じゃあこれからのまちづくりはどうしたらいいのか、 ということを考えてみたいと思います。 町の途中もそうなんですが、 町なかのまちづくりも問題です。 その一つの例として軽井沢宿を取り上げてみたいと思います。
これは平成7年の軽井沢宿です。 最近、 大学で教えていますと、 若い大学生は軽井沢が宿場町だったということを知らない。 旧軽銀座というような俗っぽい名前で呼んでいますけれど、 旧軽井沢、 そこはもちろん軽井沢の宿場であったわけですね。 そしてここに見えている旅館「つるや」さんは、 火事で焼けまして、 今は新しい建物になっていますが、 この写真は東京側から入った入口の所です。
一見宿場町風の建物が残っています。 これはみんな明治から大正にかけてのものです。 この付近、 東側から入ってしばらくはこんな雰囲気が続いています。 まあ、 お土産物屋さん等が並んでいます。
和風のところにきれいな花を置いています。 夏になりますとバカンスに来るお客さんが、 色とりどりの服装をして歩いている。 これはこれとして一つの景色になってきています。
そして2階の窓には、 格子の窓などを入れたりしまして、 これが軽井沢ならば、 なんとか似合っているなという感じになっています。 この部分が比較的宿場的で、 昔は宿場町だったと説明をするには良いかなという場所ですが、 その後どんどん変わってきました。
しかし、 そういう近代的な町並みの間に昔の宿場を示すものが若干残っています。 これは神宮寺です。 ちょっと奥まった所にありますので、 この石柱に気が付かないでその前を通ってしまう人が多いのですが、 中へ入りますと、 スライド63のような形になっています。 目の前を観光客がぞろぞろ歩きながら、 ここまで入ってくる人はあまりいないんですね。 ここだけが別の空間になっているという気がします。
そこに土屋写真店というお店がございます。 このお店は軽井沢で大正の初めから写真を専門にやってきたお店です。 ここで注意していただきたいのは、 軽井沢というのは中山道の宿場町であると同時に、 明治になってからは別荘街の中心地として発展した、 また、 現代のバカンスの中心地というように3段階に発展した町だということです。 そこがちょっと他の宿場町とは違うわけです。
ですから父が軽井沢を調査に行ったときには、 既に明治の新しい別荘街としての軽井沢になっていて、 比較的古いものは少なかったのですが、 それでも軽井沢はそれなりの発展をしました。 それを見続けてきたのがこの土屋写真店です。
その土屋写真店の方がお撮りになった昔の軽井沢の写真があります。 これは大正2年に土屋写真店の前で西側を見ているところです。 さっきの写真と同じ位置になります。 そこで着物を着て、 いがぐり頭の男の子がいますが、 その方が今のご主人であります。 もう60数才の方ですが。 その方の若い頃の写真です。 外国人が避暑に来るということで、 英語の看板あるいは垂れ幕がいっぱいあって、 当時としてはハイカラな雰囲気がみえております。
その同じ位置が今はこういうふうになります。 さっきの軽井沢の町に入ったばかりのところはまだまだ昔風の所はありましたけれど、 今の軽井沢の中心地はこういう調子です。 説明しなければ原宿の一画を撮影したんだといっても、 ああそうかなと思っちゃう人が多いんじゃないでしょうか。
土屋写真店から今度は東側、 江戸方を見ます。 「写真」と上に大きな垂れ幕がみえていますね。 歩く人は着物を着ている人が多いし、 洋装の方はどうも外国人のようです。 これも大正2年の写真です。
既に、 別荘街の中心地として、 新しい発展を遂げましたので、 まわりのお店は今まで父が映しましたような、 江戸時代風のお店構えではなくて、 派手な看板が出て、 そして並木を植えまして、 なかなか賑やかな雰囲気になっております。 しかし今、 これも無くなってきているわけです。
同じ位置で今度は昭和10年です。 それほど変わっていません。 自転車が増えた。 着物を着た人がほとんどいなくなって、 洋服の人になった。 それから、 電信柱がかなり増設されまして、 現代の町に段々近づいてきた雰囲気がみえます。 相変わらず軽井沢の夏の風景でした。 さてこれが現代どうなったか。
