美しい都市と祈り


あとがき

 この『美しい都市と祈り』も前回の『美しい都市をつくる権利』と同じようにあわただしく現場と資料を駆け巡るという方法で作られた。正直言って「権利論」は私の弁護士としての四〇年来のフィールドであり、「都市」はともかく、「権利論」それ自体にそう多く戸惑うことはなかったが、今回の「祈り」は私にとって生涯初めてのテーマであり、右とも左ともつかない未知の世界の中にドンキホーテのようにして突入していく以外になかった。
  そもそも日本では祈り(正月、お盆、クリスマスなどのお参りやイベントを含む)と宗教(仏教やキリスト教、イスラム教、そしてその他の新興宗教)の関係、そしてそれぞれの美、またそれぞれの信仰内部の美と都市論への拡大、さらには自己救済だけでなく他人との共有などなど、執筆を終えたいまでも、きちんと論述しえたという自信はなく、改めて森の中をさまよっているような感覚が沸いてきているのである。もっといえば、それこそ「神」の消滅した現在、いまさら神の復活を考えるなどというのはいかにもばかばかしいという軽蔑の混じった嘲笑と、同じく、この世はまさに阿修羅もはや自己の生命さえ捨てる以外にないという極端な自閉の間のどこに着地点を見出すか、今もって落ち着かない。
  強いて言えば、そもそもの当事者である宗教者のほとんどが宗教内部の美はともかく社会の「醜」について、『心』の問題として語るだけで、法や経済など社会のシステムについては語らないというのも私の困惑の原因となっている、といってもよいだろう。まして、私の本来のレーゾンデートルでもある現実にこの世に「美しい都市」を創る、という一点にかかわっていえば、そのためには多くの人(市民、企業、役所など)と共闘しなければならないのに、「祈り」をテーマにし、さらにその体系的な組織である宗教に入り込めば入り込むほど、どんどん「胡散臭い奴」として避けられていくのである。現に私のもっとも身近な『ゼミ生』ですら、『あっちの人』というようなニックネームをつけるくらいであった。
  勿論、本来こちらのサイドである法学、政治学あるいは都市政策などといった側からこのテーマについて研究したものもほとんどない、という事実も伝えておかなければならない。
  このようにこのテーマは依然として漠とした霧の中にあるのであるが、しかし、ひょんなところからこの深い闇を脱出できるかもしれないと思うようなキーワードが浮上してきた。
  これは大学関係者の苦労でもあり冥利でもあるのであるが、学生のさまざまな論文を見ているうちに、本章の「久高島」でみた「総有論」を取り上げる二つの論文に出会ったのである。総有とはもう一度繰り返すと、現在の日本のように土地さえ持っていれば誰でも、何でもできるという概念とは正反対の、全員で土地を所有し、全員で決めたルールに従って土地利用を行うというもので、巨視的にいえば個人所有を原則として自由に土地利用を行う資本主義的土地所有でも、国有を原則とし、計画的に土地利用を行う社会主義的土地所有でもなく、その中間にあって、しかもそれぞれの弊害を乗り越える「集団的土地所有」、いわば『第三の道』として位置づけられるものである。ところが法律学的にいうと、これまで、総有のこの『第三の道』に着目する人は誰もいず、これを具体化したものとして入会権、温泉権、漁業権などという昔ながらの権利をあげ、多くは古来からの「慣習」として認められてきたが、そしてこれは第一次産業の衰退とともにいずれ滅びゆくものとして説明されてきたのである。久高島では、この通説に対して、確かにそれは滅びつつあるが、それは「祈り」と結びついていずれ必ず「甦る」としている。そして学生たちの論文によって、それは滅びるものではなく、また、山や川あるいは温泉といった言わば自然の付属品でもなく、都市のど真ん中でしかも現代的な可能性を有している、と教えてもらったのである。  
  京都の相国寺周辺の借地、琵琶湖東南部の湖辺にある特定農業法人「グリーンちゅーず」の農地の共用、まちづくりで全国的に有名になった滋賀県長浜市の「黒壁」の土地・建物の協同利用、高松市の丸亀町商店街の再開発事業など、典型的な総有とは言いがたいが明らかに「集団的土地所有」を志向し、現実に運営されている。日本だけでなく世界に目を向けると、イギリスの「田園都市」として有名なエベネザー・ハワードのレッチワース、そしてこれがまったくの驚きなのだが中国の全農村(ここで九億の民が生活している)が同じく「集団的土地所有」(自治体が土地を所有し、農民はこの土地で請負という形で農業を行う。なお、土地の所有権は国にある)のもとで生活しているというのであった。勿論、集団的土地所有といっても歴史的背景やその地域の個性などによって集団の主体、土地所有の形態、利用とその仕組み、管理や脱会などの形態はそれぞれに異なっていて、「農民の失地問題」という大きな矛盾をはらんでいるということも事実であるが、それでもそこには資本主義土地所有とも社会主義土地所有とも明らかに異なる独自の世界があり、それは何か生き生きしているようにも見えるのである。少なくともここには欲望のままの乱開発や官僚による無表情な計画はなく、むしろそれを克服するという信念のもとでの全体的な人間の生の営み、というようなものを感じさせられるのである。
  そこで改めて、今回訪問した高野山、平泉、天理、大本、久高島そして巣鴨などを振り返ってみると、いくつか紹介もしているが、そこには政府でも市民でもないある種の独立した「集団と秩序」が存在し、それが内外に影響を及ぼしつつ社会にも参加しているという点で共通している、ということが見え始めたのである。空海の『密巌浄土(国土)』というコンセプトでいえば、空海は寺の内部は勿論、その周辺(結界内部)を含めて、浄土の世界の構築、すなわち「まちづくり」をしようとした。土地所有という観点から言えば、「空海」単独所有のもと、真言密教の教義に従うというルールの下で、全員(現在町民は借地に住んでいる)で美しい都市を創るという総有論を展開してきたのではないか。
  久高島はずばり最も古典的な総有であり、この総有は『ノロ』を頂点とする『神』の世界によって担保されている。
  巣鴨で言えば空海のような教義は何もないが、『とげぬき地蔵』をシンボルにして商店街(個人的土地所有)の人たちとお年寄り(歩行とベンチを媒介にして共有)が独特な空間をともに創造し演出してきたと見ることができるのではないか。
  祈りはこのようにして独特な土地所有の形態(単独と借地、総有、空間の共有)を土台にして、ある種の「集団と秩序」を形成しているというような物質的基礎あるいは総有論的ルールと深く結びついて長い長い歴史をたどってきた。そしてそれはそれこそ地域を越え時代を超える『普遍的なもの』として今後も生き続けていくのではないか、と思ったのである。このアイデアは今のところ単なる思い付きに過ぎない。
  しかし、研究を深めることによってこれは豊饒な成果を生み出すことができるかもしれない。
  多分少なくとも今後数十年間は、日本は資本主義をベースに近代政治の枠組みの中で生きていかざるを得ない。資本主義にとって、経済は本質的な要素であり、端的に言えば利潤を生み出さない都市は存続できない。また近代政治にとって、民主主義はその本質的な要素であり、これを欠いては都市は成り立たない。
  祈りを含んだ総有論はこのような現代資本主義に不可欠な利潤及び民主主義とどのように関係するか。この探求なくして美しい都市の創造とどう切り結ぶか?
  私たちの旅は終わらない。次は美しい都市と利潤の問題を見ていくつもりである。

