この巨大空間の全体の空間的な制御に関する社会的な意志決定システムとそれをリードする専門的な技芸を地域計画(regional planning)と呼び、 街空間の空間制御に関する社会的な意志決定システムとそれをリードする専門的な技芸である都市計画(town planning)とは区別して考える。
今、 フローのベースでは世界的にも豊かな社会になった日本では、 人口は減少し、 経済は減速し、 今後の経済運営の上では内需拡大を中心とした、 国内雇用の維持のための経済の活性化が重要な政策目標になる成熟時代に入った。 価値意識やライフスタイルの大きな変容を遂げている。 都市が実質的に膨張する時代は終わり、 潜在的には凝縮のベクターが強くなる時代に入った。 しかし、 農業、 林業、 漁業が産業として衰退する過程で、 環境保全の勢力がこれを補う力として十分成熟してきていないので、 郊外、 遠郊の土地を都市的な土地利用に代えたいという強い政治的な要求だけが前面に出ている。
顕在的な要求としては、 線引きの撤廃や、 特に商業流通施設の立地を期待する都市拡散の動きが強い。 凝縮のベクターを支持する政策体系が弱く、 逆に拡散によって裏返しの都市化(市街化エッヂの拡散、 囲われた圏域内の不合理で無秩序な土地管理)が進む可能性も強い。 今後、 郊外、 遠郊でまばらな、 点的な巨大開発が進むと共に、 エッヂ市街地の放棄、 過疎化が進行すると思われる。 中心市街地への住宅立地需要は高まると思われるが、 これを秩序正しく長期的な都市資産として受け入れるシステムが出来ていない。 都市凝縮時代に適合する現実的な都市計画が必要になってきているが、 今、 その備えが無い。 中心市街地問題、 街空間の形成問題はこのような文脈の中で理解されなければ問題の本質を見落とすことになる。 凝縮時代の都市政策と都市計画を如何に再編成するか。
馬と馬車、 歩行のための道路と水運がその交通上のインフラであり、 移動速度は限られていたし、 社会的な水平移動も限定的だった。 このような旧モデルのもとに優れた都市資産を築いてきた旧大陸は、 主としてアメリカ文明の強い影響下にある新しい技術革新やライフスタイルの導入に当たっても、 基本的な空間構造(人間の徒歩と公共交通機関による高度モビリテイーへの対応:拡散しない都市構造)や社会構造(例えば家業型職人、 商人経済や文化の維持、 ある圏域での人間集団の自立性の維持:街社会の維持)を変えないで対応しようとしている。
新大陸のモデル:西部というフロンテイアーを持ち続け、 膨大な浪費可能な空間資源をもったアメリカ、 自治的な政治支配が歴史的な原点で、 個人が人工的、 契約的に自治団体を造りだし、 その集合形態が連邦政府であるという特異な政治史的な発展過程を経たアメリカだけがこれとは違う定住のシステムを造りだしてきた。 社会的な水平移動についても同様にアメリカは特異であり、 不断に移民を受け入れてきた事情もあり、 本来的に定住性が弱く、 流動性が極めて高い社会を作りだしてきた。 又、 移動手段においても、 誰もが個人的な馬を持ち、 馬の速度で動くことが社会的な常識であり得たという特殊事情がある(フォードTモデルはこのような空間と歴史を抜きに語れない)。
日本は歴史的にも空間的にも旧大陸のモデルに近いにもかかわらず、 人間定住空間の形成上、 新しい技術革新とライフスタイルの受け入れにおいて、 新大陸のモデルに無反省に追随している。 しかし、 街空間を破壊しても健全な社会、 経済を維持できるアメリカのモデルが日本でも本当に有効であり得るのか。 環境問題、 資源問題、 廃棄物問題を踏まえると空間的にもこの拡散型のモデルは破綻すると思えるが、 人間の発達心理学上から見てもここのようなモデルは社会的な病理現象の原因となり、 決して安定的な社会を入れる器にはならないと思われる。 未来の定住空間として街空間の構造を再生させることが都市計画の主要な目標になるのでは無いか。 アメリカの特異性を認識し、 場違いな物まねを止めて、 日本の空間スケールと歴史的な発展の経緯に即した都市計画理論を組み立てることが急務であると思われる(佐藤、 西村、 大方、 蓑原(建)〕。
しかし、 明治以来追求されてきた垂直型の支配構造が定着し、 これに慣れきってしまった日本では、 官が公であり、 公的な責任を分け持つ市民は存在せず、 「私民」しかいないという状況になってしまっている。 そこからの脱却が必至であり、 その徴候も見られる。 しかし、 当面、 垂直支配に慣れてしまった結果、 内政的な自立的支配構造への切り替えが遅れている状況の中で、 また、 日本という空間的には狭く人間の水平流動性が極めて高い社会において、 ある区域を設定した都市計画という公領域をいかにして確立出来るのか。 必然的に重層的な構造の下に地域計画との整合性を持った計画体系を構想する事になる。
