ドイツの地方都市はなぜ元気なのか

高松平藏 著

内容紹介

独立意識の高いドイツの地方都市には、アイデンティティを高め、地域を活性化させる経済戦略、文化政策等が充実している。地元の住民や企業、行政もまちの魅力を高め活用することに貪欲だ。中小都市の輝きはいかに生みだされるのか。都市の質はいかに高められるのか。エアランゲン市在住の著者がそのメカニズムを解き明かす。

体 裁 四六・224頁・定価 本体1800円+税
ISBN 978-4-7615-1243-9
発行日 2008/05/30
装 丁 上野 かおる


目次著者紹介はじめに
はじめに

CHAPTER 1 10万人都市の輝き

1 歩くのが愉しい街
2 職住近接のライフスタイル

CHAPTER 2 地元への深い愛着

1 郷土愛を育む仕掛け
2 企業の地元支援
3 独立性の高い自治を遂行する行政マン
4 市民をつなぐ装置「フェライン」

CHAPTER 3 地方分権の骨格

1 自治体の最適規模
2 鳥瞰図的に街を見る発想
3 地方自治体の高い独立意識
4 自治体の自立性を支える連邦制

CHAPTER 4 街の活力を生む経済戦略

1 産官学を結ぶクラスター政策
2 ベンチャー企業の支援
3 ハイテク州バイエルンの域内連携

CHAPTER 5 文化は飾りではない

1 街のアイデンティティを高める文化と政策
2 街が浮き立つフェスティバル

CHAPTER 6 活発な情報流通とコミュニケーション

1 地域資源の発見・PR
2 人と情報が交流する広場
3 地域ジャーナリズムの隆盛

CHAPTER 7 一流の地方都市の条件

1 都市の質を決める戦略
2 都市の経済活動が好循環する仕組み

おわりに

高松平藏〔たかまつ へいぞう〕

ドイツ在住ジャーナリスト。1969年奈良県生まれ。会社勤務後に独立する。その後、京都経済新聞社を経てジャーナリストに。97年ごろからドイツ・エアランゲンと日本を行き来する。2002年から同市を拠点にして現在に至る。著書に『エコライフ ドイツと日本どう違う』(化学同人、2003年 妻アンドレアとの共著)。

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都市とはどうあるべきか

地方の都市は、誰のために、何のために、どうあるべきか。
本書はこの問いに私なりの答えを提示するのが目的である。“自治”体という言葉がある限り、実はそんな問題意識は街の中に常にあるはずだが、近年の日本では地方分権やまちづくりといった、いくつかの課題と関連するかたちで問われているテーマである。「地方分権」という言葉に引っかけると、ドイツは連邦制で歴史的に地方分権であり、いいかえれば独立した地方の集まりといってもいい。禅問答のような言い方をすれば、各都市が「独立した都市」であり続けなければ連邦制が成り立たないともいえる。それから都市がどうあるべきかという問いをもっと抽象化すると、社会のあり方とか、あるべき市民社会とは何かといったことを問うことになってくる。

答えを提示するためには具体例があった方がよい。そのためにドイツのエアランゲン市を中心に、周辺の地域のことを取材した。同市はドイツ南部のバイエルン州にある人口10万人ばかりの小さな街だが、独自の経済戦略を展開し、文化的にもさまざまな動きがある。「強さ」と「楽しさ」が揃った街といえようか。そして私自身が家族とともに住む街でもある。個人的な出自からいえば私は「関西系エアランゲン市民」で、市民としてはそれなりに問題を感じることもあるし、不満もある。それにしても、継続的に取材や観察をしていると、街の独立性が高く、人々にとって街は自分たちの公共空間であるという了解も浸透していることがわかる。そして「都市とはどうあるべきか」という問いに対して、「循環系」「市民社会」という二つのキーワードが導きだせる。

複数の循環系と文化

この地方都市の中を丹念に見ていくと、「循環系」がいくつか見出せる。しかも循環系同士が関連しあっている。ここに「都市とはどうあるべきか」という問いの一つの答えがある。これによって、都市は廃れるどころか、維持・発展していく。もちろん「都市の発展」といったときに、何がどう発展するのか、あるいはさせるべきなのか、ということに注意を払わねばならないが、いずれにせよ、複数の循環系が関連しあっていることで質の高い都市の持続性を実現している。

