都市プランナー田村明の闘い


はじめに

この本を書く意味・都市計画の問題点

なぜこの本を書くのか。
  私は若い頃、何を一生の仕事にするかを迷い続けてきた。中央官庁や民間大会社を経て、やっと三十歳台半ばになって、地域・都市プランナーを一生の仕事としてゆく決心をした。戦後の復興時代を抜けて、ようやく地域や都市が未来へ向けて大きく変動し始めている時代がきていた。世の中では、所得倍増計画がうたわれ、初めての〈全国総合開発計画〉の策定が行われている時に遭遇する。
  地域・都市プランナーとは、地域の立場に立って、総合的な見地からより良いものにしてゆく計画やアドバイスをして、地域づくりをサポートするプロフェッションである。随分遅いスタートだったが、この当時はまだこの分野をプロフェッションとしてやっている人々はいなかった。
  仕事を始めてみると、さまざまな厳しい状況に直面したが、都市計画と呼ばれる実態の限界にぶつかり、それを超える理念と手法が必要だと感じはじめた。そこで、緊張した実践の中で、新しい手法を創りだすことになる。
  市民参加や美しさは、当時は国も認めなかったが、それらを実践のなかで実現し、認めさせ、さまざまな手法を開発してゆくこともできた。こうした一連の動きは後に詳しくのべるように、「まちづくり」と総称される。当時の横浜市は、日本全国のなかで「まちづくり」の先端を行っていたと思う。
  現在の各地のまちづくりや自治体の活動を見ると、以前に比べて市民の力は明らかに向上してきたし、地方分権の一連の制度改革は、自治体の自主性と能力向上を求めている。
  それなのに自治体の活動は、以前に比べてみると、必ずしも活気があるとはいえない。確かに金もかけ、立派にデザインされた施設も多く生まれた。だが、「まち」をより良いものにしようという意欲や積極性は後退しているものさえある。状況も良くなっている今日こそ、もっと、自治体の「まちづくり」が意欲的であって良いはずだ。
  現在のやや硬直した自治体や職員の姿をみると、私の体験した「まちづくり」は過去のことではあるが、現在でも十分に参考になるものを含んでいると思う。
  二〇〇〇年から〈地方分権一括法〉も施行されたが、都市計画、まちづくりに携わる人々にとっては、いかにしてより良い都市をつくってゆくかの実務的な手法が求められる。そこには、単なる知識ではなく、総合的に発想し、それに基づいて行動できる知恵と、地域を愛する思いと、障害にあっても負けない気力と、これを突破できるエネルギーが必要だ。私の実務に当たっていた時期は、金もなく権限もない状況だったが、時代を動かし、国の考えも変えさせることができた。
  その時代に比べて、現在ははるかに障害も少なくなっていると思われるのだが、かえって金がないとか、難しい状況だと言って、自らを硬直化した状況に追いやっているように見える。金は必要だが、沢山あれば良い〈まちづくり〉ができるというわけではない。ひと昔前に比べれば、ずいぶん豊かだ。それなのにやや閉塞感のある現在こそ、人間の本当の知恵と行動力が問われている。
  このところ、法制度も大きく変わっている。それらは地域の自立を求める方向にあり、あるべき方向に向かっているとは思う。
  しかし、制度は所詮、枠組みに過ぎないから、制度改革だけではコトは動かない。私たちがやっていた時代には、制度は現在よりもはるかに不備だったが、それでも新しい手法を開発してゆくことはできた。また制度も「まちづくり」の観点から使いこなしてみた。法例墨守に終わらない知恵と実践が必要だ。
  ここでは、それらについて私の体験に基いて、できるだけ詳細に述べてみたい。そこから、現代にあっても、新たに自ら考え実践する自治体の技を学んでもらいたい。
  どんな状況にあっても、意欲と知恵を持って当たれば、より良い地域・都市づくりができるはずである。この書物から、少しでもそうしたことを汲み取っていただければ、望外の喜びである。

