食のまちづくり
小浜発!おいしい地域力

はじめに


 初めてお目にかかったとき、岩崎恒一さんは68歳でした。

 岩崎さんはその3年前から集落の農家をまとめ、母校でもある地域の小学校に給食用の野菜を出荷していました。それから3か月後には自宅の車庫に日曜大工で陳列棚をつくり、週に2回、朝市を開いて野菜の直売を始めました。新鮮で安全な野菜が並ぶ朝市はまたたくまに評判になり、常連客ができました。開店を待ちきれずに早朝から行列をつくる人たちは、言葉を尽くして野菜のおいしさを語り、その生産を可能にする集落を賞賛しました。そんな常連客の目を通して、岩崎さんは初めて地域を見つめ直しました。

 「私はこの年になるまで、ここがいいところだとか、食べているものがいいものだと思ったことはなかった。お客さんからここがいいところだといわれて初めて、ほんまやなあ、いいところやなあと思い、野菜がおいしいといわれて初めて、ほんまやなあ、おいしいなあと思えるようになった。花が咲いていても何とも思わなかったのに、今はきれいに見えるんですわ」

 初めて訪れた小浜のまちで、食のまちづくり課職員だった出口雅浩さんが岩崎さん宅に連れて行ってくれ、岩崎さんが穏やかな声でこの物語を語らなければ、その後、私が小浜市に通い詰めることにはならなかったでしょう。食のまちづくりが岩崎さんの意識を変えたように、岩崎さんの言葉が小浜の食のまちづくりに対する私の意識を変えたのです。

 福井県小浜市は、暖流と寒流とがぶつかる豊かな漁場である若狭湾に臨み、背後の山々を越えれば京都に至ります。そこからは奈良までもそう遠くはありません。遠く飛鳥・奈良時代から、小浜を含む若狭地方は豊饒な海がもたらす塩や海産物を朝廷に送る「御食国みけつくに」でした。21世紀が幕を開けた2000年、小浜市は御食国だった歴史にちなみ、市民の暮らしを豊かに彩る食をまちづくりの中心に据えた総合的な地域振興策を「食のまちづくり」と名づけ、さまざまな施策に着手しました。

 その一つが学校給食の校区内生産でした。岩崎さんの住む国富くにとみ地区では、鳥獣害が少ない丸山区の農家が担当することになり、17世帯の農家のうち13世帯が「少しずつ、できるものから出していこう」と、野菜の供給を始めました。給食用の野菜の種類と量を増やす取り組みが朝市の開催につながり、地区外の客との出会いが岩崎さんの意識を変えたのでした。

 岩崎さんが語ったこの言葉に、私は胸を衝かれました。人は68歳になってもこれだけ意識を変えることができるのだという事実に新鮮な驚きを覚えると同時に、行政主導で始まった食のまちづくりがたった1人の市民の意識をこれだけ変えたのなら、それだけでも成果といえるのではないかと確信したのです。

 岩崎さんはその後も、小学校との連絡のために電子メールの使い方を習得し、福井県主催の研修に参加して食育を学び、小学校で豆腐づくりや味噌づくりを教えるようになり、大阪府吹田市の市民との交流を開始するなど、どんどん世界を広げていきました。新しい挑戦について語る岩崎さんの話に耳を傾けることは、小浜を訪れる楽しみの一つになりました。

 取材を続けているうちに、岩崎さんのように、「食のまちづくり」や市内12地区で始まった「いきいきまちづくり」に参加し、自己実現を図りながら地域づくりに取り組む多くの方々との出会いに恵まれました。また、地域の課題を解決するために自ら決断し、行動に移した方々との出会いもありました。そのなかには、地域でつくり続けてきた伝統野菜や伝承料理を未来に伝えようと発信し始めた人たち、障害者も食のまちづくりに参画しようと天然塩づくりを復活させた人たちがいれば、農村の資源を生かして起業した女性たちも、地域に湧き出す湧水を生かしていくつもの食品を開発した地域団体もあります。

 地域に眠る資源に気づき、地域資源を生かすまちづくりを計画し、多くの人を巻き込みながら実現させ、小さな成功を積み重ねることを通して、市民1人1人が生きる喜びを見い出し、地域への誇りを増幅させていきました。そして、それらの活動の総体が小浜を活気のあるまちへと変貌させていきました。行政主導で始まったまちづくりは、いつのまにか市民主導へと変化していったのです。その多様で重層的な地域活動は、たとえ小浜市がその取り組みをゆるめたとしても止むことはなく、むしろ深まり、広がっていくことでしょう。

 なんとかして地域の未来を切り開きたいと願う人たちにとって、食を通して自分の能力を地域づくりに生かしている小浜の人たちの事例が少しでも参考になればという思いで、この本をまとめました。もちろん、小浜だけが疲弊する地方都市の例外というわけではありません。中心市街地にはシャッターの降りたままの店も目立ち、郊外の農村部は高齢化し、耕作放棄地も増えています。しかし、食のまちづくりによって自信をつけた市民は、何もしない口実を探すより、自ら動き始めることを選び、着実に成果を上げてきました。この本を手にとってくださった方が、小浜の人たちの勇気にふれ、世界のどこにもない自分の生きる地域を毎日が喜びで満たされる場所に変えていくための小さな行動を起こしていただければ幸いです。