都市プランナー田村明の闘い


おわりに

 私が都市プランナーになった道は平坦ではなかった。戦争は終わったが、未だ何をしてゆくべきか全く見えない。戦争から も、結核からも生き延びてきた貴重なたった一度の人生をどう生きるべきかに悩んでいた。この世の中で、私自身がやるべきことがあるはずだ。たとい小さなこ とでもいい、そういう仕事を見つけたいというのが願いだった。
  私は学校で優等をとったこともないし、特別な才能もない平凡な人間だと思う。だが、広く総合的な仕事をしたいとは思っていた。それで、建築、法律、政治と 大学を三回も卒業した。他人からは何をしているのだと思われただろう。中央官庁にも何度も入った。特急でエラクしてくれるが、いずれも短期間で辞めた。仕 事には興味があるが、タテワリ官僚主義には抵抗がある。私という個性はとくに必要ではない。
  それなら仕事は生活の手段だと割り切って、文化的にのんびりと暮すのもよいと思い、民間会社に務め関西に住んだ。関西には京都・奈良があり、関東人の私か らみれば文化の奥行きが深く魅力的だった。会社ではさまざまな文化活動をやってみたが、満足できない。やはり良い仕事が欲しい。
  その頃、各地の地域開発が盛んになり、都市も地域も大きく変動しはじめた。しかし、大きな開発事業が行われても、全体のヴィジョンに欠け、地域の個性は失われかけていた。都市や地域づくりには総合的な見地が欠かせない。そこに私の道がある、とようやく決心した。
  人間は一人では住めない。集まってよりよく住むためには、地域の市民が総合的・長期的に考えてゆくべきだ。だが、地域の自治体も市民も、まだそのような行 動をとってはいない。専門家は細かく分化するばかりで、総合的見地をもたないし、中央官庁はセクト主義だ。そこで地域をサポートするために、地域や都市の 市民の立場に立って、総合的に考え、問題や方向を提案する〈都市プランナー〉という新しいプロフェッションが必要だ。未だプロとしては成立していない段階 だった。
  〈都市プランナー〉と言って、〈都市計画家〉と云う言葉を避けたのには理由がある。既に述べたように、官庁都市計画というものが、都市計画の本来持ってい る総合性を持ちえず、けっきょくタテワリの中にはまり込んでいることを知ってしまった。もっと柔軟で市民的な〈まちづくり〉という発想が必要だ。都市計画 とは言葉自体はいいものだが、官庁都市計画ではない新しい方法を市民とともに考え実行しなければならない。それがプランナーだ。
  〈建築家〉に対応する意味で〈都市計画家〉という者もいる。建築家は作品を造ろうとするのが目的だが、都市プランナーとは絵や図を描けばいいのではない。 理念を持ちながらも、その実現のために多くの人々の協力を促し、柔軟に事態に対応し動かしてゆくプロフェッションである。プロデュースやコーディネイトが 主な仕事になり、自分の作品を造るという立場ではない。
  また、「自分のところは都市ではなく田舎だ」などという人がいる。人間は自然に手を加え、集まって住む。その最も人間の集中した所が都市だが、今は都市以 外の地域でも、人口の密度以外、生活スタイルはほとんど変わらなくなっている。都市といっても、市街地ばかりでなく農村部も自然も総合的な環境として考え るべきだ。そこで場合により〈地域プランナー〉という言葉も使っている。ひろくハードもソフトも含め政策として考えるのが〈プランナー〉の仕事だ。
  幸い以前から知っていた浅田孝さんという、極めてユニークな人物との出会いもあり、プランナーを始めた。その後に飛鳥田横浜市長にも巡り合い、偶然に住ん だ横浜市で、都市プランナーとしての実践の場を与えられ、全力投入をすることができた。国、大企業、議会、市の内部などと毎日のように衝突を繰り返しなが ら、自治体が〈市民の政府〉としての価値観を持ち、独自の政策や計画を行う可能性を求め実践してきた。いずれも、つい昨日のように思い出されることばかり である。
  随分遅れたスタート―だったのだが、実践の中では何時のまにか〈まちづくり〉の先端を走るようになっていた。まだこの世界では硬直したタテワリ論理が優先 していて、総合的に考え実践する者がいなかったからだ。抵抗、衝突、説得、実行を繰り返し、新たな方法を模索する日々だった。
  その結果は、建築の世界から遠くへ飛び出したはずの私なのに、思いもかけず〈日本建築学会大賞〉を頂いた。また、官庁都市計画ではなく〈まちづくり〉が必 要だと主張してきたが、日本都市計画学会の五十周年には「功績賞」を頂くことになった。環境庁長官からも、環境を考えた〈まちづくり〉ということで〈特別 功労賞〉も頂いた。ひたすら現実のなかで前向きに実践をしてきただけだが、新しい道を切り開いてきた私の〈まちづくり〉の実践や研究に、客観的な評価を頂 いたのはありがたいことである。
  飛鳥田市長が辞めたときに、市長選挙にでないかと促す人々もいた。都市プランナーと政治家である市長とは、極めて密接な関係にはあるが、別な次元に立つ。 良識ある市長は〈まちづくり〉にとって極めて重要だが、私でなくても候補者は沢山いる。私はやっと到達したプランナーというプロフェッションに徹し、後輩 を育て、地域自治体を応援しなければならない。躊躇なくお断りした。
  たまたま、アラン・ジェイコブスの『サンフランシスコ都市計画局長の闘い』(学芸出版社発行)を見る機会があり、改めて横浜市での私の挑戦を記録しておき たいと思った。日本での都市プランナーは、どのようにして生まれ、また従来の官庁都市計画に代えて、新しい〈まちづくり〉がどのようにして育ち、また自治 体がその担い手としてどのように自立し、〈市民の政府〉とも呼ぶべきものとして行動できたかを、私の体験として語っておきたかったからである。
  学芸出版社の前田裕資氏にお話したところ、快諾を得た。だが途中に、私自身が肺炎に侵されるなどアクシンデントにあい、予定よりもだいぶ遅れてしまった が、やっと今回の出版に至ることができた。長くお待ち頂き、何かとお世話になった前田氏には厚くお礼を申し上げたい。