 本書も前回と同じく多くの人の協力を得た。
 初出誌(本書収録に当たって若干改変した)及び主たる参加者は次の通りである。

第1章 「なぜ『祈り』なのか」五十嵐 書き下ろし
第2章 「美しい『都市』と祈りの現場を訪ねて」
1 「宗と政の対話は可能か 高野山と世界遺産」五十嵐 『ビオシティ』25(2003.3.20)
2 「奥州の古都に平和の思想をみる 苑池都市、平泉」五十嵐・佐藤弘弥(平泉景観問題を考えるHP主宰) 『ビオシティ』26(2003.8.1)
3 「よふきぐらし(陽気ぐらし)の都市 天理教とおやさとやかた」五十嵐 『ビオシティ』27(2004.2.1)
4 「弾圧と復活 大本教の聖地再建」五十嵐 『ビオシティ』28(2004.6.1) 
5 「土地総有とイザイホー 神の島の土地所有、沖縄久高島」五十嵐・池上修一(建築家)・木下能里子(都市計画家)・阪井暖子(都市計画家)・戸矢晃一(編集者) 『ビオシティ』29(2004.9.15)
6 「そこにベンチがあるから 巣鴨・とげぬき地蔵」五十嵐・法政大学法学部五十嵐ゼミ(野津恵梨子、田中有里、安達真実、小塚明日美) 『ビオシティ』30(2005.2.15)
7 「密厳浄土 再び高野山」五十嵐 『ビオシティ』32(2005.11.25)
第3章 「空海の生きた長安」五十嵐 書き下ろし

 また、前と同じように取材地の相談から始まり、現地での取材及び資料収集など全般にわたって援助をいただいた戸矢晃一君、そしていつもながら真鶴『美の条例』以来、一貫したモチーフのもとで今回も美しい装丁を作ってくれた春田ゆかりさんに改めて御礼を申し上げたい。
  さらに学芸出版社の前田裕資さん及び井口夏実さんには編集だけでなく、私の『宗教に対する寛容の精神』は、目下の宗教の本質でもある『平和』にとって危険な兆候の一つとみるべき小泉総理大臣の靖国参拝を『合憲』とするような風潮を生み出すのではないか、などという指摘などもいただいた。ともすれば偏屈に陥りやすい宗教にかかわる本書がいくらか健康なものになりえた(?)のは彼ら編集者との論議を経てのことである。すべての人に感謝したい。

2006年3月
五十嵐 敬喜