特別寄稿|大きな時間のなかで考える都市の未来:6つの変化の兆しから/武田重昭
いま、目の前にあらわれている風景
自宅で過ごす生活が長引くほど、人びとは身近な屋外空間に悦びを求めるようになっています。大人数での集合を避けながらも散歩や運動をはじめ、食事を楽しんだり、パソコンに向かったり、なかには青空のもとで麻雀を楽しむ人たちまであらわれています。これらは抑鬱された生活のなかでの抑えきれない欲求を満たそうとするだけの行動ですが、世情のことを少し脇に置いて、目の前の風景だけを切り取ってみると、身近な空間がずいぶんとうまく使いこなされていると見ることもできます。そこにはもちろん、人びとが集い、交流する集団の歓喜のようなものはありません。それでも、思い思いに過ごす人たちが互いの距離を保ちつつ「離散的に集合」する風景に、ある種の豊かさを感じずにはいられません。離散することは疎外ではなく、むしろ離れたものの間の意味を生みだします。原広司は離散空間を人間のあり方にたとえれば「自立した人間であるとともに、連帯する人間でもあるような人間の集合としての共同体」 1)だと述べています。身体的な関わりを持つことなく、しかし同じ時間と空間を共有することによって他者と連帯するという、あたらしいパブリックライフの魅力が生まれています。
―小さな挑戦の小さな期待
新型コロナウイルスは世界中に大きな困難や苦痛をもたらしています。それらに比べれば、ここに示したようなあたらしい都市の風景は取るに足らない小さなできごとです。でも、この苦境を乗り越えた先に再び取り戻される日常が、いままでと何も変わらない、もしくはいままでよりもつまらない社会になるのでは惜しい。この状況下に生まれつつある身近な暮らしの変化をひろい集めて、その可能性を広げ、望ましい方向に導くことができれば、この苦境をこれからの都市を考えるうえでの大きな転換点とすることができるのではないでしょうか。それは私たちが、いま起こっていることを注意深く見つめ、これまでの生活を顧み、本当に大切なことを自覚的に考え、私たちの未来に思いを馳せてみることからはじまります。それはたとえば、窓の外に自然の移ろいがあることに気づいたり、久しぶりに会う画面越しの友人の生活を思いやったり、公園で過ごす人びとの姿に自らの生きる悦びを重ねたりするといった些細なできごとの先に、これからの都市や暮らしのあり方を想像してみるという小さな挑戦です。いま、この時間をともに過ごしている皆さんと一緒に、この小さな挑戦から、なにか小さな期待が持てるような、そんなきっかけをつくれれば幸いです。
―都市の未来を考える6つの変化の兆し
ここでは、いまの私たちの暮らしの変化とそこから考えられる都市の未来を6つの視点からまとめています。ひとつ目は自宅での生活を余儀なくされるなかで改めて実感する都市空間の持つ効果やその可能性について、ふたつ目はグローバリズムの進展と引き換えに失われつつある都市の個性とその再発見の方法について、3つ目は世界中の人びとが経済以外の共感による結びつきを築いていく可能性について、4つ目は集団のメンバーとしての私たち一人ひとりの自覚に支えられた共同による公共のあり方について。5つ目は都市や暮らしの選択を決定する市民の思慮深さについて、そして最後に私たちの日々を大きく変えた時間とその使い方について。
これらはビフォーコロナの社会においても存在していた変化の兆しですが、その問題点や可能性は、より鮮明に浮かび上がってきています。都市を考えるとき、その過去と未来は断絶されているわけではありません。しかし、時代の転換点はいつも私たちの予測できないところからやってきます。私たちはそれに否応なく対応せざるを得ないのですが、このような機会にこそ、時代を変えていくことができるとも言えるのです。
① 代謝する都市空間の3つの効果
1年前に出版した『小さな空間から都市をプランニングする』2)では、都市空間の効果を3つに整理しました。少し長いですが、コロナ禍での都市空間を考える前提として引用します。
「一つ目はその空間が存在するだけで、効果を発揮する「存在効果」である。防災や環境保全など、都市空間が持つ最も基盤的な効果であり、そこに空間が存在することそのものによって担保される効果である。二つ目はその空間を人々が利用することではじめて効果を発揮する「利用効果」である。休息や遊びといった日常的な利用によってもたらされる効果に加えて、医療や学習といった特定の目的を持った利用によっても、さまざまな効果が発揮される。人々が都市空間を多様な方法で使いこなせば使いこなすほど、利用効果は高まると言える。さらに、都市空間の効果は、その空間の内(オンサイト)だけにとどまるものではなく、空間の外(オフサイト)でも発揮される。(中略)人々の心理に働きかける効果をはじめ、地域経済への波及効果なども含めた空間の外で幅広く発揮される効果のことを「媒介効果」と言う。この媒介効果が高い都市空間ほど、都市に大きな影響を及ぼしている空間であると言える。」