本書の三つの目的

  この書物の第一の目的は、都市計画と言われるものから、「まちづくり」へと変わってきた流れを、私の実体験を通じて述べることである。
  中央官庁主導、ハード優先の都市計画から、市民や自治体を主体にした個性的な「まちづくり」へという流れは今や誰が見ても明らかだが、私自身それを横浜市という現場で実践してきた。すでに歴史的な事実になっているものもある。だが、たんに過去の事実ではなく、現在に通用する基本原則や手法が多く含まれていると思う。とくに、自治体にいて「まちづくり」や自治体運営に携わる人々には、なんらかの参考になるはずである。
  第二の目的は、現在の地方分権一括法以来の自治体は、〈地方分権〉を超えて〈地域主権〉だという声も聞かれる。私は自立的な自治体とは、市民のためや市民によることはもちろん、市民のモノである政府、つまり〈市民の政府〉であるべきだと思うようになってきた。
  横浜市現職の時には、〈市民の政府〉と言ったことはないのだが、現在その目で見返してみると、横浜市での私たちの実践は、すでに〈市民の政府〉の先取りであった。まだまだ不十分な点は多いのだが、地方分権一括法以前でも、かなりのことが実践できたように思う。
  その観点でみると、横浜で私たちのやってきたことは、これから〈市民の政府〉を目指す人々の実務的な参考にもなるはずだ。法律も改正され、もっとやりやすい状況になった現在、真の〈市民の政府〉を実現する方向を進めてもらいたいと考える。
  第三の目的は、私自身がなぜ、このような仕事をするようになったかを述べておきたかった。
  〈田村さんは、なぜそこまでやるんですか〉とときどき部下に言われた。私にとっては、ただ職を得てサラリーを貰っている所ではなく、私の生きる場だったからである。そうなっていったプロセスの一端を付け加えさせていただいた。それは一人の人間の生き方だし、一つのプロフェッションが出来あがってゆく過程でもある。
  この本は理論書ではなく実践の書である。私の実践体験を通じて、「まちづくり」を実際にどのように挑戦し、それを実現していったか、またどのような困難や障害があり、どのようにして乗り越えられたのかという実態をできるだけ述べたつもりである。
  そこから他でも通用する理念や理論も生まれてきている。私の「まちづくり」理論があるとすれば、すべてこれらの実践を通じて形成されていったもので、この書物は実践的理論の書とでも言えるだろう。
  ただし理論先行ではなく、あくまでも現実ありきから始まっている。そこでは、行き当たりばったりや一時のごまかしではなく、一つの筋を通してきたつもりである。
  すでに相当な年数も経ているので、人名についてはできるだけ固有名詞も使わせて頂いたが、若干はあえてぼかしたものもある。特定の個人攻撃というニュアンスになることは避けたかったからである。個人がそのときに組織や状況の代弁者であった場合は、組織名を示すことで十分であろう。
  人名はそのときの役職で呼ぶこともあるが、すべて敬称は略させていただいた。先輩に失礼な面もあるかとも思われたが、現在存命している方を含め、平等に扱わせて頂いた。すでに歴史的事実になっているので、登場人物は敬称なしのほうが客観的だと思うからである。失礼をお許し願いたい。

都市計画の状況とその限界

  〈都市計画〉とは、いい言葉のはずだった。
  急速に近代化してゆく都市は、都市を形成してゆく各種の官庁、企業、団体、個人などさまざまな主体の個別事業の集積として形成されてゆくが、都市を全体として考えている者がいない。公共機関も所管別に、それそれの縄張りの論理を持っていた。これを放置しておけば、個々の主体の権益や利益だけが優先し、都市という一つのまとまりにはならず、バラバラに形成されるだけだ。
  そのままでは、都市は複雑で巨大になるばかりで、混乱と汚濁に陥ってしまうだろう。その結果は、個々の主体にも跳ね返り、自分のためにと思ってきたことが、逆の結果になりかねない。とくに産業革命以後の急速な都市形成は、一方において工業社会の繁栄と豊かさをもたらしながら、他方では都市を不衛生と生活の貧しさに陥れ、質を低下させた。
  そこで、都市を総合的・長期的な観点にたって整備し制御する「計画」という知恵を働かせて、安全で快適な場になるように形成してゆこうという手法が「都市計画」である。日本では、大正の初期にこの言葉が使われだしたが、一九一九[大正八]年には「都市計画法」というかたちで、一つの実を結び、全国の主要な都市を法によって整備することになった。
  この考えは良かったのだが、「都市計画法」の成立当初から問題は山積していた。まず、当時の国会の審議では、本来の都市計画の目的である「総合性」について反論が強かった。
  それは、すでに成立していた縦割りの鉄道、河川、道路、港湾などの権益をもつ官庁からの強い反発である。そこで、それらの既得権を侵さないという妥協によって、やっと法律が成立する。これでは、中央官庁間のタテワリが放置されてしまい、いったい何のために都市計画をするのかも分からなくなった。
  その結果、現実に行われている都市計画は、都市全体を計画するというよりも、まだ既得権をもつ官庁がなかった街路(幹線道路とは別の)や、公園という事業を行うことが中心になる。
  一般の人にとっては、都市計画とは土木中心の街路事業のことだと受け止められてしまったのは、こうした成立時のいきさつからだ。事実、県や市町村の都市計画課長には、土木の技術屋が占めることが多い。〈計画〉よりも〈土木事業〉が優先した結果である。
  また、当時の大蔵省からは、都市整備には金は出せないという強い反発がでた。それでは、都市計画を行えば、土地の価値が上がり価格も上がるので、「土地増価税」を取って都市計画の財源にしようという案も出たのだが、うやむやにされてしまった。
  さらに現実の都市計画では、土地所有者の反発は強く、関東大震災後の復興という非常のときでさえ、抜本的な都市計画はできない。東京市長を勤めたあと、震災後に内務大臣兼震災復興院総裁という強い権力をもった後藤新平でさえ、その壮大な都市計画案は、土地所有者の力を代弁する有力政治家の前に屈して、彼の理想は生かしきれなかった。
  とりわけ日本の都市計画法で問題だったのは、都市市民や自治体の役割がまったく無視されていたことである。市民はただ国家の強権に従うだけの存在であった。また、自治体は自らの都市を計画するのではなく、国で決めた都市計画事業の実施機関という位置づけしか与えられていない。このように、都市計画の計画主体からは、市民や自治体は排除されていた。
  さらに、都市計画において重要な質の観点、たとえば美しい空間構成への配慮も、ごく一部に入っただけで、大きな趨勢にはならなかった。また、一部美しさを取り上げるにしても、権力の権威を示すのが主な狙いで、市民が自分たちの「まち」に誇りと愛情をもつための美しさではなかった。
  もちろん一部の先覚者には優れた理念を持っていた人々もいた。後藤新平は「市民自治」こそが基本だと唱えた。大阪市長だった関一は「住み心地良き都市」が優先で、事業はそれを実現するための手段であると述べる。さらに、都市計画はただの土木技術や事業ではなく「文化技術」だとした石川栄耀などもいたが、実際には生かされなかった。都市計画は理念に乏しく、肝心の総合性という実質が欠けたままだった。
  大正年間に後藤新平の招きによって来日したC・ビアードは、日本の都市には、一元的に計画し制御する主体がなくバラバラだと、鋭く指摘した。

