二十一世紀に入った今、「なぜ京都」へと多くの人々が訪ね来るのか。
何しろ年間五千万人の人々がおとずれる。中学生の時、修学旅行でバスにゆられ、眠い目をこすりながらお寺見学。京都は寺ばかりの町だったと覚えている。それから幾年月が過ぎた。
「京都」へ行ってみたい。お金とデジタルカメラをジーンズのポケットに突っ込んで、ゆっくり、のんびりそぞろ歩き。「爛漫の桜の季節」にする、それとも「真夏の超蒸し暑さ」体験に、それより「連山紅葉でくれなう秋」。これぞ京都の「底冷え京寒」。チョット一杯熱燗をいただけることを楽しみに。わいわいがやがや女性たちの旅がスタート。
歩いて歩きまくっているうちに「京の洛中」に入り込んだ。「チョット見て」格子造りの京の家が建ち並ぶ。これが京町家、フムフム、何はともあれブラリと街歩き。格子越しに内装がみえる「イタメシ屋」。ヘッ「京風中華」に「フランス料理店」もある。有名な油取り紙屋に、京漬物の西利さん。アッ「一見さんおことわり」のお茶屋さん、ここが若い人たちで年がら年中、列をつくって待つ「都路里」さんか。修学旅行で体験した京都となんだか違う。歩けば歩くほど「新発見」。露地から入って、うまいこと露地裏に抜けた。「ここは一体どこ」。露地に入って廊地へと……。時間がたりない。またたく間に時が過ぎて、もう夕食。先程の露地町家のフランス料理店に行こうか? たしか値段も手頃。で、京の一日が過ぎた。「それではまた明日」……。
「四十、五十は洟垂れ小僧、六十でまあまあ、七十歳でやっと建築家」といわれる建築の設計界。納得のいく建物を設計したいと製図板にへばり付く。まるで人間蒲鉾になったように図面を描く。「洟垂れ小僧」で終わらないと思いながら……。何としても自分流の建物を、出来れば「日本がみえる建築」を、しかも「日本人建築家しかつくり出せない」建物を設計して世に問うてみたいと思いつつ……。
一九九〇年、僕が四十五歳の頃、建築界、デザイン界ともポストモダニズムが隆盛を極め、ポストモダン建築という意味不明の建物が乱立。こんなもの日本の建築ではない、とブツブツいいながら……。日本には「日本の建築考」が……。
かえりみると僕には京都があった。
日本の建築文化の真髄、きっと「京」にあるはず。京の建築、京の町並みを知ることから始めようと一念発起、お坊さんの修行、「托鉢」のつもりで、京・建築の撮影行脚を始めることにした。
はや十五年の歳月が過ぎ、いつしか二万枚のスライドが棚いっぱい。スライドとにらめっこするうちに「京の不思議」がみえはじめた。まさに人間のDNAと同じように一二〇〇年の歳月を経た「京の遺伝子」のようなものがあって、人から人に受け継がれ、わが国の歴史を満載しつつ、今日を迎えているように見え始めた。
かつて、「京都―建築と町並みの〈遺伝子〉」と銘を打って、建築界を目指す若い建築家の卵たちに伝えたい、そして西暦二〇〇〇年の京の町を写真で残しておきたい。その時々に思ったことを文章で、と思いその本を建築資料研究社から発刊して頂いた。
それから早や六年の歳月がたち、セッセセッセと写した写真がますます棚一杯になり、またまた整理をしなければ何が何だかわからなくなる。
スライドを「眺め」つ「しかめ」つしている内に、「ちょっと待った!……」。この写真「建築界」の人々に伝えるだけでは「もったいない」。京都へ訪ね来る人たちの参考書にでもなれば、の思いもあって、日頃あちらこちらでおしゃべりをする僕の「たわごと」を織り交ぜて書いてみたい。ここはひとつ京都の出版社の学芸出版社に御願いしてエイ・ヤーで一気呵成に編集して頂いた。
京都で生まれて京都で育ち、一九七〇年「太陽の塔」で代表される日本万国博覧会のため東京へ行き、建築界の大御所丹下健三氏、芸術界の奇才岡本太郎に師事するのだが、ただただ東京は近代都市。空気は「くすん」でいるし、交差点は車と人の洪水で息苦しい。
京都の穏やかな地で生まれた僕は大変なショックで、こんな東京「日本でない」の思いで三二歳の時関西に帰ってきた。
「やっぱり京都やで」。何事もスピードはゆっくりで、言葉は静かで、山があって川があって、何より「空気がうまい」。これぞ日本。この「落ち着いて一日が暮らせる」ことこそが日本人の原点。もうこの地から離れまい、離すまいの思いでこの本を書いた。しかも京都を知れば知るほど不思議なことがいっぱい。
その不思議探しにお付き合い下さい。そして、京へ日本人の心をつかみにお越し下さい。
「なんでいまさら京都?」
「されど京都」だから。 |