Gロゴ

ユニバーサル・デザイン


書 評






『福祉労働』(現代書館) No.92
 我が国では、外来の言葉を気がつけばその領域の人間が当たり前に使っているという状況が多々見られる。「ユニバーサルデザイン」も建築や工業デザインの世界で瞬く間に広がった言葉のひとつである。いわゆるカタカナ英語が使われる場合、その表面的、技術的な要素が都合よく使われ、その言葉が生まれた土壌における歴史的背景や社会状況というものは理解されにくい。著者は米国で生まれたユニバーサルデザインの概念を探るべく、それを考え推し進めている関係者に直接会い、それぞれの場からのデザイン活動に対する考え方を聞き出し、さらに著者自らの考えを整理し構築していく流れのなかでまとめている。米国におけるインタビューは、1998年と2000年に関係者約60人に行い、巻末にはそのうちから31名について氏名と肩書き、インタビューの日時を記している。内訳は、工業デザイナー、建築設計者、障害のある活動家、情報通信分野の研究者、心理学者、企業経営者、司法省専門技官、公共放送と多岐に渡っている。
 何が著者にここまでのエネルギーを与えたのか。自ら車いすユーザーであり建築家でもある著者が、我が国のユニバーサルデザインの状況におかしさや不確かさを実感していることによるといえるだろう。我が国においても1994年にハートビル法が施行された。しかし、それは技術法であり、利用者が使いやすいかは問われず、基準にそって設計されているかどうかが問われるだけである。著者はこのことを看破し、米国における人権法が日本の建築法の土台として整備されていないという根本的な問題を、明解に歴史的流れのなかで解き明かしている。
 外来の概念が表す目に見える要素は伝わりやすいが、その背後にある概念の発生や誕生に関わる理念や精神的格闘という目に見えない要素は都合よく省略してしまうという、カタカナ英語の問題がここにも存在する。つまり新たな概念の生み出された現場においては、その概念は不動のものでなく、関係者の間で常に切磋琢磨され呼吸しているのである。大切なのは概念ではなく、その概念をつくり出す必要がある社会的な状況そのものへの働きかけである。
 著者のインタビューを通して、アクセッシブル、ユーザブル、ユーザーフレンドリー、ビジタビリティ、インクルーシブ、トランスジェネレーショナル、デザイン・フォー・ライフスパンという言葉が頻繁に登場し、米国のユニバーサルデザインの現場における知的格闘の姿が伝わってくる。こういった取材は、著者ならではの臨場感溢れるもので余人をもって代えがたいといえるだろう。ユニバーサルデザインの理念と実践という視点からとらえるならば、実践へ向けての理念編といえる。それも湯気の出ている理念編である。
 
(金沢美術工芸大学教授 荒井利春)


『信濃毎日新聞』 2001.7.1
 「全ての年齢や能力の人々に対し、可能な限り最大限に使いやすい製品や環境のデザイン」―こう定義してユニバーサル・デザインを提唱したのは、アメリカの建築家で工業デザイナーのロン・メイスである。彼はポリオの後遺症のため呼吸機能を侵され、生涯を車いすで過ごした。
 彼をはじめ、ユニバーサル・デザインにかかわる人々へのインタビューと取材を重ね、それをふまえて日本社会におけるバリアフリーの問題点を浮き彫りにし、ユニバーサル・デザインの真意を写真も駆使して平易に説いたのが本書である。
 街を歩くと車いすマークがべたべた張られている光景に出合う。障害者のみへの対応マークは同時に「一般の人」の使用禁止を強調する。こうした特別扱いを筆者は「障害の強調」「障害の隠ぺい」と呼ぶ。自立や平等な社会参加を阻む考えである、と。障害があっても、当たり前に普通の生活ができる社会をつくるには、バリアフリーの考えこそバリア(障壁)になる、というのだ。
 障壁を何とかしようという修繕的発想に基づくバリアフリーでは、問題は他人事であり、自分事にはなりにくい。他人事を自分事に引き寄せる考え方こそ、ユニバーサル・デザインの根本である。
 しかし「みんなが使えるものを」と早合点すると、かつての多目的ホールのような末路を招くとも警告する。主役は「みんな」で、その「みんな」が環境や都合に合わせるのではなく、モノや環境が「みんな」の都合に合わせる設計思想が重要なのである。
 こう考えると、たとえば車いすがどこででも使えるようになったら、それは車いす利用者だけにではなく、妊婦や高齢者、さらには「一般の人々」にも恩恵をもたらす。車いすマークがいらない社会が結果的に生み出されるだろう。
 アメリカで、この思想が根づき発展しているのは、罰則規定を伴うADA(障害を持つアメリカ人法)に代表されるように、技術法のみならず人権法が一つのバックボーンになっているとの指摘もある。いたわりや優しさよりも、差別のない社会、平等な社会参加という理念がユニバーサル・デザインの底流に流れていることを、筆者は強調する。
 ユニバーサル・デザインは、民主主義の命題であり、「社会全体の価値観の問い直し」なのだ、と。
 