―不確実さに備えた「存在効果」
これからは、この3つの効果それぞれの内容やバランスの見直しが求められるはずです。まず、「存在効果」が大きく再評価されるでしょう。ビフォーコロナの都市空間は、公民問わず利用過多に奔り、経済効果を上げることに躍起になっていたように感じます。民有地であれば仕方ない面もあるでしょうが、公園などの公共空間においてさえ、利用密度を高めることばかりが偏重されていました。予算が逼迫した公共空間の舵取りにおいては、経費削減が公民連携の主な目的になってしまい、あらたな空間を生み出すことはおろか、人々の自由なふるまいを誘発することすらなく、経済的な利便を生み出す方向ばかりに帆先が向けられていました。このような賑わい至上主義とも言える消費経済の論理に与した空間では、誰かから与えられる利用はあったとしても、自発的な利用の多様性は生まれてきません。
長い自粛生活で心身の健康を保つために、身近な公園や緑地での散歩や適度な運動が欠かせなくなっています。他者との物理的な距離を十分に取ることは、新型コロナウイルスの感染拡大に抗うための特異な条件ですが、日常でも私たちが自由にふるまうことのできる空間にはある程度まとまった広がりを持つことが不可欠です。心身の健康を支えるという都市空間の原点に立ち返り、まずはその存在価値を高めることが求められでしょう。
なかでも「オープンスペース」という考え方に、あたらしい価値を見出すことができそうです。日本では都市施設のひとつである「公共空地」がこれに相当しますが、現状では公園や緑地、広場といった明確な利用形態ごとに分類されています。しかし、これからはある特定の機能を割り振られた空間だけではなく、オープンであることの価値を多様に発揮できる空間が求められます。鳴海はそのような空間を「自由空間」3)と名付け、「不特定多数の人びとが、一時的に、自由に、利用することの可能な空間」と定義しています。「オープン」には、非建蔽地であるという意味とあわせて、利用を規定されない自由な空間であるという意味が含まれなければいけません。
現在の土地利用計画において「未利用地」と言えば、高度利用が図られていない土地、すなわち利用方法を決めることが求められる土地を意味します。しかし、海外では将来の土地利用のための「リザーブ用地」という積極的な留保の意図を持ったオープンスペースが確保されています。たとえばミュンヘンでは、市街地の拡大と貴重な自然環境の保全という競合する土地利用に対して、将来の需要に柔軟に対応することができるリザーブ用地を確保するための土地マネジメントシステム 4)が導入されています。人口が減少する先行きの見通しづらい状況や想定外の災害に対する都市のレジリエンス(回復力)が求められるなかで、不確実な未来に備えた空間の存在価値を高めるプランニングの手法がもっと模索されるべきです。
また、特に市街化が進んだ地域であればあるほど、都市のなかにある小さな自然に対する要求が増しています。窓から見える緑による生活の潤い、庭先やベランダなどのプライベートな屋外空間で草花がもたらす癒し、散歩の道中で街路樹や生垣から感じる季節の移ろいなど、単調で刺激に乏しい暮らしのなかで、身近な緑は大きな存在効果を生んでいます。大きな面積の公園緑地が持つ環境保全や微気象緩和、生物生息空間などの多様な効果に加えて、身近な小さい自然地を確保していくことが、都市空間の存在効果を高めるうえで、ますます重要になってくるのではないでしょうか。
―間接的な関わりが生む「利用効果」
次に「利用効果」についても、これまでとは違った内容が求められそうです。大規模イベントの受け皿として人を「集める」だけではなく、だれもが思い思いにふるまい「過ごす」機会を多様に促進していくことが求められるでしょう。コロナ禍では、人びとの過ごし方そのものを眺めることが、屋外空間の楽しみのひとつになっています。日本ではイベントと言えば「大規模行事」のことを指しますが、日々の小さな「出来事」もまたイベントです。見方を変えれば、訪れるたびにいつもなにか小さな出来事に出会えるような空間こそ、利用効果が高い空間と捉えることができるのではないでしょうか。
パブリックライフとは「公共空間で他者と直接的・間接的にかかわりを持ちながら過ごす社会的な生活」 5)を指しますが、今後はこの「間接的な関わり」に対する考えが大きく変わるでしょう。もちろん他者との交流は、都市における本質的な魅力の一つであり、それがこれからも損なわれることはありません。しかし、その交流のかたちは大きく変わってもよいはずです。私たちは直接的な関わりをもたなくても、その場に居合わせた他者と心を通わし、機微を感じ、コミュニケーションをとることができます。さらに、これまでは同じ時間と空間を共有することがパブリックライフでしたが、いまではそこから空間が消えて、オンライン上で同じ時間を共有するパブリックライフさえ可能になっています。その場に居なくても他者の存在や都市の営みを感じることができるIT技術の発達は、多くの可能性を秘めています。
