで人びとは働き、知恵を絞って自然の中で暮らしている。多くの中山間地域では30年ほど前に比べ人口は2分の1、3分の1に減少し、高齢化率は40~50%にも達しているのだが、残された人びとは地域の資源、可能性を探り、必死に新たな取り組みを重ねていた。繁栄と成熟の1つの極みがそこに拡がっているようにみえた。特に、そこでは地域を丁寧に見つめ、そして、そこに暮らすことに新たな価値を見出し、「自立」と「産業化」が強く意識されていたことに深い感銘を覚えた。それは、激動の60年の繁栄の後の私たちの向かうべき姿のように思えた。

中山間地域の「自立」と「産業化」、それは成熟化し、高齢化に向かう私たちの挑戦すべき「未来」ではないかと思う。激動の60年に踏み台とされてきた中山間地域、そして、そこに残された人びとは、逞しく新たな生き方を求めて「未来」に向かっているのである。それは新たな「価値」の創造といえるかもしれない。

そのようなことを意識し、本書は全国の中山間地域の片隅で取り組まれているいくつかのケースに注目し、世界に例のない成熟社会、高齢社会に踏み込みつつある私たちの「未来」を、「地域産業」という視点から語っていくことにしたい。中山間地域の人びとの取り組みから、私たちは新たな「価値」に目覚めていくことになろう。私たちは世界の誰も経験したことのない、むしろ挑戦すべき「可能性」に満ちた新たな時代に生きているのである。

なお、本書の各所に登場する中山間地域の具体的なケースは、私がこの2~3年の間に「現場」を訪れた300ほどのケースの中から、特に深く感銘を受けたものを採り上げている。いずれのケースの場合も、条件不利の中にありながら、そこに集う人びとは「輝き」、私たちの「未来」を語ってくれた。それは新たな「価値」の創造と思えるものばかりであった。ここから日本の「地域」「地域産業」は大きく変わっていくのであろう。

新たな「うねり」は「辺境」から始まるとされている。まさに中山間地域に反発のエネルギーが蓄積され、それがいま大きく解き放たれようとしている。その同時代に生きる者として、その「感動」を共有し、広くその意味を伝えていかなくてはならない。私たちは、まことに興味深い時代に生きているのである。

2000年の夏の頃から、中山間地域のことばかりを考えるようになっていった。人口減少、高齢化、耕作放棄地の増大などが伝えられるたびに、そこに暮らしている人びとのことが気になっていった。だが、現実の中山間地域の「現場」に踏み込んでみると、不思議な「輝き」に遭遇し、意外な思いばかりをさせられてきた。そこは「農産物直売所」「農産物加工場」「農村レストラン」、さらには「集落営農」「農業法人」を名乗っていた。

いずれも農政や農協の影響下では「ままこ」扱いをされてきたものであり、「農業・農村論壇」では正当な扱いを受けているようではなかった。それらは開始されて20~30年、本格化して10~15年の月日を重ねているのだが、系統的な報告や評価がほとんどなされていない。

この点、「モノづくり産業」の世界に長年にわたって身を置いてきた立場からすると、不思議な思いをさせられることばかりであった。「農産物直売所」は1見、商店のようにみえるが、そうではなかった。「農産物加工場」の外観は工場であり、設備からも食品加工工場とみえるのだが、そうではなかった。「農村レストラン」は単なる飲食店ではなかった。そこに、人びと、特に農山村の女性たちが加わると何かが根本的に違ってみえた。

最大のポイントは、それらは単なる「商売」ではなく、地域の活性化が基本にあること、さらに、抑圧されてきた農山村の女性たちが「思い」を発揮する「場」ということであった。農山村地域の農家の女性(嫁)たちは、3世代、4世代の大家族の中で、家事、育児、農業に加え、進出企業のパートに出かけ、さらに、老親の介護まで担ってきた。特に、減反、米価の低落の中で、男性は出稼ぎか通勤が当たり前のものになり、女性の負担はさらに重なっていった。

他方、大切に育てた農作物も、形が悪く数の揃わないものは農協はとりあってくれず、廃棄するしかなかった。それでも細々と「無人販売所」を続けてきた。そして、80年代の中頃になると、1部の女性は農協の制止を振り切ってバラックに戸板1枚で「農産物直売所」を開始していく。そして、パートタイマーとして勤めていた進出企業がアジア、中国に移管される90年代の中頃になると、いっせいに農産物直売所や小さな加工をスタートさせていった。

そのことの意味は本文で述べたが、農山村の女性たちが初めて自分名義の「預金口座」を持ったことの意義はまことに大きい。彼女たちは「勇気」づけられていく。そして、この農産物直売所の発展は「農産物加工」を促していく。彼女たちは工夫を重ね、新たな世界を切り開いていった。さらに、「農村レストラン」もその頃から活発化していく。自分たちの「思い」を込めて作った農産物を大切に扱い、「自立」できる可能性を切り開いていったのである。それは、戦後の50年の常識であった大量生産、大量消費、大量廃棄という「20世紀型経済発展モデル」とは全く異質な取り組みであり、新たな価値の創造を意味していた。

同時に、人口減少、高齢化、担い手の減少、耕作放棄地の拡大という中山間地域に忍び寄ってきた困難に対し、条件不利の農地を大量に抱えていた島根県や広島県では、早くも70年代、80年代の頃から「集落営農」の可能性が試行錯誤されていった。そして、この集落営農の推進の背中を押したのは女性たちといわれている。すでにその頃には兼業化が進められ、実際の農業の担い手は女性になっていった。女性たちは「このままでは農地の維持も難しい」ことを実感していく。中山間地域の集落で「集落営農」の話題が出ると、男性はほぼ全員反対、女性はほぼ全員賛成、といわれている。

このように、現在の中山間地域では、女性主体に物事が動いている。そして、「自立」に目覚めた彼女たちは、集落や農業の将来を見通しながら、多様な方向に向かっていった。集落営農の推進が、女性たちに少しの時間的余裕を与えたことが、農産物直売所、加工場、農村レストランの具体化を推進してきたのである。

これら3点セットというべきものは、地域に新たな付加価値をもたらし、さらに雇用の場を拡げ、そして、農業者に「勇気」を与えている。日本の農業、集落もここから変わり、新たな「価値」を生み出しながら、「21世紀モデル」を形成していくことが期待される。そこには「自立」のこころ、地域への「思い」が深く形成されていくことになる。
このようなことばかり考えて、この10年、島根県を中心に、高知県、岩手県、栃木県、長野県、岡山県などの中山間地域の「現場」を歩いてきた。ただし、いずれの県も地域条件が異なり、さらに、1つの県でも市町村ごと、集落や地区ごとに置かれている条件は異なっていた。そのような意味で、私の視野に入っている範囲は実に限られたわずかなものにしかすぎない。これからも全国の中山間地域の「現場」に足を運び、さらに新たな可能性をみていくことにしたい。私の中山間地域をめぐる取り組みは始まったばかりなのである。これからも、皆様方のご支援をいただけることを願っている。

なお、本書を作成するにあたっては、本書に登場する人びとをはじめ、関係する県庁、市町村等の方々にたいへんにお世話になった。本書で紹介したケースの多くは、『経営労働』『地域開発』『山陰経済ウイークリー』『商工金融』『月刊「商工会」』に掲載したものを修正して再掲した。また、本書刊行のキッカケを作っていただいた学芸出版社の前田裕資氏にはたいへんにお世話になった。皆様方には、この場を借りて深くお礼を申し上げたい。まことに有り難うございました。

2010年10月

関 満博

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