建築女子が聞く 住まいの金融と税制


おわりに


 昨年、園田さんより「住まいに関わる金融と税制についての本を、一緒につくりませんか?」とお声がけいただいたとき、自分が学びたいと思っていたことそのものだったので二つ返事でお受けしました。でも、実は同時に、そんな大役が務まるのだろうかと大きな不安につつまれました。普段は建築や地域づくりなどについての執筆仕事が多いのですが、なにしろ、住まいと金融と税制の関係についての知識はからっきしで、そのことにコンプレックスさえあるという情けない状態でしたから。そんな弱っちい表情が見え隠れしていたのか、園田さんから「今のご時勢、たとえば設計者であっても建築の専門知識を持っているだけではダメ。住まいに関わるお金まわりの素養をしっかり身につけないと、仕事なんか来なくなってしまう。その危機感と、社会や建築業界への違和感を持ち合わせていればいい。あとは一緒に学びましょう」と励まされ、背中を押されたのでした。そうか、お金には疎いけれど、社会や建築業界に対する違和感だけは以前からタップリ持ち合わせているぞと心を強くしました。

 今から20年ほど前のことです。大学時代の建築設計課題の授業中に、講師で来ていた建築家からこんなことを言われたことがあります。「君たちは、世直し君じゃない。理屈ばっかり考えるのではなく、形を生みだしなさい」。建築家はクライアントに提示された土地と条件とお金の枠内で空間をつくるのが職能であるため、設計を学ぶ学生はその訓練に励みます。ただ、形を生みだすまでのプロセスでは、社会や人間にとって最善な空間とは何か? とウロウロ模索するわけです。それでは提出期限に間に合わないぞという叱咤激励だったのだと思いますが、その建築家の「世直し君じゃない」という物言いには「設計者はある程度のところで思考停止して職能の範囲内をマジメにやれ」と言われているようで強い抵抗を覚えました。

 はじめて勤めた設計事務所では、何件か住宅の設計を担当しました。お施主さんはみなさん、いわゆる「担税力」のある方たちです。彼らの夢を具現化しつつ、美的に価値のある住宅を建てようと夜も昼もなく仕事に励みました。住宅のことは物件ではなく「作品」と呼ぶのが常でした。いい作品をつくりつづけることが、いい世の中をつくりだすことに繋がるのだ、という信念が、きつい仕事の支えにもなっていました。しかし一方で、設計事務所というのはじつに給料が安くて、どうやって貯金をして、どうやってローンを組めばいいのかなんて思いいたらないような暮らしをしていました。賃貸に住むのもやっと、という自分の状態はさておき、自分の実感とは切り離されたところにいるお金持ちの家を設計する仕事。建築家が作品のコンセプトにこだわるのは、お金持ちの家をつくる行為とその社会的意義をつなぐ回路を生みだしたい一心なのかもしれませんが、その時は脳味噌が都合よく分断していたので、そうは思いいたりませんでした。

 そんな最中に子どもが生まれ、建築一辺倒だった生活ががらりと変わりました。息子が3歳くらいのときのことです。一緒に多摩川の川原を散歩していたら、ダンボールや青いビニールシートでできたホームレスの家を指差して「ママ、あれなに?」と聞かれました。「あれはね…ホームレスのおうちよ」と、ちょっと戸惑いつつも答えると、「ホームレスってなに? だれ?」と興味津々。「ええっとね…おうちのない人たちのことよ。おうちがないと寒いでしょ、だからこうやって、あったかい場所をつくって、暮らしているのよ」と、言葉を選びながら説明をすると、「おうち? ないの? そしたら、ママつくってあげて。ママ、おうちつくれるんでしょ? おうちない人に、おうちつくってあげて!」と言われました。いいコト思いついちゃったという、じつに屈託のない表情で。

 その後、設計者から建築ライターに転向してからも、建築家の存在意義については折りに触れて考えていました。私たち建築関係者は、設計行為のなかでご大層な理念をたくさん思いつくわりに、実は『ホームレスにホームをつくる』ことはせずにいる…クライアントの予算で空間をつくるのが仕事だからと割り切るのがオトナなのだろうか。だって食っていけないからさ、そこは見て見ぬふりをするしかないじゃない…と自問自答を繰り返す日々。「建築」と「住まい」を同一視して語ることへの違和感は、こんなささいな経験の積み重ねによってもたらされたものですが、存外根深く、ずっと私に貼りついていました。

