美しい都市と祈り


はじめに

■美しい都市とプライド
  今から約5年前、しばらく外国で暮らす機会があったので、世界各国の都市を見てみようと思った。勿論、短い期間で世界中の都市が見られるわけではなく、しかも、観光旅行に少し調査やインタビューを加える程度で、「研究」などとはほど遠いものであった。しかしそれでも日本の都市を相対化して見るというようなことだけはできたのではないか。当たり前といえば当たり前だが、日本の都市と外国の都市を比べてみるとはっきりと違っている。どこがどう違うのかといわれれば、抽象的には歴史や文化を含めた思想の差が、大きな差となってあらわれるようになったということである。
  戦後、日本は、例えば年間の建築棟数が年々100万を超え、投資額も一棟あたり平均1億円とすると、毎年100兆円を超えるような圧倒的な資金を都市に投入してきた。これにインフラ整備としての公共事業を加えれば、その額は天文学的な数字になり、またそのスピードも著しく速い。超高層ビルをはじめとして、鉄、コンクリート、そしてガラスでできた高いビルが増え、道路も公園も広くまっすぐに、またこぎれいに整備された。自動車が走り回り、マクドナルドやセブンイレブンなど世界的なチェーン店が目立つ。この様な傾向を都市の近代化、あるいはグローバリゼーションというとすれば、これは日本だけでなく、世界中どの都市にもみられるといってよい。
  しかし、それでも外国の都市を注意深く見ると、超高層ビルはどこにでも建っているというわけではない。また自動車道路は徐々に歩行者や自転車のための道路に変身し始め、町には自動車に代わってスマートなライト・レール(路面電車)が走るようになった。ある都市では、マクドナルドの赤と黄色のデザインをその地域に合った色に変えさせ、その他のチェーン店のデザインもできるだけ突出しないようにしていた。そして何よりも住民が自分の都市にプライドを持っているように見えた。この都市住民がプライドを持っているかどうかという論点は、日本と世界の大きな差異であろう。近代化や民主主義という単語が、ここではまだうまくいえないが、日本ではむき出しの商業主義や自分勝手になっているのと異なって、諸外国では何かコントロールされている。そしてこの何かコントールされている、という感じの「何か」というものを探し求めているうちに、不意に「美」という「質」を表す重要な基本概念が再び頭を擡げてきた。
  実は、都市の美の探究は初めてのことではない。私は今から15年ほど前、神奈川県の真鶴町というところにたてこもって「美の条例」の制定に没頭した(この経緯と内容については、五十嵐ほか著『美の条例』(学芸出版社、1996年)参照)。美しい都市を創ることはそれ以来の眼目であり、外国の諸都市を見ているうちに、もっと大きな文脈の中で再びこれが急浮上してきたのである。「条例」で制度的に保障してこと足れりとするのではなく、もっと突き詰めなければならない。もっと何か本質的なことを加えないと美しい都市は実現できないと、強く思うようになったのである。
■景観法と景観裁判
  では、当の真鶴町の条例はどうなっているのか。端的にいえば、条例制定当初の目論見とは異なって、なかなかうまくいかないのである。「美の条例」によって、確かにバブル当時のめちゃくちゃな開発は止めることができた。住民はほぼ30年に一度くらいで住宅を建替えるとされているから、15年も経てばそろそろ美の基準に基づく建物が蓄積され始めてよいはずであろう。しかし率直にいって、そのようなものはほとんど見えないのである。その原因としていくつか挙げられる。美の条例は「創造法」だと強調してきたのが、やはり「規制法」と受け取られ、これへの抵抗がなくならない。そして再び開発待望論が勢いを増してきている。
  もちろんこの背景には、長引く不況のもとでこのままでは町が廃れるという意識が充満している。これに全国どの町でも抱えている「少子・高齢化」の波と農業、漁業、石材業など第一次産業の縮小が重なる。開発待望論は、開発によってこの停滞した町に刺激を与えたいという、実に率直で強い要望に基づく。私達の主張は、美しい開発こそが町を発展させるというものであるが、最後は「美しい」かどうかは主観の問題であり、それを条例などで強制するのはおかしい、と反論されるのである。
