第3回 歴史・文化のまちづくりセミナー
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東信濃路
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沓掛掛宿東入口
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これは中軽井沢(沓掛)の東の入り口のところで撮ったものです。 これから橋を渡ると中軽井沢になります。 すばらしいですね、 今はこの浅間山へは登れませんがね、 まだ若いとき登りました。 頂上から遠くに富士山を見ました。 そしてその夕方には、 今度は越後の妙高山に登りました。 元気よかったものでしたよ。
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追分宿分かされに立つマリア観音像
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これは追分宿の西端、 越後街道との分岐点(分かされ)です。 その三角状の分かれ道に灯篭や彫刻や碑が集められています。 滝沢馬琴の碑もあります。 非常に情緒の深いところでございます。 道中安全を祈るためでもあります。 こういう「分かされ」は、 ここと、 それから塩尻の先の洗馬宿と善光寺街道との別れ道にあります。 お見せする彫刻はマリア観音といってるんです、 普通ね。
マリア観音というのは木曽の奈良井にもございます。 奈良井のは赤ちゃんを抱いています。 何となく味のある彫刻です。 この辺の石像は一種の特色がありまして、 田舎の彫刻というのは風土的な味わいがございますね。
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小田井宿東外れ
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さて、 浅間三宿を過ぎていきますと、 線路を越えて小田井宿。 これはいい宿でございます。 中山道の中でも実によく残された宿場です。 これは昭和23年の時に撮った写真ですが、 宿に入る手前の美代田の町並みです。 ここには一里塚もあります。 非常によく残った町百姓の家並みです。 これは町百姓の家です。 小さな哀れな家です。 3間あったらいい方です。 3間ありゃしません、 1間半とか2間とか。 実に淋しいものでございました。 今おそらく全部ないでしょう。 宿場の入口には、 こういう町百姓の家並みが多かったものでした。
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小田井宿中町
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これは小田井の中町を東から見ています。 どの宿もほとんど上町、 中町、 下町とございます。 江戸方面からはじめて例外もありますが。 この右手に蔵があり、 右側に本陣があります。 美しい塀のあるところが。 それからその先に脇本陣の家があり、 上問屋の家もそれに続きます。 それから用水堀は左側の家に沿う溝になっています。 下の問屋は左手の方にございます。 皆非常によく残っている。 中山道ほどよく残った宿場はほとんどありません。 その一つがこの小田井宿でございます。
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小田井宿脇本陣尾薹屋
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その小田井宿の脇本陣の家で、 尾臺屋さんという家です。 昭和23年の時の、 古煤けたひどい写真ですが、 今は修理されて立派になっております。 ここは上問屋もやってましたから、 問屋の品物のためにこのように広い置場があります。 置場の奥に居間があり、 床の間の座敷があります。 それから二階はちょっとした客間だとか、 寝間、 それから物置ですね。 二階はこのように前へ突き出します。 桁を前につき出した出桁造りです。 信州の家はこのような出桁造りが多くて、 関東の家とはちがいます。 こういう風にして二階の方が広がってくるわけです。
こういう屋造り、 そして上の方はこけらの屋根。 こけら葺きもね、 まだたくさんある。 あとは石を置いた家ね、 今はどこにもございませんでしょう。 こういう昔の良さ、 田舎の良さを味わってもらいたい。
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千曲川の架橋
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芦田宿旧旅篭屋山浦家
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ずっと行きまして芦田の宿です。 この辺は皆いいんですよ。 北佐久郡の宿場ですが。 この家は芦田宿のうちでも一番古い。 桃山時代だっていうんですがね。 なるほど、 慶長頃のものかもしれません。 でも全部その通りじゃないけれど。
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笠取峠の松並木
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ここから長久保新町というところまで笠取峠を越えます。 峠の松並木はよく残されています。 私が越えたときは終戦後で乗り物がなく、 リヤカーにのり、 馬に引かせてこの峠を越えました。 でも中山道で一番よく残された松並木でした。
この松並木は徳川幕府がこの地方の大名たちに赤松を下付して、 何千本と分けて植えさせたんだそうです。 が今はその半分あるかないかですね。 並木がだんだんなくなってくるのは淋しいことでございます。
この峠の頂上に行くと、 無事に通過したお礼に小さな可愛い石仏が安置されています。 峠の仏でございます。 それから峠の茶屋には、 『三国一の力餅』という看板があり、 銭箱もあります。 昔が偲ばれます。
旅は歩いて味がありますが、 大体私が歩いたときは終戦後ですから中山道のどこでも私は苦労しました。 その頃は宿もなし、 飯もなし、 妙な所へ泊まり込んだりなんかして歩きました。 土地の方の、 教育委員会やら小中学校の先生方のご援助がございまして、 なんとかして歩いたんでございますけど。 けれどその時が私には一番なつかしゅうございます。 今と違います。 今の中山道はダメですよ、 自動車で通り抜けるのではね。
