景観まちづくり論


はじめに

岐路に立つ都市計画
  東京市区改正以来、わが国の都市計画は百年を超える歴史を積み重ねて来たが、現在、大きな岐路に立たされている。
  「都市計画がないことにより都市の物的環境が混乱した時代から、都市計画があることにより都市の物的環境が混乱している時代に変化している」とのシニカルな指摘も出ている。経済成長が止まり、都市化が終焉し、人口が減少に転じ、日本の社会が大きな曲がり角にさしかかっている状況下にあって、社会背景の変化に従来の都市計画システムが追随できなくなってきている。
  今、「都市計画は誤らないか」を問う時代を迎えている。ゾーニングや都市計画道路など、都市計画を法の下で粛々と行うことが、実は、社会に対して大きな誤りを犯しかねない危険性をはらんでいる。あるいは、構造改革の名の下の規制緩和が都市計画の根幹を大きく揺さぶっている。誤ることのないと信じられていた都市計画のシステムがいくつもの矛盾を抱え込んで破綻しつつあるのではないか。目標となる都市像が欠如した状況にあっては、もはや都市計画による「規制・誘導」も有効な解決策を導くものではなくなってしまっている。
  一方、まちづくりは着実に経験蓄積を重ね、市民がまちの将来像を自ら描き、独自のルールをつくることや、まちの経営に積極的に市民が関与する例も芽生えている。市民のみならず企業もまちづくりに参画し、さまざまな利害関係者が合意形成をめざして「対話」する公共的なラウンドテーブルの設定も希求されている。
  地方自治が担うまちづくりのすべてを団体自治に委ねていた時代から、住民自治が団体自治のカウンターパートとしての役割を果たす時代に至るにはまだ多くの時間がかかることであろうが、この流れが加速していくことは想像に難くなく、それこそが成熟社会へわが国が向かうためのきわめて重要なステップである。
  市民も企業市民も、役人も専門家も、都市計画やまちづくりにかかわるひとびとはこうした大きな時代潮流の中で、それぞれどんな役割を期待されていて、どのような貢献ができるのだろうか。その大きなヒントが「景観」の中に込められていると私は考えている。都市空間の価値づけを経済的な評価の他に、審美的価値や文化的価値、それもグローバルな視点のみならずローカルな視点から再評価することが必要になってきている。
  都市空間に内在する美的価値や文化的価値を顕在化するものとしての明解な位置づけを「景観」に与えることができる。このような「景観」に対するアプローチは、多様な都市社会において共通の文化的な帰属意識の内から形成されるアイデンティティの醸成や、さらには「文化的市民権」の構築をすすめる上で、今後、きわめて重要なものとなるであろう。
  都市計画やまちづくりの成果が「景観」となって表出するという感覚を持つことによって、「景観」に宿る社会的な意味や共同体の記憶を解釈することができるようになる。「景観」とは過去と未来を結ぶ、そして、個人と集団を結ぶ公共的なメディアなのである。
  「景観」の有する力はとても大きなものがあるが、未だ私たちはそれを正しく理解しておらず、また、「景観」を活用して都市計画やまちづくりをすすめていく経験蓄積も乏しい。しかしながら、近代都市計画の抱える慢性的な課題を解決する力も「景観」に秘められているのではなかろうか。

本書のねらいと構成
  建築家でありアルピニストでもあった恩師の吉阪隆正は、最後の著作となった『生活とかたち』の冒頭で、「本書の内容は暗記して脳の中に蓄えることによって、役立つといったものではない。疑問をいっぱい持っていただければ、目的を果たしたことになると考えている」と述べているが、本書のねらいも全く同じである。
  学問的に必ずしも証明されていない仮説であっても、さまざまな考え方があることを受け入れ、他者の立場、他者の考え方、他者の反応を理解し、相互の矛盾をのりこえるアイデアを発見し、実行することが都市計画やまちづくりの分野では求められていると信じている。
  他者とのコミュニケーションの媒体となる空間的な表現のひとつが「景観」である。思想は、言葉の中で育まれ、姿や形の中に宿るのである。「景観」の有する力の存在を信じ、その力を最大限に引き出し、活用しなければならない。私たち、建築、土木、造園分野で物的な空間を対象に設計する職能は、「景観」を通じて社会的メッセージを発信する役割の一端を担っている責任について、あらためて自らに諭す必要がある。

 序章と2部12章から、本書は構成されている。
  序章は、私のスタンスを紹介する目的で、私が学び、現在教壇に立っている早稲田大学の建築学科において都市計画や景観設計がどのように教えられてきたのかを紹介している。興味のない方は読み飛ばしていただいても構わない。
  第1部は「景観まちづくりの思想」について述べている。
  1章は、「景観を眺める視座」と題し、「ここはどこ、私は誰」という根源的な問いかけが示すように、景観を眺める際に不可欠な「視座」と「主体」について論じている。
  2章は、「景観と景域」と題し、景観を考える際の基本的な命題である、「景観とは何か」「景域とは何か」を示している。また、明治期の景観という用語の誕生以来、百余年にわたるわが国の景観概念の変化をまとめ、近年、注目されはじめた「生活景」について、その社会的な意味を論じている。
  3章は、「都市美論をこえて」と題し、将来、景観批評分野が確立することを視野に入れて、都市の美醜の議論をこえた景観の公共性について論じている。
  4章は、「場所と空間」と題し、私が訳出してわが国に紹介したドロレス・ハイデン著の『場所の力』をひも解きながら、私が「地域遺伝子」と呼ぶ概念を論じるとともに、欧州で台頭している空間政策概念をふまえて、わが国の都市・農村計画の将来を展望している。
  5章は、「景観まちづくりの展開」と題し、外発的なまちづくりから内発的なまちづくりへ移行してきたわが国のまちづくりの変遷をレビューするとともに、新たに、外発と内発のハイブリッドな共発的まちづくりの方向性を示唆している。
  第2部は「景観まちづくりの実践」と題し、宮城県中新田町、愛知県足助町、山梨県早川町、熊本県宮原町、熊本県合志町、兵庫県城崎町、神奈川県小田原市ですすめられてきたまちづくりについて、景観まちづくりの視点からレビューするとともに、解説をこころみている。

本書の想定する読者、本書の読み方
  本書は、都市計画の研究者や学生、あるいは、行政職員や都市計画コンサルタントなどの職能を有する技術者のみならず、景観やまちづくりに興味を抱いている市民も読者として想定し、「景観」のもつ力や、「景観」の概念に内在する「風景」と「地域」の相互依存性を読者に伝えることをめざして、さまざまな話題に触れている。そのために、基本的な構成は理論から実践の流れになっているものの、はっきりとした起承転結のあるストーリーが明確な骨格のもとに示されているわけではなく、オムニバスな編集となっている。
  したがって、理論から学びたい読者は第一部から順に、一方、実践に興味のある読者は後半の第2部の事例から先に目を通すと理解を得やすいと思われる。

 本書を通じて、読者が「景観」を眺める新たな視座をもち、「景観」の有する潜在的な力を理解することを願う。その結果、「景観」からまちづくりの資源を発見するとともに、まちづくりの成果を「景観」として表現する「景観まちづくり」の実践にささやかながらでも本書が貢献することができるならば、著者としてこれにまさる喜びはない。