一方で、だからこそリアルな都市のなかで、人が居ることが美しく見える空間、他者の過ごし方が心を打つ空間、人びとの自由なふるまいから都市に対する信頼が感じられる空間の魅力が増していくでしょう。これらは都市空間の利用効果にほかなりませんが、これまでのような直接的な経済指標だけでは測れない効果です。このようなあたらしい利用効果を高めていくためには、その効果を測るあたらしいものさしをつくり、社会にその価値を定着させていかなくてはなりません。
―都市の未来を変えるための「媒介効果」
さらに、このような利用を通じて生まれる「媒介効果」もより重要になるでしょう。その空間に身を置いたときだけが心地いいのではなく、それが周辺に波及し、その影響範囲を広げていくことが重要です。それは時間軸で考えても同じことが言えます。そこだけがよくてもしょうがないのと同様に、いまだけがよくてもしょうがないという考え方で、未来に対する波及効果も視野に入れることができれば、都市空間の媒介効果をさらに高めることができるでしょう。「存在効果」で例にあげたリザーブ用地は、この未来に対する媒介効果を担保するものだとも言えます。私たちは将来のことを思うときにのみ、希望を感じることができます。いまだけ、ここだけのための空間しかない都市では未来に向かって生きていくにはあまりに窮屈です。
コレラの流行に苦しんだ19世紀中ごろのニューヨークにおいて、ランドスケープアーキテクトのF.L.オルムステッドは南北 4 ㎞ 東西 0.8 ㎞の広大な面積を持ったセントラルパークを誕生させました 6)。しかし、彼は公園がつくりたかったわけではありません。疫病が頻発する衛生環境だけでなく、奴隷制度が蔓延る社会環境も含めた社会改革が彼の目的でした。そのためには人びとの落ち着いた結びつきと福祉や人権に対する教養が重要であると考えました。それらを達成するために提案されたのがセントラルパークなのです。近代的な緑地計画はこうしてはじまりました。大切なことは、何をつくるかではなく、何を変えたいかです。近代都市のはじめての計画的な公園は、社会を変えるための手段として生まれたのです。都市の未来をどう変えていくのか、そのために都市空間の効果をどう捉えるのか、という順位で考えることが大切なのです。
② 人々の抱く意味こそが都市の個性
私たちは都市の個性が大きく損なわれつつあることに、改めて自覚的であるべきでしょう。ウイルスの世界的流行によって、私たちの生活は思った以上に世界と直結していることに気づかされました。グローバリゼーションの進展によって世界がつながっていることは、ウイルスにとって絶好の状態であると同時に、もちろんその状態をつくり出す原動力となった資本主義にとっても望ましい状態です。資本主義はあらたな消費地を求めつづけることで、世界を経済で結びつけ、均質化しつくしていきます。どの国のどの都市へ行っても目抜き通りには同じチェーン店が軒を連ね、地域固有の文化に根差した暮らしよりも世界規模での市場の消費者としての暮らしの方に、私たちは飲み込まれてしまっています。
―グローバリズムの渦の中で
貨幣の自由な流通とあわせて、人びとも世界の隅々まで自由に移動できるようになりました。もちろんこれまでも、人びとの交流はあたらしい価値を生んできました。しかしいま、そこで生まれる価値は、文化的なものを蔑ろにして、経済的なものにとって代わられています。このような経済的な世界の交流に乗って、新型コロナウイルスはやってきました。それは、あっという間の速さで世界中を駆け巡りました。貨幣や情報が行き交うのと同じように、どこにも偏ることなく、感染は世界の至るとことへ均等に広がりました。一方で、その拡大を防げるかどうかは、国や地域で差が生じています。機会は平等に、結果は不平等になっているのです。
世界中に均等に広がっていくのは、投機であり、食べ物であり、娯楽であり、暮らしそのものです。それをどこまで受け入れ、どこまで拒むかには、そこに住む人たちの意思がはたらきます。それによって、それぞれの国や地域で独自の文化は守られていますが、少しでも気を緩めれば、すぐに経済論理の渦にのまれて消えてしまうでしょう。しかし、私たちには決して経済市場にゆだねてはいけない社会の価値を持っているはずです。それを誇示して、未来へ残すことは、文化を受け継いでいく基本的な姿勢です。
―個性の「消費」から「生産」へ
そのひとつが、都市空間の継承です。その土地固有の歴史や文化は、空間形態にもあらわれます。しかし、建材や工法など、建設行為の効率化・画一化が進むなかで、都市空間までもが均質化しつつあり、数百年、数千年と長い時間をかけて積み重ねられてきた都市空間の価値が、わずか数十年の経済優先の再開発によって、一瞬にして姿を消そうとしているのです。そうした都市の個性の消失を回避するために、空間経営の原理を「消費」にではなく「生産」におくことが求められています。石畳のヒューマンスケールな街並み、緑に囲まれた園路沿いのベンチ、独特な様式の建築とそれを見る広場、これらは「消費」に対しては価値を持たないかもしれませんが、「生産」に対しては大きな価値を持つはずです。それが生産するものとは、その都市の個性に深く根差した思想であり、文学であり、近隣です。いまイノベーションと声高に叫ばれているものの本質は、消費を促すための小手先の技術ではなく、厚みを持った文化を生産することなのではないでしょうか。それは都市の個性によって生まれるものであり、また、都市にあらたな個性を育むものでもあります。
