スマート・テロワール
農村消滅論からの大転換

あとがき

 二〇一四年二月二〇日、私の七三歳の誕生日ですが、この日に畏友、野口建彦君が亡くなりました。彼は日本大学経済学部教授で、経済史を専攻しカール・ポランニーの研究家でした。二〇世紀の名著に数えられる『大転換』の邦訳に参加されました。ポランニーの研究家では、『パンツをはいたサル』で颯爽と登場し経済人類学を世に問うた栗本慎一郎君(元明治大学教授)とも同期でした。
 二人のポランニー研究者を陰で支援し、私の退任後カルビー社長を引き継いだ中田康雄君を含めて三人は慶應義塾大学の学生自治会で活躍したメンバーです。栗本君は、私の後の全塾自治会委員長になりました。野口君は、経済学部自治会「理財学会」の委員長でした。中田君は教養部のあった日吉校で副委員長でした。一九六五年の卒業ですが、その直前に大学始まって以来の全学ストライキを敢行し、見事失敗し散りました。社会に出る道を捨てて学究に戻った栗本君と野口君は、私の中小企業の経営に、ポランニーの市場経済批判と非市場経済の有効性を指導してくれました。経営の実践では中田君が全身で支援してくれました。彼ら三人の支援でカルビーはそこそこの企業になりました。
 二〇一〇年、私がカルビーをリタイアして五年目、原料のジャガイモの栽培が思わしくないと聞き、根本原因の探索を始めました。その結果、ポランニーの経済システムの提案が粗末に扱われていることに辿(たど)りつきました。二人の経済人類学者の主張を取り入れて成果をあげていた私は、その実践を社会に広めることをライフワークにすべきと決めて、依頼された講演で紹介しています。日本の経済がますます市場経済に傾斜していくので、本の出版を急いだのですが、筆が迷っているあいだに野口君の訃報に接しました。
 三人との出会いは、中田君は現役のバリバリで、栗本君と野口君は一浪して、私は一浪一留で時を同じくして同じ大学にいたことが縁です。

 遠い昔の話になりますが、私の寄り道の原因は高校三年の秋、クラス担任だった堀芳夫先生の気まぐれに始まりました。私は高校時代、もっぱらクラシック音楽に熱中し、音楽班の班長などをやっていました。その関係で、堀先生が国語の教科書に「第九交響曲」が出てきたとき、みんなで全曲を聴こうと提案されて、その準備係に私を指名されました。
 大学受験で空気が淀みがちのところを吹き飛ばす狙いと読んで、早速自慢のコーナー型の大型スピーカーとアンプを教室に持ち込みました。「第九」を聴いて楽興に耽る者は少なかったのですが、持ち込まれたハイファイ機器に加えて、コーヒー用のパーコレーターを持ち込んだ友人がいて、翌日から昼食時は音楽喫茶になりました。器用な級友は教室の後部の板壁の釘を抜いてコーヒーカップの隠し棚にしました。壁板を元に戻せばカップは隠れてしまいます。コーヒーは、その頃、広島一と言われていた「衆望」から挽き立てを買ってきました。
 間もなく文化祭を迎え、クラスの演し物が音楽のある喫茶店≠ノなりました。ホームルームの壁には高校三年間の楽しい思い出の写真を、大きく引き伸ばし、ベニヤ板に貼り付けて飾りました。クラスの写真好きが持っているフィルムを全部集め一週間、暗室に籠りっきりで引き伸ばしました。文化祭に初めて登場した喫茶店(コーヒー一杯二〇円)が成功したことはいうまでもありません。中高共学でしたから華の女学生たちもみんな楽しんでくれました。
 文化祭が終わるとサッカーの高校全国大会県予選が始まります。戦後に全国制覇の実績のある高校でしたのでサッカー部だけが誇りですが、しばらく準決勝戦どまりで低迷していました。この年、県代表の呼び声が高く、試合のたびに全校で応援に出かけました。県代表になって、正月の全国大会では、京都の山城高校に一敗地にまみれて準優勝に終わりました。私は早生まれであることを納得材料にして浪人を覚悟し、高校三年間の最後の秋を自由気ままにすごすことを選びました。
 一浪の末、大学には転がり込んだのですが、いわゆる六〇年安保の年です。樺美智子さんが亡くなられた六月一五日の夜、機動隊の警棒が襲い掛かる下で、逃げまどいながらすごしました。

