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マンション管理とメンテナンス




あとがき



 私たちが日ごろよく使う「家」という言葉は、「住まいとしての家」と「家族としての家」の二つの方向でイメージを結びます。ところが、マンションを考えるときは、それらの二つとは方向を異にした「集まりとしての家」をもう一つイメージしなければなりません。もし、本書の中で幾度となく使ってきた「快適さ(アメニティー)」の意味を真に問うとすれば、それら三つの「家」のイメージが集合してくるものであるはずです。しかし、三つの「家」のイメージをほどよいバランスでとらえる視点を見つけ出すのはなかなか容易なことではありません。中でも「家族としての家「をどうとらえるかを考えるのが一番難しい問題です。かつて、リビングルームのソファに主人はパイプをくゆらせ、かたわらで奥さんは編物、子供たちは絵本を開けて……などのイメージがコマーシャルとして流れましたが、もう誰もそんな幻想を信じないほどに「家族としての家」は崩壊しています。崩れはじめた「家族としての家」が、「集まりとしての家」のイメージとどのように関係してゆくかは大変興味のある問題です。しかし、実務を考えることを目的とした本書で、この問題をとりあげるのは危険がありすぎました。
 そこで、本書では、「家族としての家」にふれることを断念しています。今後、様々なマンションで結ぶであろう「家族としての家」の様々な像に十分な注意をしてゆこうと思います。解体してゆく「家族としての家」を中心に据えて本書を見直すと、どのような組み替えを必要とするのか、これは私にとって密かな恐れと楽しみになりました。
 本書をまとめるに当たってはもう一つ困難な問題がありました。それは、法の言葉と日常の言葉の断層をどのように埋めるかということです。
 日常の方から法の言葉に上昇してゆくのは比較的やさしく、多くの役員経験者は、すでに、十分な専門用語を駆使していることでもわかります。しかし、法の言葉を日常の方に降ろしてくるのはなかなか容易なことではありません。マンションをめぐる多くの裁判がこのことを語っていますし、区分所有法の改正以来出版された法関係の解説書が、一様に日常の住みこなしのスタイルにふれることを避けていることでもわかります。
 見方を変えれば、法などないにこしたことはなく、居住者が事前のルールを発見してゆけばよいとも言えます。しかし、現実に区分所有法があり、これに拘束されるのは避けて通れません。かと言って、法の言葉だけで管理が考えられることになると、次第に主体としての居住者自身も管理されてゆくことになるでしょう。今後、管理会社などの手でますます進められてゆくシステム化された管理、その一方、いわゆる業者側の論理に対置してイメージされる完全な自主管理の行く先にも、ある種の停滞を見ることができます。仮に、法や規約通りに細かなところまでゆき届いた管理がされたとします。居住者の意志は常に一つに統制され、一人のルール違反者もいない「管理組合王国」ができたとすると、そこで、「家族としての家」、または、その別話でもある「見えない家」はどんなイメージを結ぶのでしょうか。私には、管理が完璧に組織化されてイメージされればされるほど、その像が見えなくなってしまいます。
 これもまた、マンション管理を「住まいとしての家」「集まりとしての家」のベクトルとしてとらえられたために、次ぎなる問題として見えてきたことでもあります。
 マンションをめぐる様々な問題の日常的な困難さから、ともするとマイナー・トーンになりがちな私の筆先を、以上のような根源的なことを問う場所に立ち帰らせ、安易な収〓と横すべりに落ちこまないように、チェックの役目を担って下さったのは、学芸出版社社長の京極〓宏さんです。編集は、以前にもユニークなマンションの本を編集された土居祐子さんのお仕事です。
  一九八四年秋
藤木良明



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