一方で、こうした都市の個性に市場が与える評価は画一的なものです。市場があらかじめ価値があるとするものだけに、都市の意味があるわけではありません。都市の個性とは、固定化した価値ではなく、そこに暮らす人びとやそこを訪れる人びとそれぞれが抱く意味を受容できることこそが大切なのではないでしょうか。一人ひとりが自由に思いを馳せることで、常にあたらしい意味が生産され続ける都市こそ、個性のある都市だと言えるでしょう。
③ 共感のパンデミック —世界的流行に乗せるもの
ウイルスの世界的な流行は、大きな不幸を生んでいる一方で、私たちに未来の可能性も示してくれています。人と人との接触や飛沫によって感染するというこのウイルスの特徴は、逆説的に私たちの生活がこんなにも人と人との直接的な関係によって支えられていたのかと気づかせてくれています。また、世界的パンデミックとなっていることも、最悪の事態が広がる範囲やそのスピードと引き換えに、世界中が人間らしい生活を見つめなおすというチャンスをつくり出しています。さらには、全人類が生きる基盤としての地球環境の保全をはじめ、これまで私たちが目を背け続けてきた根本的な課題についても、積極的な議論が進むだろうという期待感も高まっているように思えます。
―連帯の範囲を広げる想像力
私たちは同じ時代を生きる者としての共通の使命や課題を共有すべく、地球規模での連帯を感じている、と言いきれればよいのですが、残念ながら私たちのか弱い想像力では、中国やイタリアでの出来事は、やはり対岸の火事に過ぎないのでしょう。それどころか、大国が覇権を争い、格差がますます広がる未来も遠くはなさそうです。しかし少なくとも、私たちは目の前で同じように暮らす人びとの健康や生活を、互いに思いやることくらいはできるようになっています。このウイルスは、物理的な距離を通じた人との関係性を意識させるという特徴もあります。同居する家族、自ら暮らす地域、それらの集合としての都市、さらには国家という順に、共同体的・地縁的な距離による「つながりの強さ」は、感染の危険性と引き換えに「共感の強さ」も規定します。私たちはいま、物理的な距離のスケールを拡大する想像力を培うことで、連帯を感じる範囲を広げていかなければなりません。
経済活動の場や社会教育の場が失われ、断絶された人と人との関係をどのように再構築していくかは、これからの都市を描く最も基幹的な問いでしょう。単に関係をつなぎ直すということだけではなく、どのように次の価値を生んでいくかがますます重要になってきます。そこには、経済価値だけでなく、人びとの間の「共感によって支えられる価値」という判断基準が加えられるようになるべきでしょう。
―共感といううねりによる再構築
槇文彦はモダニズムを一艘の大船にたとえ、その船旅はすでに終わり、皆が大海原へ投げ出されたことで、一人ひとりがばらばらに泳ぎはじめなくてはならなくなったとしています。「もちろん、グローバリゼーションや情報社会化は負の現象だけをもたらすものではありません。それによって様ざまなネットワークも構築され、大海原の水面下に、あるうねりができつつあるとも感じます。(中略)多くの人間の共感を呼び起こすような、あるいは普遍的な人間性を探りあてようとする姿勢が存在するような建築から、「共感のヒューマニズム」が見出せるのではないかと思っています。」 7)と述べています。まさに私たちはいま、一人ひとりがコロナ禍という大海原に投げ出されています。その時に私たちの支えになるものは、大きな船としての資本主義や全体主義がつくる規律や効率性ではなく、個のそれぞれのベクトルがうねりとなるための「共感」というゆるやかな、しかし強いつながりです。
このような「共感」によって人と人との関係を再構築することができれば、経済や環境に対する認識も大きく変化するはずです。地域内での経済循環を意識した暮らし方をはじめ、居住や働き方の多様性を認めることでの有効に時間を使うこと、資源循環のサイクルをできるだけ小さく回すこと、都市内農地での作物の生産や環境エネルギーへの転換による食料やエネルギーの自給率を高めることなど、地域内の結びつきを意識した循環型の社会が目指されることが期待されます。さらには、より広範な環境に目を向け、人間を含めた生態系が健全に保たれた持続可能な社会の形成に、意識的になれるはずです。新型コロナウイルスの流行前に注目されはじめたSDGsのキャンペーンも、ずいぶんと実感を伴うようになるのではないでしょうか。しかし残念ながら、このような「共感」が地球規模のパンデミックを引き起こすまでには、まだまだソーシャル・ディスタンスを縮める必要がありそうです。