「まちづくり」の登場
  戦後、主権在民の民主国家として生まれ変わった日本は、憲法に「地方自治」の一章を入れるなど大きな変化はあったのだが、こと「都市計画」については、戦前の状態がそのまま継続され、都市計画法が改正されたのは、戦後二十三年を経た一九六八年のことだ。しかしこのときの改正でも、中央集権体制、自治体の軽視、市民無視という姿勢は変わらなかったし、戦後は効率性偏重という新たな原理が加わった。
  せっかくの「都市計画」という良い言葉は、市民から見ると、自分たちの権利を官という「お上」の権力によって、上から押さえ込むものだと考えられ、実態もそのようになっている。本当は、都市に住む人々が自分たちにとって、都市はなくてはならないものだと意識し、その複雑な存在を、自分たちの手によって協働して制御し、住民全体にとって好ましいものにしてゆくことが必要だったはずである。
  ようやく一九六〇年代に入ってから、反対運動のかたちで始まった市民活動が、次第に自らの手で地域をよりよくしてゆこうという建設的なものに転換し活発になってゆく。また先進自治体では従来の都市計画の欠陥を改め、総合的で地域の自立的な都市づくりをしようという動きが出てきた。
  一方では、従来の都市計画では対象が限られているために、都道府県や主な都市が〈総合計画〉あるいは〈長期総合計画〉など都市全体のことを捉えようとしていた。これは主に大学研究室の指導によって行われるようになった。
  「市民参加」はこの時代に、横浜市の飛鳥田市長から提起される。始めは強い反対と抵抗があったのだが、ついには全国的な流れになり、今日では当然のこととして認められている。
  こうした市民や先進自治体による一連の流れは、それまでの官僚的でハードの、それも部分的なものに限定されていた「都市計画」という用語では収まりきらないものを感じていた。
  しかし、〈総合計画〉という用語も、市民的には硬すぎる。そこで私は自治体のなかでも「まちづくり」という言葉を使うようにしてきた。「まちづくり」は専門用語であるよりは市民用語であり、これが使われるようになってから、市民にはずっと身近な存在になってきた。また市民自らの行動にも「まちづくり」という言葉で表現される。
  「まちづくり」のためには、ただ理念を述べ、図面に線を引き、色を塗り、美しい文章や数字で計画を提出すればよいという従来の静態的な都市計画ではすまない。手続きを主にした官庁都市計画や、大学の理念や分析優先の研究とは違う手法が必要である。
  これまで受動的だった自治体の姿勢を積極的なものに改め、またタテワリでバラバラだった行政に横糸を通して総合的なシステムに変え、主体性をもち動態的な行動ができることが必要だった。市民参加もさまざまな形で行い、自治体が中央の出先機関ではなく、市民の立場に立って政策を実践する市民の政府として機能するようになってきた。
  私は中央官庁や民間大会社の経験があり、中央官庁の欠陥や民間のできることとその問題点も分かっていたのが役にたった。こうした一連の動きは、都市計画法に基づく官庁都市計画では収まらない。始めは〈都市(まち)づくり〉〈街づくり〉〈町づくり〉などという用語も使ったが、平仮名の「まちづくり」が市民的で総合的な用語であり、一番相応しいと思った。
  現在では「まちづくり」という用語は中央官庁にまで波及し、かつて中央政府が否定した美しさも推奨されるようになり、二〇〇四年には「景観法」が制定された。
  しかし、これらを単なる流行(はやり)現象として扱うことには異論がある。〈まちづくり〉は実践の過程の中で、多くの障害や困難を乗り越えて生まれ、実現されていったもので、単なる流行として行われたものではない。
  地域の主体性や総合性とはどのようにして実現できるのか。どのように市民を中心に地域の力が発揮できるのか。それらを実現するための自治体の組織や人材のあり方をどうするのかはまだまだ試行錯誤の段階にある。

田村明