コーポラティブハウス
21世紀型の住まいづくり

はじめに


 道端で見過ごされていた空き地に目を止め、土を掘り、種をまき、水をやる。そのうちに近くの人たちが三々五々やってくる。チューリップの好きな人もいれば、野草の好きな人、バラがいいという人、ハーブに詳しい人もいる。それらをうまく組み合わせる人もいる。そんな風にして路傍に心地よい一角ができていく。できあがった公園、庭も景色としてはいいが、蝶やトンボが舞い、鳥も子どもたちと仲良くなれるような原っぱみたいな手作りの路傍ガーデンには生命力が満ちるすばらしさがある。
 コーポラティブハウスはそんな住宅ではないだろうか。
 人も生きものだから自分の居場所を安全で心地よくしようという願いを持っているはず。なのに長い間他人のつくった人工的空間を与えられ続けているうちに、その「本能」を忘れかけているように思う時がある。誰もが楽しく暮らしたい、快い環境を手に入れたい、できれば自分の住宅の価値を高めたいと望んでいる。そのエゴ=自己利益をどうすれば通すことができるのだろうか。大金を積まずに目標を達成する近道のひとつは、同じ思いを持つ人たちが集まって住むことであり、そのためにともに学び、ともにつくることである。
 集住やコミュニティを目的としない方がよいと思う。一人ひとりのエゴを実現させる手段がコーポラティブハウスだといったん割り切った方がわかりやすいし、うまく行くように思う。少なくとも、一生懸命働き、毎日精一杯生きているのだから、それ相応の住環境、自分が納得できる住まいが獲得できてよいとの強い欲求を貫いてよいではないか。そんな住まいへの意識と主張を明確に持ち、それを行動に移すための人類の知恵として発明されたのが、コーポラティブハウスである。
 理念は単純明快であり、しくみは確実である。住宅という一代一度の「大道具」を内容のよくわからないまま買うのではなく、十分勉強しながら考え、自らの手でつくる。でもそれはひとりでは難しいことなので何人かで力を合わせてすること、専門家のサポートを得ながらすることで、さほど苦労を伴わずにできる。だからこそ、世界の多くの先進国ではこの方式が今やごく当たり前の住宅づくりとして定着し、広がりを見せているのである。
 そんなに良いことがなぜ私たちの国でまだ「発展途上」にあるのか。私たちは日々の暮らしの中で落ち着いて住宅を捉える時間もないまま住宅は商品化され、大量宣伝の大きな流れにのみこまれてきたのか。一人ひとりの生活、そして住宅への意識がまだ成長していないのか。社会のシステムが十分に整えられていないのか。もっと根元的には住宅全般の貧困さと高負担という私たちの国特有の事情もあるのか。いろんな理由が考えられる。それらを解明することも大切だろうが、私は実務家でもあるから、今大事なのはもっともっと多くのコーポラティブハウスを世の中に生み出していくことだと考えている。是非を論じている場合ではない。どのように展開するかを考え、実行していくことである。本書もそのためにある。
 それは、私が25年間この事業をライフワークのひとつとし、これまでに500戸余りのコーポラティブハウスのコーディネートをする中で、いつも考え続けてきたことである。そして「こうあらねばならない」とコーポラティブハウスのスタイルを固めるよりも「こんなこともできる」と広げようとしてきたのも、そんな思いからである。だから、その定義はわかりやすく短い方がよいとも思う。
 家の欲しい人たちが集まり、協同して、つくる住宅≠ナ十分ではないだろうか。
 実際コーポラティブハウスの応用範囲は広く、いろんなまちづくりの場面で新しい可能性を切り拓いてきた。そこに必ずみられるのは、「住まいの中に住み手の意思がある」という現実。当然のようでこれまであまりみられなかった現実なのである。私たちにできることは限られている。でも住宅を取りまく忍従と閉鎖の関係から、自分を取り戻す、人と人のつながりを回復する、人間らしい気持ちや意欲を実感するという場を住宅のシーンでつくることはできるだろう。市民が主人公となり、連携し、自立する社会が待たれている。よりよい空間と人間関係はそこにいる人たちの生き生きと輝こうとする意思を強め、内から豊かにする力を持つ。その先に今日に生きる私たちの誰もが目標とする市民社会が見えてくる。まちづくりに携わる者なら、その志を失うわけにはいかない。