 お二人の先生に導かれながら、住まいと金融と税制の関係性を紐解いていくプロセスは、衝撃に満ちていました。大垣先生へのインタビューで、今でも忘れられない言葉があります。「日本の住宅政策が迫っている問題というのは、100平米の家に住みたかったら、無理やり土地とセットで買わないといけないという選択肢しかないという買い方≠フソフトの問題。一級建築士がちゃんとした家をつくらないからだめ、という問題ではないですね。つまり、僕は今の住宅問題は、制度と金融を根本的に直すことでしか解決できないと思いますし、申し訳ないけれど建築屋さんが出る幕というのは二度と来ないんじゃないかと思います」。これを聞いて、背中に電気が走りました。ぼんやりと思ってはいたことですが、金融のプロに真正面からこう言われると、ぐうの音も出ません。家を持てない人が、家を持てるようにする、という仕組みにおいて、建築家には何ができるか? という問いに直面した瞬間です。また、三木先生からは、「家は人権の要である」という格言を何度も伺いました。家は人権の要=住むことは生きること、という実感が強いのは、担税力のある人よりむしろ日々をようやく生きている一般庶民だといっても過言ではありません。ネットカフェに寝泊りしたり、脱法シェアハウスに住んだりと、家さえ持てない人がいるという状況に建築家は本当に関わりようはないのかと、ここでもぐるぐると考えました。

 しかし、新築住宅の設計の仕事は目減りする一方という今、必然に迫られるように中古物件のリノベーションやまちづくりに関わる仕事が注目を集めるようになってきました。先日、ある建築関係の本の出版記念イベントで、東京大学大学院の松村秀一教授が「昨今、社会的課題に直面する仕事を志す若者が増えているのは心強い。日本の未来は明るい気がする」と言っておられました。今はまさに、建築業界にパラダイムシフトが起こっている時期なのかもしれません。そして、この時期こそ、これまで手を付けかねていた「住まいの金融と税制」について学ぶタイミングなのだと言えるのではないでしょうか。

 もう一つ、この本をつくるなかで真剣に考えたのは、私自身の将来の、現実的な住まい環境づくりについてでした。園田さんよりご紹介があったように、私は2007年より5人家族で「平日は東京、週末は南房総での田舎暮らし」という二地域居住をしています。自然のなかでの子育てをしたいと始めた暮らし方ですが、この生活が長く続くと直面するのは、子育てが過ぎた後のライフスタイルの変化です。3人の子どもたちが巣立ち、リタイア後に収入が激減したとき、晴れて移住!となる前に考えねばならないのが、東京の家をどうするかという問題です。現在は夫の実家で3世代同居生活をしていますが、たとえば20年後くらいを考えると、子世代がすぐに代替わりして住める状況になるとは限らないため、売り払ってしまうか、空き家のまま固定資産税を払い続けるか、あるいは南房総に住むのを諦めて、資産価値の高い都市の家を子世代に相続するまでそこに住み続けるか、とぼんやり悩んでいました。自分の親の代が苦労してようやくローンの支払が終わった家をさっさと売り払うのはあまりな話ですし、さて、現実的にどう立ち回ろうかと考えていた矢先に、一般社団法人移住・住みかえ支援機構の存在と「マイホーム借上げ制度」という仕組みを知りました。田舎暮らしをしながら家賃収入がある、という環境づくりが可能だと分かったのはたいへん大きな収穫で、さっそく人生設計に取り入れたいと真剣に考えています。また、このことで家の維持管理に積極的に取り組むモチベーションが生まれました。住みつなぐイメージが持てると漠然とした不安が払拭されるだけでなく、家への愛着も増すことに気づいたしだいです。

 ちなみに、昨年発表された国土交通省の予測では、2030年には二地域居住を潜在的希望者も含め1千80万人が志向するようになるとのこと。この制度は、二地域居住者の未来に貢献するものとして、今後広く利用されることになる可能性が高いのではないかと睨んでいます。

 最後になりましたが、大垣先生、三木先生、園田さんという畏れ多いメンバーの白熱議論のなかに若輩ながら加わらせていただき、本当にありがとうございました。自分の脳味噌のCPUの足らなさをもどかしく思うことが何度もありましたが、それだけ濃厚な学びのチャンスをいただけたことが何より嬉しかったです。建築家は世直し君ではない、と授業で釘を刺され脱力したあのことばが今、逆向きに自分を刺しています。これまでの漠然とした危機感に代わり、世の中の仕組みや歪みを見つめて現実と理想をつなぐ道を見出す力を持とうという責任感が、立ち現れてきました。

 また、園田さんの書かれた「はじめに」にあるように、この本全体は4人セッションのような形がとられていますが、実は、住総研のご担当者である道江さん、上林さん、岡崎さん、そして学芸出版社の前田さんという強力なバックコーラスによって支えられています。難解な本にならないようにと悩みながら進む執筆者一同を長期にわたり励ましていただき、心より感謝申し上げます。関係者がそれぞれの立場を越え、熱い思いを寄せて奏でたこの演奏が、読者のみなさまの心に届くことを願ってやみません。


《未定稿》