第3回 歴史・文化のまちづくりセミナー
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道の通され方

改行マークさて、 宿間の距離で一番長いのは群馬県の碓氷峠の手前の坂本宿と軽井沢。 この間は長い。 それから和田と下諏訪の間も長い。 5里半ていうとたいへんでございますよ。 坂本の宿というのはなかなか良い宿です。 実はなかったのです。 軽井沢宿はとてもつくりにくかったけれど。 軽井沢のあの土地は、 天明の浅間山の大噴火ですっかり埋まってしまいました。 でも幕府はどうしてもこの峠に道をつくりたかったのですね。 だから無理につくった宿場です。 あそこらは麦も米も何にもできやしません。 そこに宿場を造ってもだいぶ無理があった。

改行マーク何故そういうところへ道を通していったかというと、 それはやっぱり戦争のためです。 西の方から攻めてくるのを一番警戒した幕府ですから。 皆さんご承知でしょう、 長野県は台地になって急に関東平野にドンと落ちてくる。 そのうちでも碓氷峠が一番けわしいので。

改行マーク本当はあの峠より南の方に良い峠道があります。 今度新しい新幹線ができたでしょう、 あれはその峠を通したから楽に越えられたのです。 それを無理にアプト式の鉄道を敷いて明治から今日までやってきた訳は、 昔のように防衛を考える必要がないのに、 そのまま無理して鉄道を敷いたから、 ああいう目に逢ったんです。

改行マーク私は20年くらい前、 今の新幹線の通じた峠を歩いてみました。 低い峠で、 わけなくその上に立ったら、 すぐ下に軽井沢の町が見えておりました。 でも昔はわざと険しいところを上下させたのです。 細いところをね。 鳥居峠も和田峠もそうでございます。 またその必要があったのでした。

改行マークそういう風にして非常に面倒な碓氷峠を上下したんですけれども、 そうでないところで楽に歩けるところはあるので、 そっちを抜けて歩く人もたくさんいたのです。 殊に物資はね、 税金を逃れる方便にもなったから。 それでは困るので、 幕府が後に碓氷峠の下に造ったのがこの坂本宿です。

改行マークちょうどあそこは山を下りますと平らな台地になっていて、 その手前はドンと落ちていやでも碓氷の関を通って税を取るようにしました。 こういうわけで、 坂本宿は後に新しく幕府によってできた計画的な宿です。 人工的な土地計画。 一本道をまっすぐに通してそれからその両側に屋敷割りをしています。 屋敷割りはだいたい間口が三間半です。 それがきれいに今でも残っています。 三間半、 あるいは二軒分の七間にしたところもあります。

改行マーク当時の町割りや宅地割りがこれほどに残っている所は非常に珍しいし、 建築も平入り切妻造りですから、 町並みがそろっていて実に美しいですよ。 私は行ってみて驚きました。 昔の峠道を登っていきますと一部からその美しさが見下されます。 とにかくそういうところだから特殊なものであり、 宿場の代表的なものであるということをお憶え願いたいと思うのでございます。

改行マーク次に一番短い宿場は近江の番場です。

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