  またこの間、約10年くらいの公共事業研究の中でいやというほど体験させられてきたことであるが、開発は何も土建業者や官僚の専売特許ではなく、肝心の地元住民の強烈な欲求にも基づいているという事実も見逃せない。開発(公共事業)は住民の要求があり、しかも首長や議会が賛成しているという、いかにも「民主主義」の道理にかなっているかのような論陣が張られる。真鶴町でも図書館の建設をめぐって、この建物はコンクリートとガラス張りで、町にそぐわない「近代建築」であり、美の条例に違反しているという私達の批判に対して、それは条例に違反しているかどうかに関係なく「住民参加」によって建てられたという町長の答弁に端的に見られるように、いかにももっともな建前によって反批判されたのである。
  住民は真に美しいものを望んでいるのかどうか。これに回答できない限り、先に進むことはできない。そこで、世界ではこうした問題に対してどう考えられているのかを探求しようとした試みの第1弾が、前著『美しい都市をつくる権利』(学芸出版社、2003年)であった。
  そこでは、ハワイのコナ、イギリスのエディンバラ、アメリカのコロンバスにはそれぞれの都市の美しさがあり、それは自治体と住民の協力によってできていること、反対に、それらの都市と同様な美しさを持っていた広島県福山市の鞆の浦、群馬県新治村、そして東京都国立市が、自治体の懸命の努力にもかかわらず、あるいは自治体の背信によって、いかにも頼りない状態になっていることを見た。そして大局的には、世界はグローバル化が進めば進むほど、それに逆襲するかのように地域の文化や歴史、ひいては個性などを求めるようになっており、その強化はそれぞれの国のもっとも根本的な政策である「憲法」にも明記されていることを見たのである。
  日本でも本当は、国民は美しい都市に住みたいと欲している。だから、それを権利として保障しなければならない。美の条例もこの様な基本的人権の集合体としてつかまえなければ、求心力をもたない。そして私の「権利論」の終着点は、日本国憲法で国民の「美しい都市をつくる権利」を保障すること、及びこれを阻害している現憲法29条の「土地所有権の絶対性の保障」を改めよ、というものであった。
  そしてその後、この様な主張に沿う政府の動きと、これと逆行する司法の動きがあった。
  一つは、無骨なコンクリートで山、川、森を破壊し、規制緩和で都市をメチャクチャにしてきたさすがの国土交通省が、ようやく「景観」の価値を認めたということである。国土交通省は、「この国を魅力ある国にするために、まず、自ら襟を正し、その上で官民挙げての取り組みのきっかけをつくるよう努力すべきと認識するに至った。そして、この国土を国民一人一人の資産として、我が国の美しい自然との調和を図りつつ整備し、次の世代に引き継ぐという理念の下、行政の方向を美しい国づくりに向けて大きく舵を切ること」(「美しい国づくり政策大綱」2003・7)とし、それを具体化するものとして景観法が制定された(2004・6)。
  もう一方の司法の動きというのは、『美しい都市をつくる権利』でも取り上げた、東京都国立市で大学通りの並木の高さ20メートルを二倍も超える約40メートルのマンションがこの地の景観を壊しているかどうかが争われた事件で、東京地方裁判所がこのマンションは景観を害するとして20メートルを超える部分の撤去を命じたのに対し、控訴審である東京高等裁判所がこれと正反対にこのマンションは合法だとしたことである。
  なぜこの様な違いが出てきたか、これが主観性の問題である。地裁判決も高裁判決も、美しい場所というものが客観的に存在していることと、大学通りがそのような場所であるということについては一致している。しかし、この客観的に存在している美しい場所に対して個人がどのようにかかわるかはまったく正反対の判断になった(表1「国立市マンション撤去訴訟における地裁判決と高裁判決の比較」)。
  地裁判決は、この美しい場所は当該土地所有者らが自己の利益を犠牲にして長期に維持してきたものであり、その美が土地所有者らはもちろん、社会的にも共有されているとする。そして個々の土地所有権者は、土地所有権から派生する「景観利益」を有するに至ったのであり、この景観利益の侵害は建物の並木を超える高さの部分を撤去しなければ救済できないとした。