特に都市計画が産業政策の道具から市民生活、 市民福祉の増進の手段に切り替わることが確実であり、 その時、 身近な地区環境の整備についての政策体系、 計画体系が全く未成熟である。
地区や地域内の内政的な問題について外部の権威や権力に頼らぬ公の意識の確立、 (官、 民、 NPO、 組合、 ジャーナリズムなど)支配被支配の関係の中に必然的に要求されるリーダーシップとフォロワーシップの確立、 市民参加型社会における合意の形成または総意の醸成のための社会的な基礎ルールの確立等の基礎的な問題を解かなければならない。 このためには情報公開の原則の浸透も不可欠である。 都市計画という内政的な公領域を扱う仕事は、 このような社会的に安定した意志決定システムの存在を前提とし、 そのことの展望無しには計画の作成も認知も実現も語れない。 だから、 都市計画はこのような基礎社会システムへの具体的な問題提起の場になる。 その中で現に存在し、 機能している正統性を持った官の組織をどう変化させながら適応させていくのか。
また、 従来、 日本では、 公法のルールと私法のルールが画然と分離し、 護送船団方式の下、 民間企業への行政介入が極めて強く、 強力な規制網が敷かれていた。 市場経済の浸透と個人の自由なイニシアテイブの確立、 個人責任の拡大という市民社会の確立の動きの中で規制緩和が強く叫ばれている。 この問題が都市計画にも波及し、 誤って適用されている(都市計画における規制緩和)。 公共団体の独占化にあった道路などの公共事業についても、 民間事業との境界が曖昧になり、 公共経済に市場経済が介入するという現象が顕著になって来ている(民活、 PFIなど)。
また、 従来の官と民という対立に加えて、 新しくボランテイアー、 NPOなどの社会組織も台頭してきた。 以下に述べる市場経済の浸透とも絡んで、 従来の組織領域の壁が低くなりつつある。
都市計画においても、 市民の平常の生活においてと同様、 「公」的な行動原則(市民の生活ルール)とは何か、 企業活動のルールを形成し、 企業活動と市民活動の仲介をする公的な活動とは何か(計画的なルールの根拠、 市民、 企業参加型の街づくりの可能性と限界、 公共事業への市場介入など)が問い直される。
その結果、 街空間を再開発して変化させる動機付けが強い不在地主やエネルギーのある企業が前面に現れ、 どちらかというと街空間の修復や保全あるいは停滞や劣化の動機の方が強い住民と対立的になる。 地方都市ではこのような企業すら存在しないので、 中心部の活性化の担い手が見つからない。 街空間の再開発が、 今後の都市戦略に不可欠であるとすれば、 このような不毛な対立や停滞を止揚する仕組みを考えなければならない。
これらの問題に対して、 都市計画はどう対応し、 どう適応するのか。
同時に、 ある限定された自治領域を幾つも束ねた広域的な巨大都市圏が今日の市民の生活圏であるという認識から、 広域的な空間構造の制御、 地域計画の領域についての若干の考察が必要だろう。
この本がモノグラフの集合である以上、 これらの問題意識が各パートの問題意識である保証は無いし、 その必要もない。 しかし、 各パートでの論点が以上の問題意識にどう答えているのかというチェックリストとして使ってもらえれば良い。
参考4 「都市計画の挑戦」各執筆者に対する問題提起
99・3・24
人間定住の場の認識
日本を含む先進成熟国では、 都市が農村と対立して考えられる時代が終わった。 連担して密度の高い市街地を形成している街空間(town space)と密度が薄く農地や山林と一体となった田園空間(country space)がモザイク状に散在しながら結ばれている巨大都市圏の中に、 社会的には均質の「都市的な」人間だけになってしまった住民が住む。 このような巨大都鄙空間だけが視覚的には意味のある地域区分のように見える。 地球上の大部分の人間がこの空間に住む、 という前提で考えざるを得ない(日本やアメリカの様に低密度で連担する市街地を持つ国では街空間という定義が大きな問題になるが、 将来の課題を考えるとこのような観念整理が一番政策的に有効な区分になりそうである)。都市化と都市凝縮化
日本の都市は膨張時代の相から凝縮の時代の相に移った。 貧しさからの脱却を最優先課題にした開発途上段階にある社会のもとで、 人口の増加、 世帯分離、 輸出指向の工業化を軸とする急速な経済成長とそれに伴う急激な都市化に如何に対応するかということが問題の核心にあり、 日本の戦後の都市計画、 地域計画はこれに対応するための仕組みとして構築されている。 膨張がキーワードで、 膨張のエッヂが都市計画問題の最優先課題だった。街空間の地域構造
