まず本の最初の頁「街道略史」を御覧になってください。 紀元645年の大化の改新のころに、 ようやく日本国が固まりましたから、 立派な道を朝廷を中心としてつくったんでございます。 それが東海、 東山、 北陸、 南海、 山陽、 山陰。 東山道には、 近江、 美濃、 飛騨、 信濃、 武蔵、 上野、 下野、 陸奥。 そうして一応日本をカバーしたわけでございます。 それから宝亀2年には、 武蔵国は東海道に入れられてしまいます。 中山道ですけれども、 中山道は東国の中です。 やがて陸奥は別れて出羽ができる。 東海道に入る。 出羽国がやがてできる。
街道の誕生
中山道略図 |
それから近世になりますと東海道、 中山道、 甲州道中、 奥州道中、 日光道中と、 これを五街道という。 すべて徳川幕府の政策によってつくった道です。 それを通じて京都からいろいろ新しい文化が来る、 物資が来る、 あるいは逆に奪い取られてしまう。 そんなことができて、 喜んでも、 困ってもいたんでございますけども、 それは幕府のためでありました。
近世もだんだん進んでいくに従って、 町人たちも農民も皆お金が出て参りまして、 いわゆる遊山を、 観光を始めました。 金毘羅参り、 伊勢参り、 それから近江多賀神社へのお参りもよくしたのでございます。
『中山道』で紹介しておりますが、 東海道146家、 中山道120家が、 例の参勤交代の各藩の家の数でございます。 だから東海道ばかり多いかというと、 そうでもない。 中山道が案外多いんです。 東海道は、 大きな川があり川留めを食らって予定が大きく狂うもんですから困っているんです。 それから宮の海の道もございますからね。
そういうことで、 山越えでたいへんですけれども、 川もわけなく行けるところが中山道でございます。 それで中山道の方を歩いたのが多うございます。
で、 和宮様はじめ女の宮様は東海道は行きません。 必ず中山道でした。 この方が警衛も大丈夫だし具合もいいのでございます。
和宮様の時は何万人という人間が歩いたんで、 大変な道中でございました。 2万5千人の人数、 これはあらゆる者を合わせてでございますけれど、 大変な数で、 どこの宿場でもいっぱいになってしまいまして、 もう困ったものでした。
その割り振りをやったんです。 今のホテルでこの人は何号室という割り振りをするように、 昔も割り振りをした。 その割り振りをしたのが『中山道宿絵図』です。
会場に展示しておりますのは、 長久保新町という、 長野県の宿場の宿絵図でございます。 宿場のあらゆる家を地図のように描いてある。 間取りまで描いてある。 こういう宿絵図はどこにもできたんです。 殊に和宮様の時にはたいへんでございました。 家老はここだ、 おまえはもっと下役だからここにしてくれ、 というようなことで書込があるんです。 おもしろいです。 とにかく和宮の時はたいへんでした。 幕府が無理にこさえさせたんです。 どこの宿でも皆つくりました。
それが幕府へ提出されるんですけれども、 写しをこさえて各宿場においてありますので、 それを宿場でお尋ねして歩くと出てくるんですよ。