④ 公共と共同の接近
都市は人びとの「欲望」を受け入れるものであり、グローバリゼーションの進展は資本主義の欲望によって、どこまでも高利益なあたらしい消費地を探し続けます。IRに代表される大規模なリゾートや商業施設は、人びとの欲望によって生み出された空間のひとつの象徴です。一方で、現在の都市は高度に管理され、個人の欲望の発露は限定され、自由なふるまいが抑圧された公共空間ばかりが覆っているようにも感じられます。
―「弱い主体」による公共性
これからの都市を考える上で「欲望のエデュケーション」という提起は重要な意味を持つのではないでしょうか。原研哉は「「ニーズ」は往々にしてルーズである。だからニーズには教育が必要だ。(中略)エデュケーションという言葉には、教育というよりも潜在するものにヴィジョンを与えて開花させるというニュアンスがある。デザインとは、ニーズの質、つまり希求の水準にじわりと影響をおよぼす緩やかなエデュケーションでなければならない。」 8)と述べていますが、これは、単なる製品開発の話にとどまらず、都市の生態にもあてはまります。「賑わい」や「活性化」を求めた過剰な消費空間ばかりが広がり、一人で豊かな時間を過ごせる空間が追いやられている現状は、まさにルーズなニーズによるものです。多くの人で賑わうだけのどこにでもある空間よりも、むしろだれもが一人で過ごすことのできる空間を持つことが目指される方が、はるかに希求の水準の高い都市だと言えるのではないでしょうか。
いま、自らの生活を律するのは、自分だけのためではなく、家族のためであり、まちの人たちのためであり、それは世界中の人びとのためでもあると考えてみることは、それほど難しいことではありません。自分をある集団のメンバーだと捉えて、一員としての自覚を持つことや責任を果たすことは、私たちが社会性を持った動物として生きる基本です。しかし、一人ひとりの責任感を高めることだけが欲望のエデュケーションというわけではありません。これまでの公共空間では、あまりにも公から民が権利を勝ち取ることに重きが置かれすぎてきました。自立した「強い主体」としての市民が権力を批判するための公共性を担う一方、もっと「弱い主体」としての市民の行為があらわれるような公共性を保護することも大切です。争って勝ち取る公共空間ばかりではなく、なんとなく持ち寄れる公共空間もなければ、私たちの生活は息苦しいものになってしまうでしょう。市民の気負わない自由なふるまいがあふれ出だす公共空間の価値が、もっと見直されてもいいはずです。
―「協働」の底にある「共同」
たとえば、「きょうどう」という言葉を頭に描くとき、出てくる文字は「協働」と「共同」のどちらでしょう? そのほかにも、もちろんこれらを合わせて「共働」や「協同」などと書くことも可能ですが、ここでは「協働」と「共同」のふたつを対比してみたいと思います。都市空間において「きょうどう」が語られるとき、近年は「協働」の必要性ばかりが指摘されてきました。「協働」とは、「同じ目的のために、力をあわせて働くこと」であり、官民協働などの文脈でよく使われます。英語では、“Collaboration”が最も適当でしょうか。個に明確や能力や技術があり、それを使って同じ目的のために一緒に取り組むことです。そのためには同じ目的を持ったチームの一員であることが求められます。これに対して「共同」とは、「ふたり以上の人がいっしょにすること、使うこと」であり、特に共通の目的があるわけではありません。また、互いの能力や技術を必ずしも求め合ってはいません。英語では“Common”がそれにあたります。共同浴場は、皆が一緒につかう浴場であって、そこで力をあわせて共通のミッションが達成される場ではありません。しいて言えば、皆が湯につかることができるように、最低限のマナーが守られることで、その機能が保たれているというくらいです。
江戸時代までさかのぼらなくとも、つい近年まで、日本の社会には共同体が成立してきました。都市の発展は一方でこの共同体を破壊し、皆が一緒に使う「共同空間」を、公民が同じ目的をもって働くための「協働空間」へと変えてきました。しかし、個の生活が屋外ににじみ出さざるをえないような自粛生活のなかでは、協働以前に共同の空間が不可欠です。公園に身を置く人たちが、なんとなく身体的な距離に配慮しつつ、それぞれの時間を楽しむ様子は、まさに共同の空間です。一部の自治体では公園の遊具までも使用禁止にして市民の安全性を確保しようとする動きがありますが、それをも奪いとることはあまりに市民の選択の幅を狭めてしまうやり方に思えます。公園は現代のコモン・スペースでもあります。共同するうえでの暗黙の配慮や不文律のルールに従う行動にこそ、その社会の持つ度量があらわれるのではないでしょうか。
