子どもが道草できるまちづくり
通学路の交通問題を考える

はじめに──道を子どもたちに返そう

仙田 満

道はそもそも子どものもの

 子どもたちの遊び空間には六つの原空間があると私は考えている。その中で主幹的なスペースとして、自然スペース、オープンスペース、道スペースを挙げる。かつて日本の子どもたちにとって、遊び空間の主役は道であった。19世紀後半に来日した外国人の日記や紀行文をもとにして著された渡辺京二氏の『逝きし世の面影』という本の中では、外国人が、日本の子どもたちが道で遊びほうけるに感嘆し、それを暖かく見守る人々の姿に驚いている。渡辺氏は「子どもの楽園」としてその章をおこしている。1924年、造園学者の大屋霊城が日本で最初に行った大阪での子どもの遊び環境調査でも「子どもたちはほとんど道で遊んでいた」と報告されていた。

1960年代半ばから道は子どもの遊び場でなくなった

 その道が子どもたちの遊び場でなくなったのは1960年代半ばである。自動車交通が子どもたちの遊び場としての道を奪ったのである。道で遊ぶことは法律によって禁止された。それまで、子どもたちの多くの遊び場のネットワークの機能を道が担ってきた。小川も空地も山も広場も公園も、すべての子どもたちの遊び場は、道という遊び場によって有機的につながれてきた。ところが道は遊んではいけないものとなったため、子どもたちはその遊び空間を一気に失ってしまう。道によってつながっていた多様な遊び場、遊び空間にアクセスしにくくなってしまった。その結果、1970年代半ばでは、遊び空間が大都市で20分の1、小都市でも10分の1に減少してしまった。それに代わるべき公園はというと、もともと日本は公的な空間、即ち公園というスペースが世界に比較して少ない。道を奪われたことによって、子どもたちは新たな遊びのツールとして出てきたテレビに向かい、外遊び時間は1960年代半ばを境に少なくなり、内遊び時間が逆転して増えていった。

コミュニティ道路はなぜ進展しなかったのか

 1970年代に入って歩車共存型の道路であるオランダのボンエルフ型の街路が紹介され、コミュニティ道路として事業化されたが、残念なことに、その後の都市への進展は遅れ、相変わらず車の交通の方が、人が楽しく歩くことよりも優先されている。今やコミュニティ道路という考え方さえ知られなくなってしまった。車中心主義の道づくりは、現在も日本の多くの都市に蔓延している。幹線道路はやむを得ないにしろ、細い街路をはじめ、生活道路には、車の進入制限、スピード制限、ハンプやボラードの設置など、やるべきことは多くあるのに進んでいないのは、住民自体がまだまだ車中心的な都市の考え方に支配されているからだ。

道が子どものもの、すなわち人間を主役にするものでなければ、都市は復活できない

 道が依然として自動車中心であり続けるということは、子どもたちが安心して遊ぶことができず、またお年寄りが路傍で休むこともできないということであって、地域の活性化も防犯上の安全性の確保もできない状況をさらに拡大してしまう。都市にとって最も重要なことは、道という公的な空間が安全で気持ちよく、歩いていて楽しいものでなければならないことである。子どもたちは道という空間を通して、子どもたちだけでなく、大人と交わり、様々なことを学ぶのである。道は子どもたちにとって社会性を学ぶ場でもあるのだ。

地域の再生は道の再生に他ならない

 子どもたちにとっても住民にとっても、道が再生され、多くの人や子どもたちが楽しく歩き、ジョギングし、遊び回れることによって、初めて地域も再生される。道は都市の廊下であり、都市の居間であるべきなのだ。いま、道は人々のものになっていない。自動車という、凶器にもなり得るもののためになってしまっている。道を人々に、子どもたちに返すことによって地域も再生できる。ヨーロッパの諸都市で実践されていることが、そしてつい40年前には日本でも実践できていたことが、なぜできないのだろうか。私たちは行政だけでなく、人々の意識を変える努力を続ける必要がある。