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古地図にみる東南アジア




あとがき



 科学技術が発達し、交通機関が帆船から汽船、飛行機へと次第に便利なものに変わっていくにつれて、多くの時間を節約することができるようになった。たとえば、私の住む沖縄と東京の間は、飛行機では2時間半しかかからないが、フェリーだと3泊4日、ヨットだとじつに1週間以上もかかってしまう。しかし、移動にともなう時間が節約できるようになった半面、移動そのものを楽しむプロセスは旅から失われてしまった。
 数年前に私は、ヨットで沖縄から岡山までを航海したことがある。さわやかに頬を撫でていく風に背中を押され、我々は那覇港を後にした。出帆してしばらくは、海がどんなにか青く、空がどんなにか広くみえたことか!我々をのせたヨットは、カーペットのような大海原の上をなめらかに滑っていった。
 しかし奄美大島沖で低気圧の襲来をうけたとき、周囲の状況は一変した。我々の34フィートのヨットは木の葉のように翻弄され、寄せくる小山のような波はマストの先端をこえて船首で砕け散らんばかりであった。ヨットのまわりで風が狂ったようになり、いまにもセールが裂けてしまいそうだった。
 低気圧をやりすごすと、以前にもまして素晴らしい光景がそこに待っていた。九州南部のトカラ列島の一つの島の沖に停泊して、途中で釣ったサワラを賞味したり、ヨットを遠まきに囲んで仲間同士でしきりに話を交わしているイルカの群れの真ん中に飛び込んで一緒に遊んだことは今でも忘れがたい。そういえば、トカラ列島にはスティーブンソンが小説『宝島』のモデルとした島があるともいう。
 こうしたドラマチックな感動は、飛行機の旅ではとうてい味わえない種類のものだ。こうした旅では、「移動」そのもののプロセスが旅の楽しさに直接結びついている。本書のなかに出てくる大航海時代のヨーロッパ人たちもまた、同じように感動を味わっていたのだろうか。
 東南アジアの先住民からすると、こうしたヨーロッパ人たちは彼らの犠牲の上に巨万の富を築き上げた侵略者である。タイを除く東南アジアの全域が彼らの植民地となり、農民は土地を奪われ、栽培作物は次第にプランテーション化されていった。その結果、それまで栄えてきた王国は次々に滅びていった。新しい統治者であるヨーロッパ人たちは、異国でも祖国での生活を再現することにつとめ、それまでの都市とは全く異なる都市を海峡植民地に築き上げていった。
 そうした歴史的な事実を知ってもなお、彼らの残した航海の記録や使用した地図、海図などは私を魅了してやまない。当時、東南アジアまでの長い道のりは、彼らにとって文字どおり命がけの大旅行であったろう。気まぐれな天候との戦いや祖国とは異なる天空の星々を道しるべとしての旅では、一時も気が休まることはなかったに違いない。そんな彼らが命を託したのが、本書で紹介している地図や海図だったのだろう。実際の地図や海図は単なる紙切れにすぎないが、そのなかには彼らの未知なるものに対する熱い想いが込められているように思われる。
 最後に、このような翻訳の機会を与えてくださった東京大学の西村幸夫先生と、作業を手伝ってくれた新川清則氏、五十嵐直子嬢に深くお礼を申し上げます。

1993年4月
安藤徹哉



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序文
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