近年は、公民連携や市民参加によって「協働」の必要性ばかりが叫ばれてきました。しかしいま、その手前にある「共同」がふたたび重要性を増しています。コラボレーションを目指す空間は、その前提として他者を尊重するコモン・スペースでもあるべきです。協働のための責任よりは、共同のための連帯の方に可能性が見出せるのではないでしょうか。齋藤純一は、公共性を「国家に関係する公的なもの(official)/特定の誰かにではなくすべての人びとに関係する共通のもの(common)/誰に対しても開かれているもの(open)」の3つに分類していますが 9)、さらに興味深いのは、これらは互いに抗争する関係にあると述べていることです。公共空間をオープンにして協働の価値を高めることは、コモンとして共同することの価値を必ずしも高めることにはつながりません。さらに言えば、オフィシャルな空間として、行政が防災や福祉のためのセーフティネットを確保する場合も同様で、あらためてその重要性を認識する必要があると考えられます。
⑤ まちのフロネーシス —強要ではなく教養がつくる風景
「教養とは幸運なときには飾りであるが、不運のなかにあっては命綱となる」
—アリストテレス
桑子敏雄は『何のための「教養」か』10)の冒頭で、このアリストテレスの言葉をひき、現代に生きる私たちにとって教養がどのような意味を持つかを論じています。「みなさんが行う選択が一人ひとり別々の人生の中での選択であっても、一つひとつの選択は、地域社会や国家、地球環境の様々な制約を受ける。だから、わたしたちは、そういった制約についてしっかとりした認識をもたなければ、自分の選択をすぐれたものにすることはできない」という選択の基準としての教養は、いまのような状況においては、まさに私たち一人ひとりの、そして社会にとっての命綱となるでしょう。
いま私たちは、自分の選択する行動が、他人に迷惑をかけるものではないかを常に問われ続けています。不要不急の外出を控え、必ずマスクを着用し、身体的な距離を保つという倫理的なふるまいが強要されることで、常にそこはかとない緊張感や倦怠感がまとわりつきます。しかしそれは逆説的に、日常生活における他者との関係の多さや人びとの結びつきの強さ、ちょっとした会話の重要性を改めて認識する機会にもなっています。この期せずして訪れたあたらしい日常生活を、あえてポジティブに捉えるとすれば、自らの暮らしが社会的にも経済的にも、都市の営みとダイレクトにつながっていることを身をもって実感できるようになっているとも言えます。
―最善の選択のために
行動の選択を支える知の姿について、桑子は「ソフィア」と「フロネーシス」という二つの能力について述べています。「ソフィア」とは学問的論証能力のことであり、伝統的に高度な知的能力のことを指します。近代では科学技術と融合し、単に真理を認識するだけではなく、世界を劇的に改変する力を持つようになってきました。皮肉なことにこのソフィアの発展による人間の行動が、地球環境の破壊も引き起こしてきたと言えます。いまの新型コロナウイルスの流行も、このような地球規模での環境問題と無関係ではありません。本来の自然界の生態系とは異なる環境をつくってしまった私たちの選択の結果が、人間社会におけるウイルスの蔓延なのです。
一方「フロネーシス」とは、行為の選択における思慮深さのことです。アリストテレスは、人間は個では生きることはできず、社会的な存在として生を全うしなければならないとして、この倫理的能力をフロネーシスと呼びました。それは社会生活を営む知的能力であり、国家を運営する政治的能力でもあります。アリストテレスは、ソフィアとフロネーシスはどちらも一人の人間が備えるべき知的能力と考えましたが、桑子はさらに「重要な点は、二つの能力は独立の能力だということである」と指摘しています。すぐれたソフィアを持っていれば必ずフロネーシスを持っているというわけではありません。科学的な正しさが、常に正しい選択を導き出せるわけではないのです。
現在、世界が直面しているこの状況下において言えば、免疫学的に正しい行動が、経済や文化などを含めた社会全体から見た唯一の正しい選択とは限りません。ましてや免疫学だけでなく、臨床医学や公衆衛生学、経済学や経営学、行動心理学や都市計画学に至るまで、様々な分野のソフィアが分化された現在の学問体系のなかで、私たちがいま必要としているのはおそらく、これらを束ねるソフィアではありません。難しい選択におけるより一層の思慮深さとしてのフロネーシスの方ではないでしょうか。桑子は、これからの人類にとって最善の選択をするのは「現代にふさわしい人間のフロネーシスでなければならない」とし、「ソフィアだけを持つものにこの選択を任せるわけにはいかない」と述べています。
―思慮深い選択の積み重ね