  これに対して高裁判決は、客観的に美は存在するが個々人のかかわり方は様々で、景観の良否の判断は主観的であり、多様なものだとする。そして「新しい人権」が権利として認められるには、その内容や範囲が明確で具体性があり、第三者にも予測、判定することができなければならないという。しかし景観の利益はそのようなものではなく、権利としては認められないので、建物の撤去請求も認められないとしたのである。
  私の美しい都市への権利論が、前者を支援し、後者を克服できる射程距離をもっていれば、紆余曲折はあるものの、私の作業もこれでひとまず一服というはずであった。しかし歴史はここでも単純ではなかった。
  景観法施行後、多くの自治体が「景観行政団体」に名乗りを上げた。ちなみに真鶴町も全国で最初の景観行政団体になり、あらためて美の条例の再検討を行なおうとしている。また、東京高裁の判決にもかかわらず、全国で同様の裁判が戦われ、住民は一歩も引いていない。そして、これまで開発のリーダーと目されてきた都市計画家の伊藤滋早稲田大学教授が、景観法策定のリーダーの一人として小泉総理大臣や経団連会長などに働きかけて景観≠盛り上げようとしていることも、やや官制のものという気配もないではないが、それなりに認めてよいことだろう。しかし、これらの努力にもかかわらず、東京における超高層建築の乱立や、地方都市におけるシャッター通りの拡大に典型的に見られるように、一方的に景観破壊が進んでいるというのが現実だ。それは何故か。
■美と祈り
  景観権の確立の根本には、まず美しい都市をつくるという個々人の意思とそれを受け止める人々とのコンセンサスが必要である。景観が現在危機的状況にあるのであれば、守っていかなければならず、また、なくなってしまったのであれば、新たに創らなければならない。それには何が必要か。美しい都市をつくる権利論を書いた後も、しばらく私の頭をこのテーマが支配していた。その頃、幸か不幸か私自身病気になり、また身近なところで不幸が相次いだ。そのせいか、ある単純な真理を、勿論それまでも頭の中でわかっていたことではあるが、なんと表現したらよいかよくわからないが、とにかく、ずしんと体に響くようにして気づかされたのが、人は必ず「死ぬ」ということであった。
  そして決定的なことは、臨終にあたって、死ぬ人も見送る人も、みんな何かに「祈る」ということである。その時ふと、この「祈り」というものと「美しい」ものとがどこかで通底しあっているのではないか、と思ったのである。そして、あらためて世界遺産とか文化財など誰もが美しいと認めるもののほとんどが、「宗教」とかかわっているということの意味がわかってきたのである。
  「祈り」には、勿論深いものから浅いもの、祖先崇拝や占い師、あるいは自分だけのジンクスや長い習慣など様々な形態がある。祈りは、最終的に「死」と結びつき(死ぬということがなければおそらく祈りも存在し得ない)、この「死の形」をそれぞれの方法で体系化したのが「宗教」である。宗教は個人や民族の信ずるものによってこれも様々だが、通常は教義、僧侶や神主、あるいは司祭といった存在、そして寺院、神社、教会などといった建物、そして仏像、キリスト像などの法具の保持、さらには信徒を有している。宗教とは、この祈りを、精神的にも、また物的にも組織化したものといってよい。そして宗教にとっても、あるいは美にとっても、後にみる大本教の聖師出口王仁三郎がいうように、互いにそれが不可欠の存在だとしたら、美の原点も核心も建物や法具だけに限らず、例えば僧侶の生活や着物、あるいはたたずまい等を含めて、この一連の「組織」の中に凝縮されていると一応は考えられるであろう。もっとも、あのオウム真理教が山梨県に建設した「サティアン」のような、およそ美とは正反対の位置にあるバラック建ての「倉庫」に見られたように、宗教ですら美とは無関係になったかのような時代に入っていることも事実である。
  あえていえば、「坊さんの堕落」を含めて、今や宗教は決して尊敬や信頼の対象ではなく、むしろ反対に、これが宗教者のすることなのか、と驚くことが多い。宗教が、一般的にいわれているように──オウム真理教があってもなくても──ほとんど大勢に影響をもっていないというのも、これまた正解なのである。にもかかわらず、それを含めて美の再構築のためには、宗教の研究が不可避だと思えるようになった。
