感性のモダニズム
ヨーロッパ近代の建築造形をめぐる

はじめに

ヨーロッパのモダニズム建築とは、いつ頃の作品を指すのだろうか。狭義の意味では、比較的明確に、その時代を定めることができるかもしれない。モダニズムすなわち近代主義と言うからには、実施作よりも理論が先行する。さしあたっては、オザンファンとル・コルビュジエの『エスプリ・ヌーヴォー』創刊、1920年が始まりのひとつの目安となるだろう。建築家アウトも協力したドゥースブルフらの『デ・ステイル』は、1917年に刊行された。そして1922年には、ロシアも含めてヨーロッパの全構成主義者が一堂に会する会議がワイマールで開かれ、表現主義色の残っていたバウハウスへ影響を及ぼすことになる。あるいは機関誌『ウェンディンヘン』が1918年に出され、アムステルダム派の精力的な活動が開始される。前衛思想としてのモダニズムの表明は、どうやら第1次世界大戦後の数年間で果たされたとみても、間違いはなさそうだ。

ではプロジェクトとして示されたル・コルビュジエの「ドミノ」やイタリアの未来派、1907年に結成され、後に初めて標準化の考えを打ち出すドイツ工作連盟の動向を、モダニズムと呼んでは誤りだろうか。さらにはロースの『装飾と罪悪』やワーグナーの『近代建築』はと考えていくと、モダニズム発祥の芽はモリスやラスキンやヴィオレ・ル・デュクにまでついには遡ってしまう。それは既にペブスナーが到達していた結論にほかならない。視点を変えて、社会に目を向けてみてはどうか。近代資本主義の成立に歩を合わせて、むしろ理論に先んじてモダニズムの空間が芽生え始めていたとも考えられる。パリに初めてパサージュが出現するのは、18世紀末である。いち土地持ち貴族の思いつきであったとはいえ、パサージュは近代社会でなければ求めはしなかった商業空間である。鉄道の開発やオスマンのパリ大改造は、資本主義の欲する物流革命を現実のものとした。そのための駅舎空間や巨大な市場空間もまた、近代固有の建築だろう……。

始まりを見究めること以上に大変な作業は、後ろの線引きだ。ここでも狭義のモダニズムに限るならば、第2次世界大戦の開始で線は引ける。だがそれが細い点線であったことは、戦後の状況から明らかだ。むしろ戦後は、尖鋭的な思想として生まれたモダニズムが、世界へ急激に普及することでまるくなり、薄められていった過程と考えられる。

チャールズ・ジェンクスが『ポスト・モダニズムの建築言語』(1977)を著した時、多くの人がモダニズムの終篶を思った。けれども今、この言葉を口に出す人はほとんどいない。それどころか、1920年代、30年代の作品を再評価、再解釈する気運が高まってすらきているとも感じられる。ギーデオンの著書『永遠の現在』の、その不思議なタイトルが、いやに現実味を帯びてきているように思われる。

幸いにもヨーロッパには、近代市民社会そして近代資本主義経済が成立し、成熟へと向かう19世紀以降につくられた建築が、数多く残されている。それらを訪ね、その一つひとつの作品に空間として表現された建築家の思いを丹念に眺めることによって、建築のモダニズムとは何であるのか、そして現代がいまだそこに依拠しているのか否かを、検証することができるだろう。