人類にとって最善の選択というと大仰に聞こえますが、これはなにも為政者にのみあてはまることではないはずです。私たち一人ひとりの生活のなかで迫られる小さな行動の選択においても求められる能力です。そして、一人ひとりの思慮深い選択の積み重ねが集団のあり方を決定できる社会こそ、私たちがこれから向かいたいと思える、地域の、都市の、国家のかたちなのではないでしょうか。個人のフロネーシスは、互いに影響を与えあいながら広がっていきます。それを広めていくのは、ウイルスの感染がそうであったように、やはり人と人とのつながりでしょう。ただし、それがウイルスと違うのは、身体的な接触を伴わないコミュニケーションでも伝えられる点です。たとえば言語は、文字となって身体を離れ、時空を超えて、思慮深さを伝えたり、高め合ったりすることに長けています。
また、公園では他者と距離をとりながらも同じ時間を共有することに悦びを感じ、スーパーやコンビニでは店員に感謝の気持ちを表すといったことも接触を伴わないコミュニケーションのあり方でしょう。私たちがいま目にする誰かの行動や人のいなくなったまちの風景に、ほんの少しの想像力を働かせるだけで、それを生み出している多くの人たちの思慮深さに気づきます。これは一人ひとりの「教養」が生み出した結果であり、誰かから「強要」されたものではありません。「教養」を育てることにこそ社会を変える力が備わっているはずです。
⑥ 大きな時間のなかの都市
私たちが実感する「時間の流れ」も大きく変わりました。何か大きな社会的インパクトがあるたびに、私たちはこれまでとはまったく違う時間を過ごしているように感じることがあります。自粛生活が長引くにつれて、普段の生活がいかに細切れの時間を過ごしていたのかと気づかされるのです。もちろん、時間の流れはいつも変わることはありません。時間に対する自分の知覚が変わっただけなのですが、そこには時間を「取り戻した」という感覚があります。私たちはいま、空間という面では不自由ですが、時間という面では自由を得ているとも言えます。わずか1分の乗り換え時間を気にして移動を繰り返していたあの日常に、多少の違和感すら覚えるようになってきています。
―日常からの断絶がもたらすもの
もしかするとそれは、旅に出た時の時間の感覚に近いのかもしれません。旅先の時間は、この高度に管理された時間からの解放でもあるからです。多少の不便やハプニングは、むしろ旅の魅力としてポジティブな印象を与えてくれます。思い通りにいかない時間に身を委ねることでしか得られない経験もあるのです。しかし、いまのコロナ禍が旅の時間と大きく異なるのは、それは何の準備もなく、突然に、しかもすべての人びとにやってきたということにあります。旅先で出会うような他者の日常に、いまの私たちが触れることはありません。そして、人との接触を断たれた生活が続くなかで、自らの生産性の低さに苛立ちと焦りを感じはじめます。これまでの生活のスピードを落としてゆっくりと過ごせばいいのではないか、と思ってみるのですが、それはなかなか受け入れがたく、どこかで効率を求める気持ちを棄てることができません。大切なことは効率などではないと頭ではわかっているのにです。
人生には幾度となく、このような時間の断絶があらわれます。筆者自身の経験で言えば、1995年の阪神・淡路大震災が、その最初の経験でした。大学に入学してはじめての年を越してすぐの出来事でした。その後も2001年の同時多発テロ、2011年の東日本大震災と、いずれも日常の時間が断絶され、違う時間を生きるような感覚を経験してきました。毎日があたらしい感覚との出会いである子どもにとっては、たとえ時間の断絶が起きても日常との変化は比較的小さく、馴染みやすいのかもしれません。子供たちの生活の変化への対応力を見ていると、そんなふうに思います。いま二十歳を過ぎた学生は、9年前の東日本大震災の時にはまだ小学生だったことを思えば、彼らは人生ではじめての、なんとも言えない喪失感のなかを生きているのかもしれません。自らの経験を振り返って考えてみると、はじめて時間が断絶されたときに何を思うかは、今後の人生の大きな指針となるような気がします。
―小さく確かに変えていく
イタリアの作家パオロ・ジョルダーノは、日々刻々と変わる状況で考えたことの記録を発信し続け、それらを編纂したエッセイ集『コロナの時代の僕ら』11)を出版しました。その日本語版には、出版後に紙上に発表された「コロナウイルスが過ぎたあとも、僕が忘れたくないこと」と題した記事があとがきとして付け加えられています。そこには、彼がいま感じる社会の課題や日々の苦悩から学んだ思慮深さあらわれています。「コロナウイルスの「過ぎたあと」、そのうち復興が始まるだろう。だから僕らは、いまからもう、よく考えておくべきだ。いったい何に元どおりになってほしくないのかを」。人間は苦痛を忘れるようにできていて、未来に対してはいつも楽観的です。それは、人生を生き抜くうえで不可欠な性質で、もとの日常が戻れば何もなかったかのように、これまでどおりの価値観で日々の行動を選択してしまうでしょう。しかしパオロが言うように、忘れたくない日常の変化こそ、未来に向かう大きな糧となるはずです。これは、「終わることのない」コロナとともにある時代を、私たちがどう生きていきたいかという意思表示でもあります。
