大河直躬:
一番宿場らしいのは信州
それでは次に、 大河先生にお願いいたします。 さきほどの藤島先生の講演をお聞きして何か一言お願いします。
さっきスライドを拝見してますと、 私が見た時代には、 もうその姿を変えているものもかなりありました。 やはり、 中山道で残っている建物が一番多いのは、 長野県です。 長野県内は、 今でも民家と町並みの宝庫だとおもいます。 最近は奈良井宿とか妻籠宿とか海野宿のように伝建地区になった宿場もあります。
実は、 日本建築の先生方は早くから信州に多く出かけられております。 一番早くお調べになったのは、 大正時代に関野貞先生が重要文化財の、 当時でいえば国宝ですね。 社寺建築の指定のためにずっと廻られまして、 それから昭和に入ってからは、 京都大学の教授をされていた天沼俊一先生が気に入られてずいぶん歩いておられました。 先生の書かれたシリーズの随筆集の中に、 ずいぶん信州の建築を廻られたことがでております。
戦後は藤島亥治郎先生と大岡実先生が、 昭和二〇年代にくまなく廻られ、 それから太田博太郎先生が県の文化財の審議委員になられてからは、 ずっとまわられ、 そして、 現在私が県の委員をしております。
信州へ行くと面白いですね。 宿屋へ行くと、 玄関を入ったところの襖にすごい絵が描いてある。 下の署名の所を見ますと「雅一路」とかいてある。 「雅一路」というのは亥治郎先生の画号でして、 たいがい酔っぱらって一晩で描かれたものだと思うのですが、 どうもその方が出来が良くて、 なかなか良い絵がありました。 それから、 ある民家へ行って、 家の人に言われてちょっと仏壇の脇の壁に掛かっているのを見ましたら、 大岡実先生の色紙なんです。 これも珍しいですね。 他の人は大岡先生の色紙なんて見たことがないと言っています。
私がまだ新米の時に民家の調査のついでに、 「ちょっと神社と寺を見てくれ」といわれて見て、 「これは、 だいたい寛文くらいじゃないですかね」と言いますと、 「いや、 前に来られた大岡実先生もそうおっしゃいました」とか言われます。 大先生の判定が先にあって、 それを隠しておいて、 若造だと思って試験をするわけですね。 先輩が歩かれた所は大変です。
先生もさっきおっしゃいましたけれども、 岐阜県から西の方の宿場の建築と、 信州の宿場の建築は外観も違いますし、 間取りも違うし、 中のデザインも随分違います。 それから碓氷峠を越えてこっちへ来るとまた違います。 特に熊谷の辺に来ますと随分違っています。
私は内部の造作の良さで言ったら断然岐阜の方が上ですけれども、 一番宿場らしいのは信州じゃないかと思います。 それは、 どういうことかといいますと、 まず建物が大きいですね。 宿場も大きいですし、 建物も大きい。 それから西の方に行くに従って宿場の建築と都市の町家の形式とはあまり違わないのですが、 信州では宿場の建築は宿場の建築、 都市の町家は都市の町家と大きなちがいがあります。
例えば問屋場は、 一つの宿場に上問屋、 下問屋など2つ以上ありますが、 縁側を入ってからかなり奧まで大きな板間がありまして、 そこに荷物を一度置いて積み替えをする。 道路沿いにそういう建物があるのもありますけれども。 本陣なんかも住居の方が荷物を運び込めるようになっていまして、 これが大変バカでかいですね。 和田宿なんかですと間口10間とか、 みんな大きいですね。 またそれに大名なんかが泊まる上段の間が付いた座敷がある。
先ほど写真に出ました、 草津本陣、 これは今は公開されていますので是非ごらんになって頂きたいと思います。 座敷の部分はなかなか立派です。 しかし、 台所の方は火事で焼けたときに、 他から移築して持ってきたということもありまして、 割合小さく粗末なものです。 ですから、 大きさも違います。
もうひとつ、 信州の宿場の町家というのは外観にいろんなデザインがあります。 皆さんが良くご存知なのは、 写真にも出てきましたけれども、 本棟造りといって、 板葺きの切妻造りの正面が道路に面している。 もちろん切妻造りの妻側を正面に向けたのは、 関東地方の館林の近くの犬伏宿にもありますし、 西のほうに行ってもありますけれども、 信州の場合にはそれをデザインして、 妻の所に中2階の格子窓をつけたりだとか、 非常に工夫したスタイルができている。
それから木曽に行きますと、 2階を前の方に3尺とか4尺5寸とか持ち出している。 おそらく荷物を下に置くのに、 軒先が前に出た方が良いからだと思いますけれども。 さらに、 そこの所に猿頭といって、 上の桟が猿の頭のような形にできていて、 下から板を張り付けて、 それを上から鉄のねじり棒のようなもので吊っている、 というようなものがあります。 そういうもので庇をさらに前へ出している。 そのように先へ先へ出して、 下に荷物を置けるような町家というのは、 信州以外に私はほとんど見たことがありません。
そういうことでやはり、 信州が日本でも宿駅の民家らしいものが一番発達したと言えるのではないかと思います。
しかし一方で、 これは後で藤島先生のご意見を伺いたいのですけれど、 ヨーロッパとかアメリカには、 日本の宿駅にあたるような独特の集落というものがないですね。 アメリカに行きますと、 西部劇の駅馬車が着く集落が確かにありまして、 駅馬車の着いた所に女性のいるレストランで2階が宿屋になったものがありますけれど、 日本の宿場みたいに家が密に建ち並んで、 長いところでは1000m以上両側に並んでいるというのはありません。
ヨーロッパに行きましても、 確かに宿駅の機能を果たしていた町はあって、 そういうところに行くと、 だいたい現在でもホテルにはホテルポストと書いてあります。 郵便業務を一緒にやっていて、 下はレストランで、 上は客室になって、 ポストの役目もしていた。 でも日本のようなものはないですね。
日本の宿駅が発達したのは、 特に中山道のようなものが発達したのは、 大名や日光例幣使のような行列が通ったということもありますけれど、 どうもそれだけでもない。 庶民の観光旅行が江戸中期に発達したということもあるだろうし、 それだけでもない。 さっき藤島先生のお話の中にも出てきましたが、 周辺地域のレジャーの役目も果たしていたことも確かです。 いろんな要素が複合して日本独特のものができたのではないか、 外国にはあまりないんじゃないか思うんですけれど、 ちょっと後で藤島先生のご意見をお聞きしたいと思います。
以上でございます。
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