  旅は、ある日何人かの友人とともに偶然に「高野山」(真言宗)を訪れることから始まり、次いで天台宗の平泉中尊寺、そしてこれらとは様相を異にする、いわゆる新興宗教の天理教と大本教、さらに祈りが地域化している沖縄県の久高島と東京の巣鴨を訪ね、そして第2章7節の「密厳浄土 再び高野山」に記したような事情で、もう一度「高野山」に帰るという構成となった。この間、仏教についていえば平安仏教だけでなく、奈良や京都、あるいは鎌倉の寺なども訪ねたし、また仏教だけでなく、日本にあまり根付くことのなかったイスラム教のモスクやキリスト教の教会なども訪れている。そういう意味でいえば、この間、私は宗教づけであった。その中で活字になったのが本書でとりあげたこれらの事例であった。そして私にとって、様々な「神」の中でなんといっても「空海」の影響が圧倒的であった。それが「再び」という理由である。
■祈りと宗教
  人は、自分自身の意思で、いつでもどこでも、またどのような方法でも自由に祈ることができる。これに対して宗教は、ある特定の日に、決まった場所、決まった方法で祈りを組織化する。人々が日常的な祈りという段階を超えて宗教に接するとしたら、宗教側のこの様な存在形態をある程度受け入れなければならない。しかし、多くの日本人はこの一線を留保したまま、正月は近くの寺や神社へ、お盆の時にはそれぞれの菩提寺へ、クリスマスの時はケーキ屋へ、というように幾つもの宗教と広く浅くほとんど便宜的に付き合っている(キリスト教やイスラム教などの一神教の信者はこの様なことはない)。ここではこの様な平均的日本人を念頭において論を進めたい。
  さて、美と祈りという観点から宗教を見た時に何が見えるかといえば、なんといっても寺や神社、あるいは教会という独特な建物と、そこに安置されている仏像やキリストの像、そしてそれらを囲むこれまた独特な境内地の構成であろう。「神」はこの建物と像と境内地に存在する。神の存在の構造を空間的にいうと、宗派を問わず、おおよそその空間の最深部に仏像やキリストの像をもち(勿論「偶像」を持たない宗教もある)、それらが「神」の形を具体的に提示している。そしてそれらは神秘的であればあるほどありがたく、神秘性を強調するために、まったく姿を見せない「神」もある。人々はその前で頭をたれ、合掌し、さらには賽銭や供物を捧げる。神の顔を見ながら、あるいはお経や賛美歌を聴きながら祖先の行く末や成仏を想い、また同時にそれぞれの現世利益(健康、合格、交通安全、安産などなど)を願っているのである。
  そして神のおわす空間が荘厳であればあるほど、そしてその神を包む建物が偉大であればあるほど、さらにその建物を包む境内地が静寂で秩序だっていればいるほど神と祈る人の間に信仰が生まれ、その関係が濃密に強められていく。その際に祈る人(信者側)に生まれる心情が「悟り」「救済」といったものだと理解したい。勿論、日本の神道のように神はこれら具象化したものにではなく、石や草木そのものに宿るという宗教も存在するが、しかしその神道でも、「神社」や「鳥居」は神の形を知らしめるという意味で、やはり形というものを持っているのである。
  それでは、この「救済」や「悟り」といった心情と「美」はどういう関係にあるのであろうか。端的にいって、人々は仏像や寺などその対象があれば祈りは具体的な姿をとるが、はっきりいってまったく何もないところでも祈ることができる。歩きながらでもトイレや風呂の中でも祈ることができる。その意味で祈りは心のうちにあるのであり、神の顔すら思い浮かべなくてよいともいえるのである。祈りの底辺は多様で無限大なのである。
  一方、「美しさ」もこの様な宗教的な時間や空間でなくても、いたるところにみつけられるし、接することができる。例えば薄汚れたスラム。確かにそこは不衛生で気味悪いが、それでもそこで人間が生活しているという事実が、ふっと何か「美しさ」を感じさせることがある。また日本語の用語法として、美は神や宗教空間といったものだけでなく、食べ物(美味)、女性(美人)、絵や音楽といったものにも存在し、その感性や形も一様ではなく、漠としてとらえがたい。そこには必ずしも神や祈りは存在しない。この様な文脈でいえば、この「美」のほうの底辺もおよそ限りがない。