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長久保新町宿本陣石合家客座敷
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長久保新町宿の、 本陣石合家客座敷の二の間です。 手前の方は三の間で、 それから裏の方の間がある。 左に曲がったところが上段の間でございます。 一段上段ですから、 ちゃんと上段の間は床框の高さだけ約八寸上がっております。
非常に古い、 中山道の宿場のうちでも非常に古い家でございます。 床が二重に貼られてある。 これは曲者が床下に潜んで殿様をやっつけることを防ぐ意味でございます。 それから欄間の非常にさばっとした造りなどもたいへんいいものでございまして、 文化庁としてもいつかは重要文化財にでもしたいという気持ちがおありのようでございます。
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下諏訪宿本陣岩波家客殿
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これはまた非常にすぐれたお宅で下諏訪宿の本陣岩波家です。 私たちもとうとう下諏訪に来たわけですが、 ここは諏訪神社という古来の社があると共に、 古い温泉場として宿場以前から町として栄えていました。 中山道で温泉場はここだけです。 享和元年(1801)以前の作です。
ごらんの通り、 全く京都風の洗練された美しい客殿と庭でございます。 ことに京都でもほとんど見ないことは廻り縁の桟が二重に突き出して、 しかも軽々と美しいことです。 昔の図面で調べてみますと、 まったく同じような建物を幕末につくったんです。 年号から何から皆わかっております。 それが実にいいんですね。 これ小座敷でしょう。 まわりにこういう縁側がありまして、 また吊り欄間になっているところがあります。
つまり軒周りの欄間が廻り縁についてぐるりと周っているけれど、 それを支える柱は一本もなく、 その先に深く2重に出た軒先近くでようやく細い柱で支えているが、 軒は軽々と深く突き出して美しいことです。 大胆ないい造りです。 私はちょっと桂離宮を思い出したくらいです。 よく保存されております。 庭がまた非常によろしい。 これは京都の文化をそのまま持ってきたというようなものでございまして。 十分観賞に耐えるところで、 夏なぞはなんとも言えません。 蛍は飛び交いますし、 かきつばたは池にありますし。
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下諏訪宿本陣岩波家軒廻り
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下諏訪宿本陣岩波家一の間床の間
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ほら、 こういう具合にね、 周りが柱なしでしょう。 そしてまわっていくんです。 その上にまた軒が出ているんです。 こういう造りはここだけじゃあございません。 京都にございました。 京都の島原の揚屋にね。 でもその作風は岩波家がはるかにすぐれています。
右は一の間です。 わりに狭い床の間。 右脇に板の間があつて読み書きが出来る。
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下諏訪宿本陣岩波家庭園
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下諏訪宿本陣岩波家所蔵「燭台」
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これは庭です。 もっと東の方に滝を落としてますよ。 それの側面が大体左手の方にちょっと見えます。 それが右手の方に流れるんですが…。 かきつばたの花も咲いております。 あとはつげやらつつじなどの…。 よくできた京都風の庭でございます。
右のような燭台、 いいでしょう! こういうのはね、 京都でなければできませんよ。
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下諏訪宿本陣岩波家所蔵「行灯」
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下諏訪宿旅篭「中川」店の間
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これもそうです、 行灯ですよ。 すごいでしょう? こういう行灯欲しくありませんか?たいへんいいと思います。
なお、 この下諏訪にすばらしい宿屋がありました。 典型的な旅篭ですね。 20年代に私が見つけまして、 大事にだいじにしておったんですけれど、 もう今はだめです。 形骸だけが残りまして、 中はね、 普通の家になってしまいました。 残念でございます。
これは入り口。 この板の間で草鞋を脱ぐんですね。 足をすすぐんです。 そして中へ入る。 そして奥につづく二列の客室に入ります。
このへやで昔風に食事してみました。 昔の行灯を皆出して。 そしたらだめなもんですね、 行灯の灯は下の方のお膳はよく照らしますが、 お酒をつごうとしても手くらがりでうまく注げません。 でもそういう風にして昔の人は楽しんだんでございます。
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英泉画「木曽街道塩尻峠諏訪ノ湖水眺望」
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さて、 塩尻峠を登って、 松本平へ下りるんですね。 これは塩尻峠からの眺めです。 この英泉の絵は実景です。 富士山が遠くに見えます。 東の方にあるのは八ケ岳ですよ。 八ケ岳から蓼科川です。 木曽駒ケ岳が見えるのです。 そして諏訪の湖です。 例の、 冬になると凍るでしょう、 凍ったところが神渡(おみわたり)いたします。 上社から下社へね。 その時に人間様もこうして氷の上を歩けるようです。 氷の上を歩いてるところです。
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