江戸東京の路地


はじめに

 東京流転
  子供の頃の原体験が路地を考える切っ掛けになったといえば、多分に大袈裟な話になってしまう。だが近頃、東京の路地を意識して、街を歩き回るようになってから、路地体験が私なりにあったと感じはじめている。
  明治生まれの私の祖父や、大正生まれの父親がともに次男であり、江戸時代から住まいがあった四谷の江戸市街の外れから、明治、大正、昭和と、郊外地へと少しずつ移り住むことになる。祖父は四谷に生まれ、父親は池袋にほど近い椎名町で育つ。そして、私が生まれた場所は郊外の中野区宮である。もう半世紀も前のことなので、その頃の記憶が定かではないが、生まれた場所の周辺は、少し歩けば田園風景がまだあったように思う。
  最寄りのこじんまりとした駅を降り、数分歩いたところが私の生家であった。今では、当時の様子をうかがい知る面影はあまりない。また、生家といっても、大家の家が隣にあり、大きな敷地の半分に家作が建てられたものだ。その一戸に、両親は住まいはじめる。そして、この場所に私の路地の原体験が詰め込まれている。

門と井戸のある共有空間の原体験
  大家の敷地には、南側に母屋が建ち、北側の空地に家作が建てられた。大家の建物の配置からすると、勝手口に当たる場所に門があった。それは、大家の家業が大工であったことも理由としてあげられそうだが、借間住まいには似つかわしくない多少見栄えのする門である。借家人の私たちは、公道からその門をくぐり、中央の空地に入る。広場的な空地を取り巻くように家作の建物が建てられ、その左側の家作の一角に私の住んでいた貸し間があった。玄関が共用で、そこから1階と2階の各戸に振り分けて入るようになっていた。4畳半と台所兼用の3畳間の生活がはじまる。
  門から入った空地の奥には井戸があった。物心ついた時には水道が引かれていたと思うが、この井戸もまだ現役であった。飲み水としては保健所から許可されていなかったが、炊事洗濯など飲み水以外は、この井戸水が使われた。中庭は小さい子供の遊び場でもあったし、洗濯物を干す場でもあり、暑い夏は井戸の水を汲み、打ち水をして夕涼みの場にもなった。
  大家に気兼ねをする親たちの気持ちをよそに、門を潜り、中庭に入って家に辿り着く行程は、当時どことなく豊かな気持ちにさせられた。自由に遊べる私的な空間があることもたまらなかった。だが、あの中庭的な空間が路地であったのかと、思いあたるまでに半世紀が過ぎたことになる。その間に門や路地のある生活からは疎遠になったことも、理由としてあげられるかもしれない。

今、路地に向けられつつある眼差し
  それから半世紀は、路地の奥での生活をしていなかったこともあり、身の回りのことで路地のことを意識せずに過ごしてきた。ただ、路地が気にならなかったわけではない。東京の街を30年以上も徘徊していて、魅力的な路地にもその間、数多く出会っていた。
  だからといって、路地が都市計画や街づくりに重要な役割をになうなどとは思わなかったのだが、銀座を研究しはじめた十数年前から路地が気になりはじめた。それは、自分の生まれた場所の懐古ではなく、街にとっての路地の重要性が銀座の研究を進めるにしたがって増殖してきたからである。路地を考えることは、懐古趣味ではなく、街づくりの大切な要素であることに気づかされるようになる。
  以前は路地と街づくりの話をからめると、「たかが路地ごときにめくじらをたてるな」という声が聞こえてきたが、今はもうそのような組織だった罵声は聞こえてはこない。彼らも愛用していた魅力的な路地が失われたせいだろうか。
  そればかりではなく、変化の兆しを街中で感じる。休みの日など、路地を歩いていると、路地歩きをする人たちが多くなっていることに気づく。全国で路地の魅力に関心が高まり、様々な保存再生の試みがはじまっている。また路地サミットやロジモク研究会など、路地を語り、考え、体験する場が盛況であり、趣味的な関心ばかりではなく、専門家の関心も高くなりつつあるように思える。
  本書は江戸東京の路地に焦点をあて、時代ごとにどのような路地が生まれ、あるいは変化してきたかを見ていくことにより、路地の成り立ちと魅力をソフト(人々の営み)とハード(形態)、及び深層に秘める場の履歴から明らかにすることが狙いである。加えて、路地探訪のガイドブックとしても使えるように配慮した。本書を片手に、路地を身体感覚で捉えなおしていただければ幸いである。

岡本哲志