  しかし、私が前著『美しい都市をつくる権利』で詳述したように、カリフォルニア大学バークレー校のクリストファー・アレグザンダー(*1)は、世界中におけるあらゆる「存在」(空気、水、土といった物質的なものだけでなく、人間が関係する生活やイベント、あるいは思想等の全体)の中に「生きているもの」と「生きていないもの」があり、その「生きているもの」の特質として、「全体的」「永遠」「正確」「生き生き」といった質が存在し、さらにこれを厳密に定義していくと、「生きている」という現象にはそれらの言葉だけでは説明しきれない本質として、言葉を持たない(表現しきれない)という意味で「無名」であるが、それでも美しいものと祈りは確かに「存在」するとしていた。私はこの「無名の質」をさらに究極まで突き詰めていくと、どこかで「美」と「祈り」は相互に感応しあうのではないかと考えたのである。
  アレグザンダーによれば、美しい建物をつくるには「無我」あるいは「深い感情」を持たなければならない。祈りを支える感情あるいは態度も、「瞑想」に象徴されるように、ほぼ「無我」、あるいは「深い感情」を必要としているのであり、深いところで双方は一致している。
  平安仏教の聖地の一つである高野山、仏教の目指す極楽浄土を奥州の地に再現しようとした平泉中尊寺、さらには近代、明治以降に突如出現した天理教、あるいは二度の弾圧後、戦後になって再建された大本教のそれぞれの施設は、どれも宗教の精神を維持していた。沖縄の久高島の神は「空(くう)」であることを特色としているが、「イザイホー」に代表される伝統儀式の歌や踊りには具体化されている。そして東京・巣鴨。ここは大都会の雑踏の中にあり、神の存在は今ではきわめて小さい。町ももうそれとはほとんど無関係に発展している。しかし、ここでもこれらの神は発展のための不可欠な触媒であり、これらが存在しなければ町もなかったという意味で、やはり神は生きているのである。
  これらの神々の中に確かに美は存在している。しかしこの訪問の途中、ほとほと困った。それは、にもかかわらず日本ではひょっとすると、もう美しい都市は存在できないのではないか、と思われることであった。日本の寺や神社ではどこでも境内地から一歩でも外に踏み出すと、そこは阿修羅あるいは地獄絵が待ち受けている。外に出なくとも、境内地や寺そのものも俗化しているところが多い。これらの惨状は、昔は「貧しさ」からもたらされた。言い換えれば、宗教はごく大まかにいうと、この「貧」による衆生の苦を救済するために存在してきたのであり、荘厳な神と貧にあえぐ信者が「美の構図」を創ったのである。しかし、今や多くの人々はかつてのような「貧」にあえいではいない。ある程度の建物は自分でも建築できるようになった。中には、これらの寺や神社を見下ろすような高い建物を建てる人々も出てきた。昔はどこでも、寺や神社の高さ以上の建物は建てないという不文律があったが、そんなものはとうに破棄されて、今や天を突く超高層ビルが神にとってかわったかのように君臨している。人々は神を捨て、神のかわりに物質的な豊かさを享受するようになった。
  「近代」とは神々の否定の歴史であるといわれる。かつて宗教=救済の重要な機能であった教育や医療、あるいは福祉もほとんど神とは無関係に組織され、運営されるようになった。論点は、それでは人間は「神」なしに、私の言葉でいえば「美」なしに生きていくことができるのかということである。
  高野山にはたくさんのお遍路さんが訪れている。巣鴨は毎日たくさんのお年寄りであふれている。この事実は、「近代」に入った今でも、あるいは「近代」が成熟すればするほど、皮肉にも、「神」を求める人々を増加させるということを示している。近代はかつての「食べられない」というような貧困を克服することには成功したが、反対に「食べるため」にみんなで頑張るといったような価値を喪失させた。これが新たな貧困の原因となっている。社会の中から道徳や倫理が喪われ、子が親を殺し、親が子を殺す。犯罪は社会の有様を反映しているのである。そして自殺、社会参加の拒否、周囲に対する無関心が蔓延するようになった。人々は孤独にさいなまれ、生きていることそれ自体に苦しむ。人々はその反作用としてか、より強く神を求めるようになったのではないか?