 話は飛ぶが、私が横浜市を辞めるころに、突然バクダッド市から横浜市に、「市のマスタープランをやってくれ ないか」という依頼があった。この国のマスタープランは日本とは違い、将来に渡り現実に実施するもので、その体制づくりまで依頼してきた。バクダッド市や 国土省の幹部はいずれもイギリスやフランスで学位を取り、批判能力はあるのだが、自ら策定するスタッフをもっていない。
  以前は社会主義国のポーランドのコンサルタントが詳細な計画を策定していた。ところが人口増加が爆発的におこり、間に合わなくなってしまった。サダム・フ セインは社会主義国とは距離をおき始めたから、もう東欧系には頼まない。西欧のコンサルタントは多くの分野で入っていたが、マスタープランという重要なも のを西欧に頼む気はなかったのだろう。そこで第三の国として日本に目をつけた。それも日本政府ではなく、横浜市に依頼しようとした。国家の大事とも言う首 都の詳細で現実的なマスタープランを、日本のしかも一自治体の横浜市に頼むというのも不思議な話だ。横浜の都市計画が優れたものだという情報が、そこまで 伝わっていたということだ。
  しかし、飛鳥田市長から細郷市長に交代してからの話だから、コトはうまく進まない。また、横浜市という自治体が外国の都市のコンサルタントを全面的に引き 受けるも無理だ。けっきょくは、民間のコンサルタントがコンソシアムをつくり対応することになり、正式に契約した。私が市を退職し大学に移った頃だ。私に 全体のチーフをやれという話もあったが、とてもできない。顧問ということでときどきバクダッドを訪れてアドバイスすることになった。
  日本チームは足かけ十年ちかくも、現地に常駐して計画に当たり、イギリスの大学なども下請けに使っていた。横浜市の職員たちは離れてしまったが、横浜の 〈まちづくり〉は思わぬところに国際的に飛び火して、実務的な評価をされていたのである。それからイラン・イラク戦争が始まり、仕事は延長また延長、つい に湾岸戦争になり、バクダッド市側の支払いが途切れ、残念ながらチームは解散した。
  この機会に、私は今まで全く知らなかったイスラムの世界、アラブの世界にも興味が湧いてきた。ことあるごとに世界の各地を訪れ、いまは百三十ケ国を超えて いる。日本の都市を欧米との対比だけでなく、イスラム、とりわけアラブ、ブラックアフリカ、中国、ヒンズー、中南米などとも比較するのは興味深い。バク ダッドの仕事は、私の目を世界や人類の文明の歴史に向かわせた。いずれの日か、二十二世紀の都市文明論を書きたいと思っている。

 日本の各地の自治体には、ようやく職員も育ってきたし、私が都市プランナーを志した頃は独りもいなかったプランナー は、その後ぞくぞくと現われてきた。新しく外国で学んだ人々も多くなったし、かつては一人もいなかったアーバンデザインも大学で教えるようになっている。 大きな進歩である。
  私は横浜市を退職後、〈自治体学会〉の創立に関わり、その代表も務めたが、今年は創立満二十年を迎えた。その全体会議で、自治体を〈市民の政府〉として考 えるべきだと提唱した。これは単なる地方分権を超える発想である。自治体が市民のモノとなり、主体性をもたなければ、〈まちづくり〉の面でも、個性ある美 しい〈まち〉にはならないだろう。この本が、そうした志を持つ人々に少しでもお役に立てれば、望外の幸せである。

二〇〇六年九月末  横浜・菊名にて  田村 明