全く同じ位置での撮影です。 山は変わりません、 向こうに山がみえます。 昔の看板はあったにしても比較的統一がとれていました。 ところが、 現代をみますと、 横看板あり縦看板あり、 旗あり、 そして色もとりどりです。 まちづくりとしては非常に雑駁な雰囲気が否めません。 バカンスの町だからこそ許されているのでしょうか。 さてこのままで良いのか、 それはこれから考えなければなりません。
先ほど申しましたように軽井沢という町は江戸時代の発展の次に、 明治からの発展がある、 別荘街としての第2段階の発展があったわけです。 その時の郵便局です。 このとおり大変ハイカラな洋風の建築だったわけです。 外国人がそこに何人も並んでいます。 おそらく自分の国に手紙を出したりしたんでしょう。 この郵便局の建物は、 後に郷土資料館になりまして永くありましたが、 傷みが激しくなりまして、 地元の自治会でいろんな議論の末、 結局解体ということになりました。 そしてその後どうなったか。
一見同じに見えますけれど、 これは解体した後に全く同じイメージで復原した新しい建物です。 これは平成7年に開館いたしました。 現在は観光会館として使われています。 軽井沢は江戸時代の名残だけではなく、 こういう近代の名残をもう一度再生させようということを試みているわけです。 それがこの場合は成功している。 この観光会館に限っては成功していると思いますが、 いっぽう目を横に移しますと、 先ほど見たように、 町並みそのものは良いものが失われてきています。
これは父が撮影した昭和24年の「つたや」というお店です。 これはその当時の軽井沢宿で唯一の昔風の建物だったわけです。 2階はバルコニーに改造してありますけれども、 よく見るといわゆる「出桁造り」になっています。 造りとしてもバルコニーの手すりが美しいというのもさることながら、 昔の宿場の面影も感じられる、 そういう建物だったわけです。
今度、 中山道の本を編集するにあたって、 今どうなっているかを見に行きたいということで、 父に言われて見に行きました。 そうしたら惜しいといわれました。 平成2年か3年の頃に壊されましたと地元の人に言われました。
そして、 こうなったわけです。 「つたやビル」と今は呼んでおりますが、 何の変哲のないビルに変わってしまいました。
これはおまけですが、 昔の軽井沢の町並みです。 それがどんどん変わっていった。 手前に飛び出しているところ、 画面の一番右に飛び出している玄関みたいなものが見えています。 電柱があって外人が立っていて、 その上に飛び出した玄関みたいなものが見えています。 ここが実は、 江戸時代の本陣の入口にあたるところです。 本陣の建物の前にこういう洋風建築が建って、 その入口を入ると奧が本陣です。
現在は建物が取り払われまして、 写真の電気屋さんの角の曲がり角、 そこを曲がると道路ができています。 現在は軽井沢教会通りとなっています。 昔の本陣の入口の部分なんですね。
今はごちゃごちゃとお店が出ていますが、 ここが昔軽井沢の本陣があった敷地です。 そういう感じが全然わかりませんね。
ところが今の出店の陰に、 このような石柱が建ってまして、 その石柱には明治天皇の行在所と書いてあります。 本陣は、 明治になってから、 明治天皇が御巡幸の際に行在所にしたところがたくさんあって、 これもそうです。 そういう石柱からわずかにここが本陣の跡とわかるのですが、 そこをリュックサックを背負って歩いていく女の子は全然気が付かないですね。 こういうような状況になってきています。
軽井沢は特別な町ですのでこのような発展も仕方がないと思いますが、 まだ今からでも間に合う、 今からでも遅くはない、 これからどういったまちづくりをしていったら良いのか、 江戸時代の良さ、 あるいはその後明治、 大正と発展していった良さも中に取り入れながら今のまちづくりをする。 そういうことを、 今からでも遅くなから考えていかなければいけないのではないかと思います。
これからの「まちづくり」のために
―軽井沢宿を例に―
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