(ジャーナリスト 須田 治)



『ガバナンス』(鰍ャょうせい発行) 2001.6
 バリアフリーとユニバーサル・デザイン。この二つの言葉の違いを理解し、説明できる人はどれだけいるだろうか。筆者は、ユニバーサル・デザイン思想の生みの親、ロン・メイスをはじめ、アメリカの関係者60名あまりにインタビューし、目指すべきは何か、その思想の根源と変遷に迫る。公共空間のデザイン、ものつくりのデザインはもちろんのこと、今、なによりも「心のユニバーサル・デザイン」が求められている。


『日経デザイン』 2001.7
 高齢化社会の到来と呼応するように、ユニバーサルデザインへの関心がますます高まっている。著者は1998年から2000年にかけて、ユニバーサルデザインの父と言われるロン・メイスをはじめとするユニバーサルデザインの関係者約60人へのインタビューを行った。多くの専門家たちとの意見交換を通して、ユニバーサルデザインという考え方の本質にせまり、今後のあり方を見極めようという内容だ。インタビューをした専門家は米国人が中心だ。日本で一般的に言われているユニバーサルデザインへの理解と米国における理解とでは考え方がずいぶん違っていると言う。日本ではユニバーサルデザインをバリアフリーの延長として考えるが、米国ではまったく別物として捉えられている。バリアフリーとは障害を持つ人たちを特別扱いすることからスタートする。一方ユニバーサルデザインは、誰もが均等に社会生活を送れる機会を持つシステムを社会全体で確立させようという考えだ。日本ではバリアフリー、ユニバーサルデザインは、「人にやさしい」とか「福祉」という言葉に代表されるように、常に慈善的、情緒的な雰囲気で語られがちだ。日本の「ユニバーサルデザイン」が解決すべき問題の根は深そうだ。
(『日経デザイン』 2001年7月号 p144新刊抄録「ユニバーサル・デザイン」より転載)



『 GP net 』(厚生科学研究所発行) 2001.7
 本書は、「ユニバーサル・デザイン」「ユニバーサル・デザインの性質」「ユニバーサル・デザインに関わる言葉」「ユニバーサル・デザインを実現するために」「ロン・メイス」と題された5章からなり、ユニバーサル・デザイン(以下UD)の概念整理と、その普及・実現に向けての課題を明快な論理で平易にまとめたものである。最終章のタイトルにもなっているロン・メイスとは、著者の友人で、UDの生みの親と称される米国の建築家。本書には、彼を含めた60人ほどの関係者へのインタビューを下地に、世の中に存在する(広義の)道具のデザインのあり方について、UDというフレームを通して著者の考えが示されている。
「バリアフリーからユニバーサル・デザインへ」。
 こんなキャッチフレーズでわが国の保健医療福祉関係者にも有名になったUDという言葉。だがその意味を理解している人はどれぐらいいるだろう。
 UDとは、バリアフリーのような「障害者を中心においた」考え方でなく、「みんなに使いやすいグッド・デザインを具体化するもの」と本書は説く。障害を持った人に「重きを置く」ことも一種の差別。だから本書の副題が「バリアフリーへの問いかけ」となる。
 本書を読んで、リハビリ医の砂原茂一氏がかつて「障害者が作業所などで労働できることを素晴らしいと評価するのはいいが、社会参加することこそ人の存在意義だとする考え方にはどこかひっかかるものがある」という意味のことを講演で語っていたのを思い出した。
 両者に共通するのは、その人のありのままを受容できるような社会こそ健全という考え方だ。しかし、最近の障害者あるいは高齢者介護をめぐる状況はその方向に進んでいるのだろうか。
 建築士が書いた本だが、保健医療福祉関係者にも読んでほしいと思う。
 
(中)


もくじへ
おわりにへ
はじめにへ

学芸出版社
『ユニバーサル・デザイン』トップページへ
学芸ホーム頁に戻る