 一九四五年八月六日、私は母と、疎開荷物を積んだ馬車の荷物の上で原子爆弾の炸裂に遭いました。爆心地からわずか一・五キロの至近距離でした。道の両側の家屋が爆風で一瞬に倒壊しましたが、それにさえぎられて助かりました。母は四歳半の私を小脇に抱えて倒壊している家屋のもやの間をくぐったりしながら家業の雑穀の加工場に戻り、火の始末をして、近くの川に避難しました。
 その日は終日、火災を避けて三篠橋のたもとの川のなかですごしました。火災のなかで繰り広げられている凄惨な生き地獄は記憶にありません。火の粉が飛んできて私の胸に小さな火傷を残しただけです。大惨禍のなかにいながら、つらい記憶がないのは、子どもの頃は「仔馬のマコちゃん」と呼ばれていて、いつも母のそばにいて育ち、被爆の日もずっと一緒でしたから、何の不安もなかったのでしょう。最近、幼児に対する虐待が報道されます。なぜ、そうなるのか胸が痛みます。母の愛を受けられないことは悲しいことです。どんな動物の世界でもありません。
 父は福岡県の部隊にいましたが、除隊して広島に帰ると、すぐさま代用食の製造を再開しました。戦後のひもじい時代です。その年の一二月には、宇品にあった陸軍糧秣廠の払下げを受けて事業を拡大しました。彼の食品事業に懸ける夢は、戦前に青年団活動で東京から招いた栄養学の大家から聞いた「未利用資源の活用」でした。このコンセプトは、昭和の初めの米相場の暴落で家業が破産し、進学をあきらめて醸造所から排出される米糠の活用を事業にしていた父の生き甲斐になりました。父は、瀬戸内海の資源で小エビが粗末にされていることに注目して、「かっぱえびせん」を創作しスナック食品の時代の先駆けになりました。六二歳でジャガイモが未利用資源に留まっていることに着目してポテトチップ事業に取り組んでいましたが、その最中でも、米麦の搗(とう)精(せい)で生じる「糠」の活用に執念を燃やしていました。父の座右銘は「一生一研究」でした。

 本書では、日本でいかに未利用資源が活用されないで放置されているかを、いろいろな角度から紹介しています。未利用資源を活用して自立の道を拓くには、それまでに成功した人々がつくっているルールを壊さなければならないと主張しています。日本の最大の未利用資源は人です。そして過剰になった水田です。資源を有効活用しないで、海外から資源を買ってくることに狂奔している人々が尊敬されています。しっかりと現実を見なければ、いくら情報化時代といって浴びるように情報を食べても、薬と同じで血肉になることはありません。
 農業と農村問題に頭を突っ込みますと、日本と似た風土の東アジア諸国のことが気にかかります。農業がうまくいっていないことが様々な紛争の源になっているのではないかと愚考します。文明開化で産業が興り、急速な人口増加にともない、近隣諸国にご迷惑をかけたことが原因の一つと思うからです。
 頭を垂れて詫び続けることを良しとしない勢力がありますが、世界の常識ではそのほうが尊敬されるのではありませんか。スウェーデンは、近隣諸国を侵略する常習犯でした。その歴史を反省して、中立国になりました。スイスが永世中立国になっている事情は少し違います。ヨーロッパ各国に兵隊を輸出していたからです。ドイツは永久に反省する決意と引きかえにEUの盟主の一角を占めています。
 瑞穂の国の日本には、「実るほど頭が下がる稲穂かな」という格言があります。日本に限らず、胸を張って居丈高にしている国が尊敬を集めるということはあまり聞きません。アジアの人々に頭を垂れて良いもう一つの事情があります。西洋の列強が喜望峰を回ってアジアを陥れて、アヘン戦争で中国を食い物にしていました。北からロシアがウラル山脈を越えて、清国からシベリアを買収して南下していました。スペインに略奪されていたフィリピンやグアムは、米国がカリブ海でスペインと戦い、太平洋の彼方から奪い取りました。最果ての国日本は、アジア人の困難を知って脱亜入欧を決心し、西洋文明を取り込む決意をしました。アジアの国々で繰り広げられていた列強の政治的、経済的な暴力への抵抗のおかげです。
 東アジアの工業化には充分貢献しました。貧しさで競争することは要りません。米国が仕掛けているその先の競争はどのようなものでしょうか。TPPの仕掛けを見誤ると酷いことになります。

 大学が市民のために多様なチャレンジに臨む機会を作ることについては、四年前にコーネル大学で一週間学習したことで目を開かれました。ニューヨーク州イサカから一時間ほどの地、ジュネバ校の食品の製品開発施設や、ニューヨークワインの成功の秘策の学習ではアクリー教授にワイナリーツアーまでしていただきました。
 この学習旅行を企画したのは、コーネル大学終身評議員の松延洋平さんと、『ポテカル』編集長をお願いしている、農業問題の鬼才、浅川芳裕さんです。浅川さんには本書へのアドバイスと構成もお願いしました。
 本書執筆に当たり触発された書籍『シビック・アグリカルチャー』の訳者である北野収・獨協大学教授にもお世話になりました。雑誌の対談でお会いし、「再ローカル化」の議論を深めることができました。
 本書の出版を勧めていただいたのは、京都府立大学教授の宗田好史さんです。乱雑になりかける私の貧しい日本語に鞭を入れていただいたのは、学芸出版社の編集者、前田裕資さんです。厳しい鞭にもかかわらず、意味不明瞭は私の責任です。
 夜遅くまでパソコンに向かいながら眠りこけている私を起こしてくれて睡眠時間の欠乏を心配してくれたのは家内の三枝子です。各位に御礼を申し上げながら、今は亡き、経済人類学者野口建彦君、食品会社の事情を教えていただいたこもだたかこさん、私の片腕になってカルビーで奔走してくれた懸川壽久さん、和田彦雄さん、そして最近亡くなられた川瀬博之さんは私同様被爆者でした。彼らに本書を捧げます。

 二〇一四年十月松尾雅彦