第3回 歴史・文化のまちづくりセミナー
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中山道の町のでき方

改行マークそれで中山道の歴史と町並みの景観でございますが、 どういう形でできたかというと、 いろんなできかたがあるんですね。 中世の城下町とかね。 徳川幕府が関ケ原の戦いを終えまして、 慶長5年からすぐ準備にかかりまして、 町づくり、 道づくりをやったわけでございます。 どういう風にしてつくったかっていうと、 まず、 中世の城下町から人々を移して宿場町を造った。 蕨、 本庄、 板鼻、 長久保新町というのがそうなんでございます。

改行マークそれから近世の城下町。 高崎、 その支城だった安中、 それから福島は木曽の木材を管理のため、 幕府直系の村山氏をあてたのでした。 また加納は岐阜で、 中世から今の岐阜の南方にあった加納の城の周りをまわって宿場としています。

改行マークそれから門前町、 これはよくご存じでございましょう。 大宮の氷川神社、 熊谷の熊谷寺の門前町が発達して今のような格好になったんですが、 空襲で焼けまして惜しいことをしました。 立派な宿場でございましたけれど。 新しい町になってしまいました。

改行マークそれから下諏訪の諏訪神社下社、 御嵩の御嵩寺の門前町など。

改行マークそれから普通の集落が宿場になったのはたくさんございます。 それに集落の移動したものでは、 初めここにつくったけれど、 川が脇にあって流されて困るから移動してもっと高いところに移した宿場では望月がそうです。 上流の方にあったのを少し下げたのです。 長久保新町は下流の方にあった城下町を、 上流に移して新たに宿場を造り、 新町といいました。 沓掛は例の浅間三宿の一つです。 中軽井沢ですよ。 沓掛宿はちょっと南の方につくってたんですけど、 北に移したんです。 芦田、 これは蓼科の山裾をちょっと登った所にあったのを移したんです。 そういう風に当時の事情において変わってるんですね。

改行マークそれから、 川のためにつくったというのがあります。 新町がそうであるし、 塩名田は千曲川を渡らなければならない。 この千曲川を渡るというのが、 たいへんなことだったんでございます。 それで近所の集落から人を呼び集めまして、 町をつくった。 それが塩名田の宿です。 一番困ったのはここでしょうね、 後でスライドでお見せしますけれど、 橋も架けてますよ。 苦労してできているんですけれども、 それも度々流されていました。 中山道では千曲川を渡るというのはたいへんなことでございました。

改行マーク伏見は美濃国で木曽川の港が近いので宿場を設けた。 また次の太田宿は木曽川を船で渡す場所として出来た宿場でしたが、 その渡船も簡単でありませんでした。 また、 近江の国の愛知川宿は愛知川渡船の、 大津宿は琵琶湖の港として早くからの町でした。

改行マーク大峠の登り下りには旅人が難儀しましたので、 その麓には必ず宿場を設けて旅人の休泊に当てました。 碓氷峠の前後には坂本と軽井沢、 和田峠の前後には和田、 下諏訪、 鳥居峠の前後には奈良井、 薮原の宿場が旅人と湯女で繁盛したわけです。

改行マーク別れ道というのは、 その宿から道が枝分かれになっている。 つまり例えば倉賀野からは日光道中が出ていく、 高崎、 板鼻からも越後への道が出ております。 赤城山でもって「赤城の山の月も今宵限り……」の国定忠治は越後の方へ逃げようとして途中で捕まって殺されちゃったので、 板鼻からの越後道中の途中にその墓があります。

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