旧大陸のモデル:農村というヒンターランドを持った、 大量の農村人口を背景として成立するヒエラルキーを持った都市の連鎖形態の中に街空間があるという歴史的な概念が成立していた。 クリスタラーモデルに代表されるような人間定住モデルは、 限定的な空間の中で、 王制や民族国家制による政治的な支配構造と問屋制の支配下にある家業型の流通構造といういずれもツリー型の支配構造を持った社会システムに支えられてきた(この垂直型の支配が及ばない領域は、 狭い区域での内政的な自治であり、 自給自足的な経済、 流通構造であったと言えよう)。街空間の政治的支配構造の変化
今、 民族国家の力は弱まり、 至る所で地方自治体への権限委譲が始まり、 政治的には地域の自決権が非常に強くなりつつある(地方分権)。 市民社会という言葉はあまりにもヨーロッパ的な都市自治の概念に色濃く染められている故に別の言葉を探すべきかも知れないが、 日本でも地域の内政自治的な自立的水平支配構造を持った「市民」社会を創り出す方向に向かっているのは確かである。経済的な支配構造の変化
経済的には、 問屋制とリンクした家業社会の崩壊により、 社会全体を覆った垂直的、 階梯的な経済支配の代わりに、 大企業が直接的に垂直介入し、 消費者と直結するという新しい構造に切り替わりつつある。 自動車の普遍的利用というハイモビリテイー時代に入り、 又、 経済の国際化、 企業の大規模化により、 問屋制とリンクした家業社会は、 市場経済の原則の貫徹により崩壊する。 この過程の中で、 従来、 市場原理の及ばなかった地域的な自給自足的な経済活動が大幅に蚕食され、 経済の企業化の領域が浸透する。 特に都市づくりの領域では、 企業的な事業主体の発展により、 今や公的主体はインフラ整備に徹することになる。 インフラ整備の役割すら市場経済に委ねる傾向もある(PFIなど)。計画は必要か
「市民社会」の都市計画、 市場経済の都市計画という二つの大きな潮流に対する思想の整理と同時に、 計画というものの本質に関わる生態的、 文化的な価値の復権と定立という命題がある。 市民社会的なルールとは意志決定システムの民主化の問題であるが、 同時に、 市民の長期的、 広域的な利害に関する先見性のある行動への働きかけが公的なリーダーシップとして存在することが不可欠である(「計画」という行為の社会的な承認と実行)。 また、 地域社会の生態的な安全性、 快適性と文化的な価値の擁護について、 短期的、 微視的な判断を乗り越えられるリーダーシップの存在も欠かせない(社会的なリーダーシップと専門家の立場の認知)。 これらが街づくりに反映されない限り、 日本人には貧しい未来しか期待出来ないし、 長期的な資産として積み上がられる街空間が歴史の淘汰に耐えうるものにはならない。 その様な長期的な資産の形成を図るという長期的な目標が社会的に重要な価値として受け入れられることが前提である。 これが都市計画というものの意味であり、 都市計画という専門的な技芸を社会的に重要なものとして認めるかどうかの分岐点である。 この議論の根底には子孫の幸せを望むことを含んで、 都市の公共性、 都市のアメニテイー、 都市の生活の質の問題がある。 これをどの様な形で社会的なルールに転化し、 短期的な意志決定の関係枠としての下敷きにし、 また、 経済活動のルールに転化出来るかという問題になる。 アメニテイーやの生活の質の空間的な内容についての十分の社会的な議論の積み重ねと、 それを主観的な価値の束として承認する仕組みが必要になる(アメニテイーや生活の質のイメージは客観的、 量的に証明できるものではなく、 空間的なモデルによって選択を迫る以外の方法は無い)。 それを創り出し、 維持し、 保全する公的な力に転化する社会的な仕組みを構想しておかなければならない。日本という固有性(日本土人の都市計画)
これらの全ての議論の中に、 日本という固有の状況を理解し、 グローバルな趨勢とは別の位相の判断が適切に行われるような現実的な議論が必要である(アメリカ、 ヨーロッパを明確に区別し、 日本をその鏡の上で理解する必要があろう。 特に、 都市計画については、 空間的、 歴史的にはヨーロッパに近い状況にありながら、 アメリカに追従することへの徹底的な批判が必要かも知れない)。
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