  私が外国で見たそれぞれの都市は、この近代的な論点について少なくとも「自覚的」であった。広場の中心に旧い教会があり、人々は今でも日常的にこの教会で「祈り」を捧げている。周囲にこれを超える建物を建てようなどと誰も思わない。これが「近代の病い」に対する回答であった。多くの人々の心の中にそのような感情が生まれ、社会的に共有されなければ、そもそも美しいものを創ろうという意欲も、またそれを実現する力ももつことはできないのではないか。
  そしてこの先に、現代特有の障壁が立ちふさがる。
  宗教にとって「救済」はシンボルである。仏教でいえば慈悲利他、あるいは布施はレーゾンデートル(raison detre=存在意義)である。
  これをまっとうしようとして宗教が一歩でも外にでると、そこにはかつてとは全く異なる世界が広がっている。「教え」そのものはともかく、教育、医療、福祉など救済の具体的な機能はすべて外部化され、これらと接触することは直ちにこれらの制度の基となっている政治にかかわるということになる。さらに、宗教のおそらくは究極の理想である「平和」に取り組むというのは、直接政治を相手にするということである。そしてさらに重要なことは、人類は宗教が政治にかかわることによって数々の不幸を生み出したという歴史的経験を持っているということである。宗教はある時、時の政治に反抗するものとして弾圧された。また宗教はある時、政治に加担して無辜(むこ)の民を弾圧した。それゆえ近代政治では「政教の分離」を統治の基本原則とするようになったのである。
  その解釈の幅によって、宗教の生死が決まる。すなわちその解釈が狭い場合には宗教は一歩も外に出られなくなり、広い場合には再び宗教政治が復活する。
  2005年のローマ法王ヨハネ・パウロ二世の死去は、この論点を考える絶好の教材であった。ヨハネ・パウロ二世は、バチカンの指導者として、平和の実現こそキリストの教えだとして積極的に政治に関わった。かの十字軍戦争を誤りだったと謝罪したとも聞く。そして、世界中の人々がその死を哀しむとともに、体制を問わず、各国の指導者がローマでの葬儀に参列したことは記憶に新しい。
  もう一つつけ加えておくと、EUではその憲法草案の中に超国家の国歌としてベートーベンの交響曲第九番「歓喜の歌」を採択したと同じように、EUのアイデンティティとして「キリスト教」を規定することの是非をめぐって大論争が行なわれた。ヨーロッパでは、宗教は政治と一線を画しつつも、宗教は生活の中に日常化しているといってよいだろう。
  一方の日本を見ると、小泉総理大臣の靖国神社参拝をめぐって、国論も、また司法の判断も合憲と違憲とに真っ二つに分かれ、政教分離の解釈も、場面場面に応じて広狭無碍になっている。曖昧のまま漂い、宗教は外に打ってでることについては萎縮し臆病になっている。これをどうするか。政治と宗教の関係は、「美しい都市」を考えるうえで避けて通ることのできない問題なのである。

*1 1936年、オーストリア生まれ。イギリスで数学、建築学を学んだ後、アメリカに渡り、カリフォルニア州立大学バークレー校教授になる。
  1965年の『都市はツリーではない』『形の合成に関するノート』などの著作によって建築理論家として脚光をあびる。六七年には環境構造センターを設立し、いくつもの建築プロジェクトを手がけ、建築家としても注目される。1977年には『パタン・ランゲージ』を刊行し、それまでになかった新たな建築・都市計画の理論を提案した。この考えをもとに、1984年には、埼玉県入間市に盈進学園東野高校を建設した。その他の主な参加プロジェクトとしては、オレゴン大学のマスタープラン、モデスト・クリニック、メキシカリ実験住宅、リンツ・カフェなどがある。