「質の高い都市」とはいくつかの定義ができるが、日本から見たときに特に目につくのが文化の充実度だ。ドイツの都市は文化が充実している、と書けば、「さすが、欧州の国だ」と、我々はつい納得してしまいそうになる。特に高度経済成長期の頂点でいわれた「日本はいわゆる先進国になったが、一流なのは経済だけだ」という評価を重ねるとなおさらだ。実は、経済力の発展と文化の充実がどういう風に関連しあうのかが、日本社会からはとてもわかりにくい。その「謎」が都市内の循環系を見るとある程度理解できる。

たとえばエアランゲンでの取材を通して「文化」と「企業」と「都市の質」をつなげる大きな循環系があるのが見えてくる。企業を出発点にさらりと書くと、行政の企業誘致の成功によって、人々にとって地元に職場ができる。そして都市の経済力そのものが高まる。経済力の高まりによる資本力は高い生活の質を実現する環境整備にまわる。その結果、地方でも文化度の高い都市が実現し、それがまた企業誘致策につながるという循環である。企業側の立場からいえば、拠点になる地域社会の発展が自社の成長にもつながるという思考が見出せるわけだ。やや脱線するが、欧州ではEU拡大などを背景に2002年ごろからCSR(企業の社会的責任)を政策に取り込む方向にある。「企業の社会的責任」という言葉は昨今日本でもよく話題になるが、これまでのドイツ企業の地域社会に対するまなざしを見ると、欧州でのこうした動きも自然な流れに思える。

循環系の話に戻ると、その背景には税制や法律をはじめとする仕組みがあり、都市内の情報流通や人々のコミュニケーションもある。長い歴史の中で育まれた、人々の都市に対する期待とイメージがあり、都市の空間の捉え方やメンタリティがある。さらに都市の姿やイメージを造形し、共有していく仕組みもあり、これらは都市のあり方を方向づける役割を果たしている。また具体的に都市の発展を論じたり、戦略を組み立てていくときに、「スタンドート(立地)」という軸になる概念もある。こういった諸々のものが都市内に複数の循環系を実現し、さらには循環系同士が関連しあうようになる。地方で生産された農産物などを生産地で消費するという意味の「地産地消」という言葉があるが、循環系とは地産地消のように都市内で再生産が繰り返され疲弊しにくい。

それから本書で登場する事例には文化よりの話が多いが、「文化」とは定義が幅広く、都市の循環系を支えているもの、すなわちコミュニケーション、情報、表現、記録といったものを一言でいえば「文化」ということになってくる。しかもそれらは、政治や行政、教育、職業といったこととうまく結びついている。また文化政策も地方が主役というのがドイツの大きな特徴だ。日独の対比でいえば、日本では2000年ごろを境に文化政策などの学科を創設する大学が出てきた。が、卒業生の就職先の難しさがあるという話を聞いたことがある。しかしドイツの大学ではそういった学科は古くからあり、卒業生はメディア、劇場、行政といった分野に職場がある。大げさにいえば、文化の専門家がいなければ社会が成立しないという了解があるのがドイツといえるだろう。

市民社会とは何か

さて、ドイツの地方都市の様子から見えてくるのが、市民社会とはどういうものなのかということである。ここに「都市とはどうあるべきか」との問いにもう一つの答えが見出せそうだ。

「市民社会」という言葉は日本で人気の高い言葉だ。文字どおりの定義をいえば「市民が主役の社会」といったような意味になるだろうか。しかし、「市民」や「社会」という言葉の定義を考えてみると、曖昧模糊としている。というよりも、どこか地に足がついていないように感じる人も少なくないはずだ。それもそのはずで、市民社会というのは周知のように欧州で成立したものである。だいたい「社会」という言葉は日本にはなかった。欧州から輸入されたものであり、先人はその翻訳に苦心している。他にも同様の言葉は数多くあり、こうした輸入概念を鑑みながら、日本社会の矛盾や問題点を論じる研究も多数ある。

そういったことを考えると、我々にとって実は今も「市民社会」とは本当に翻訳ができていない言葉だといってもよい。もちろん、本家欧州の様子ばかりを真似するのではなく、日本の各地方の「市民」でこれから市民社会をつくっていけばよいという意見もあろう。それは正論すぎるほど正論である。しかし翻訳が不十分のままでは、実は人権とか平等、自由、福祉、文化といった欧州発の概念の理解も難しい。我々はすでにこういった概念で国や自治体について評価し、ビジョンを組み立てるようになって久しい。だが概念の理解が未消化ではいろいろ矛盾などが発生するのも当然のことだ。それはまるで日本の米文化を理解せぬままにつくられた寿司のようなものである。

