第3回 歴史・文化のまちづくりセミナー
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美濃路
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大湫宿脇本陣保々家主屋
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これは大湫宿の脇本陣です。 美濃路は大井から太田宿までの長い道のりがすべて高原になっていて、 私は三日かかって越えました。 その途中宿場もなくて旅人は苦労したので、 やがて幕府は大湫、 細久手という二つの宿場を作りました。 私は山坂を上がり下り、 上がり下りで。 そのうちに石敷きの道も見つかりました。 それでもあそこの3日間というのは淋しいし苦労いたしました。 今でも思い出すんでございますが。
ずい分淋しい、 心細い思いがしました。 そういえば幕末の公武合体の犠牲になった和宮が京都で恋人から離され、 はるばる江戸まで中山道を行ったとき、 どんなに淋しい思いをしたか。 大湫と細久手の間の御岳や伊吹山の見えるところで歌った歌は、 「住みなれし都路いでてけふいく日、 いそぐともつらきあづま路へのたび」でした。 そのつらさは思いやられます。 なお、 細久手の大黒屋旅館は昔の旅館をそのまま残した唯一の例です。 安政5年(1858)の建物で、 今も営業しています。
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太田宿脇本陣林家
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ようやく木曽川を美濃の太田の渡しで渡ると、 太田宿で、 この脇本陣林家は造りからいってもすばらしいもので重要文化財でもあります。 京都風の屋根の備えですので、 京都の文化がここまで濃厚に来ていると思わせます。 上の方も二階は天井が低くて、 いかにも時代の古さをよく表しています。 これは中山道の脇本陣の代表作です。 隣に別家の家もございまして、 これもよろしい。
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