フィジカルなコミュニケーションを奪われた喪失感はぬぐい切れませんが、一方でいまの私たちは、粛々と繰り返される日々をできるだけ人間らしく丁寧に暮らそうと試みています。移動に割いていた時間が生活の中に舞い戻ってきたことで、自分自身との葛藤にさえ勝つことができれば、思索に耽ることや過去に思いを馳せる精神の自由を手に入れています。しかしこの状況が去れば、このような時間やその中で考えたことは、容易に思い出すこともできないくらいあっさりと消え去ってしまうでしょう。だからこそ、いま感じる日々の不満や不安、出口の見えない忍耐や苦悩、そして未来の展望を、少しでも記録しておくことをパオロのエッセイは後押ししてくれます。
私たちは忘れてしまうのです。世界同時多発テロの惨事も、東日本大震災の自然の猛威も、すでに記憶の中の出来事でしかなくなってしまっています。社会は大きく変わるだろうと感じていた、当時の強い感性はすっかり色あせ、またそれまでと変わらない日常の慣性に巻き込まれていくという経験を、筆者も何度となく繰り返してきました。大きいことは変わりにくいものです。小さいことを確実に変えていくこと、その積み重ねでしか社会は変わらないのだということを私たちはそろそろ学ばなければいけません。
―いまだけ、ここだけではない都市の価値
この大きな時間のなかで都市を考えることに意味があるとすれば、それはすぐに答えの出ない都市の価値を考えることではないでしょうか。都市をプランニングするためには、50年100年といった長い時間スパンを見据え、まだ見ぬ時代を生きる市民のために、いま何をすべきかを考える必要があります。いまだけ、ここだけといった思考では生み出しえない、長い時間をかけてでしかつくれない都市の価値というものがあります。効率を高めることだけでは、都市はよくならないことは明らかです。4年や6年といった短い時間で顧みる政治の立場とは違って、都市を計画する専門家には、いま目の前にある課題と同時に、長い時間受け継がれてきた都市の価値を高めていくためのマインドが求められています。
いつか戻ってくる日常で、私たちはやはり、目の前のことに意識を集中しすぎてしまうでしょう。そのとき、この大きな時間のなかで自身に問いかけたことが、一人ひとりの、そしてその集合としての都市の、未来を考える拠り所となると信じています。
・都市環境デザイン会議関西ブロック JUDIフォーラム2019委員会
・関西地域創生研究会 都市や地域に関する知の冒険プロジェクト
・ソトノバTABLE#33「ウィズコロナ,アフターコロナのパブリックスペース」
※本稿は、これらをはじめとする機会を通じて、多くの方々との研究や交流から学んだことをもとに書かれたものです。ここに記して謝意を表します。また、執筆の機会を頂いた学芸出版社の岩切江津子さんには、編集・校正作業においても多大なご協力をいただきました。おかげさまで、索漠とした日々にも希望が見出せ、前向きな気持ちで過ごすことができるようになりました。改めてお礼申し上げます。
【引用・参考文献】
1) 原広司『集落の教え100』1998年3月:彰国社
2) 日本都市計画学会都市空間のつくり方研究会編『小さな空間から都市をプランニングする』2019年5月:学芸出版社
3) 鳴海邦碩『都市の自由空間―街路から広がるまちづくり』2009年10月:学芸出版社
4) 大村謙二郎『ドイツにおけるコンパクト都市論を巡る議論と施策展開』2013年4月:土地総合研究第21巻第2号39-54:一般財団法人土地総合研究所
5) シビックプライド研究会編『シビックプライド―都市のコミュニケーションをデザインする』2008年11月:宣伝会議
6) 武田史朗ほか編著『テキスト ランドスケープデザインの歴史』2010年10月:学芸出版社
7) 槇文彦『建築から都市を都市から建築を考える』2015年10月:岩波書店
8) 原研哉『欲望のエデュケーション』2011年6月:HARA DESIGN INSTITUTE web:https://www.ndc.co.jp/hara/prospects/2011/06/post_1.html
9) 齋藤純一『公共性』2000年5月:岩波書店
10) 桑子敏雄『何のための「教養」か』2019年7月:筑摩書房
11) パオロ・ジョルダーノ『コロナの時代の僕ら』2020年4月:早川書房
筆者略歴
武田重昭 Shigeaki Takeda
大阪府立大学大学院生命環境科学研究科准教授。1975年生まれ。UR都市機構、兵庫県立人と自然の博物館を経て現職。博士(緑地環境科学)。技術士(建設部門)。登録ランドスケープアーキテクト。共著書に『小さな空間から都市をプランニングする』(2019)、『都市を変える水辺アクション』(2015)、『いま、都市をつくる仕事』(2011、いずれも学芸出版社)ほか。
関連書籍
著書
『いま、都市をつくる仕事 未来を拓くもうひとつの関わり方』日本都市計画学会関西支部・次世代の「都市をつくる仕事」研究会 編著
参考書