昨今、世界で寿司がブームであるが、私は一度ドイツ人の友人にかっぱ巻きをご馳走になったことがある。海苔や巻きすだれはアジアショップで買ってきた。きゅうりも細長く切った。問題はシャリである。長細い米をおかゆのように炊き上げ、温かい状態でかっぱ巻きをつくってくれたのである。遠くから見れば、立派なかっぱ巻きだが、食べるとまるで別の食べ物である。寿司そのものは「サラダ巻き」などさまざまな工夫の余地があり、つくり手の創造性をぶつけやすい食べ物だ。ところがよくよく考えると、酢飯だけは日本で主流の米、あるいはそれにできるだけ近い米を使ってつくらねば、寿司という料理のカテゴリーから大きく外れてしまうと考える人が多いのではないか。寿司は日本の米文化を理解してこそ握れるといえるだろう。ここで「社会」の話に戻すと、友人がつくってくれた奇妙なかっぱ巻きのように、日本においては、社会という酢飯の理解がないままに人権とか平等といった海苔やきゅうりを使って寿司をつくっていることがままあるのではないか。

これは環境問題なども同じである。ドイツは環境先進国といわれる。日本から見ると確かにそう見える部分も多い。政治家、非営利法人など環境問題に取り組むプレーヤーたちは並々ならぬ情熱と行動力があり、地域単位での取り組みも盛んだ。ところが少し距離をおいてみると、当然のことながら環境問題もドイツにおいては「ドイツ社会」という文脈の中にあるテーマなのだ。日本からドイツの取り組みを学びに来る人は多いが、日本で反映させようとしても、しっくりこないことが多いのもそのせいである。たとえば、エアランゲンは自転車道が先駆的に整備され、「環境首都」にも輝いたことのある街である。しかし自転車道の整備を行った当時の市長の考えの軸には、近代の概念である「人権」とか「平等」というものがあった。自転車と社会の関係を見ても、19世紀の都市生活者の健康とか社会の進歩といったものとセットになっている。ドイツの「自転車文化」は社会的な広がりが大きく、そして深いものがあるのもそのためである。ところがエアランゲンの自転車道は環境問題という現代の側面から見られるのが主流であるし、当のエアランゲンでもそういう見方や位置づけがされる。しかし、自転車道も欧州の中で育まれた価値観や概念が交通政策と環境問題にうまく展開したと見た方が理解しやすい。あるいは、なぜドイツで自転車道ができて日本では難しいのか、という理由を見出しやすい。

「社会」とは何かを論じ始めると複雑になるが、一言でいえば、ドイツの都市における社会とは、人のコミュニケーションや情報の流通の総体ということになるだろう。しかもそれらは自然発生的なものではなく、都市の中にそのための仕掛けや仕組みがある。特徴的なものを挙げれば、教会や「フェライン」(非営利法人)などがそうだ。地方紙が主流であるのも、都市の中の社会のために必要であるからと見た方がわかりやすい。

そもそも都市は人工空間であって、人が住んでいける人工空間をつくっていくには、建物だけでなく、人の関係性、つまり社会をどうつくっていくかという視点も必要になってくる。そしてドイツの人々は自分たちが人工空間に住んでいることを強く意識していて、これが日独の比較をしたときに個人と社会の関わり方の違いを生む要因の一つになっているように思う。

以上のような理由から、本書ではドイツの地方都市から見える、「本家本元」ともいえる欧州市民社会を提示する試みを行っている面もある。これはここ150年ぐらいの日本の知的営為の流れでいえば、欧州の概念の翻訳作業の一端を行うことでもある。ただし理論中心の言及は行っていない。もとより私には荷が重い。ただ、取材による具体例と「関西系エアランゲン市民」としての観察を重ねて提示することで、市民社会とはどういったものかがある程度浮かび上がるようにしたいと考えた。

それから、ドイツ語に「シュタット(Stadt)」という言葉がある。「市」とか「都市」という意味で、当然ドイツで育まれた歴史的な意味も内包している。本書では常に文脈によって「街」「市」「都市」といったように使い分けている。
またドイツで生活すると、実際のレートと違い、1ユーロが100円ぐらいの物価感覚である。したがって本書でもそのように表記している。

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